ボクサーパンツが着用者の健康に与える影響――生存時間分析を用いて――
蒼穹に稲妻が駆ける。
天による地への鉄槌。遅れて雷鳴の余波が木立を揺らす。
そして一筋、天を穿つ光の柱が木々の間から生まれた。神の使いが降り立つ道筋のごとく、それは真っ直ぐ快晴の空へと突き抜けていく。
同時に、柱時計の重畳とした音が寂びれた部屋に時刻を知らせる。
――数えること八回。
つまり今は朝の八時だった。
「へへえ。迷い子の朋友ときたぞ。レンコ。」
ロマンスグレーの壮年の男が、髭の剃り残しを確かめるように喉を擦る。その灰褐色の瞳は、格子の窓枠を越えて農場の広がる方角を興味深く見やっていた。
頭髪は短く、口髭は白い。肌は小麦色に日焼けしていて、その皮膚は野獣のそれのように厚く鍛えられている。
農業従事者か、あるいは漁師といった職の似合う屈強な男であった。
石造りの古城、その広い一室は人が住まなくなって久しいことを随所に窺わせている。燭台が並ぶ食卓には埃が積もり、赤い絨毯も歩けば人の足跡が残るほどである。
風化した壁は崩れかけ、あちこちに致命的な亀裂が奔っている。いつ天井が落ちて来ても不思議ではない、惨憺とした矩形の空間。
ただ一か所だけ、人の手が加わった、時間の圧政を免れた一角がある。暖炉のある部屋の正面、そこには真新しいソファが鎮座し、膝丈の小さなテーブルも品よく設えられている。
男は朝食の途中であった。
そのテーブルに置かれた陶器のカップから、湯気が薄く立ち昇っている。
が、男は茶を淹れたことなど既に忘れてしまったかのように、窓辺に立ったまま、驚異的な速度で平原を移動する光源に注意を奪われていた。
「どんな奴だろうなあ。味方してくれるかね。」
「少なくとも弥春じいよりはまともな奴であることを切に願うばかりだがとりあえず口臭がきついので黙したままわたしをここから下ろせ。」
立って外を眺める、弥春と呼ばれた男の背で、十に及ぶかどうかといった齢の少女が落ち着いた声で縷々(るる)と窘めてみせる。
「自殺するような、親不孝を極めた人間だぞ。途方もない善人か、臆病者か、あるいは……。」
「同類、なんて言うつもりかもしれないがそれはちゃんちゃらあり得ない話だというか、じいはあれだ口にザリガニでも匿っていやしないか?いやむしろじいがザリガニであって加齢臭も度を越してきついのでいっそのこと泥沼に頭から突っ込んで生きた方がまだましなんじゃないかとそう痛烈に思う今日この頃なのではやくわたしを下ろせこれは二度目の忠告だ。」
弥春は己の背中で暴れる黒髪の少女を仕方がなく下ろす。と見せかけ、ソファに向かって全力で背負い投げした。
一連の体捌きは人を魅了するほど洗練されたものだった。
「敬愛すべき父に対して何たる言い草かあああああああああああああああ!」
「ごぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ばふん。となめされた牛革に少女は背中から落ちる。簡素な白いワンピースが重力に従って捲れ、下着が露わになった。
憤慨した彼女は、姿勢を正し、長い髪を素早く手櫛で整えると、弥春の脛を思い切り蹴飛ばした。その頬は赤くなって膨れている。
右目の下に位置している泣きぼくろが、引きつる蟀谷に合わせて持ち上がった。
「この御短珍!な、なにしやがってくれるっ!」
と、レンコは涙目で叫んだ。
「お転婆娘に愛の制裁をだな。」
「じいの娘になった覚えはない!」
弥春はまた少女を抱え上げ、米俵を担ぐように肩に背負った。レンコは抗えず、足をばたつかせ、拳で弥春の背を叩く。
「下ろせ!」と、駄々をこねるが聞き入れられない。
「にゃろう!天に代わって誅殺してやりたいところだが、どっこいわたしは慈悲深い女なのでそんな野蛮なことなどするはずもないがとりあえず指をザリガニみたいに二本にしてやるぞこの野郎っ!」
レンコは両手を掲げて威嚇する。
「お前はなんて残虐な奴だ。矯正のために今晩の夕食は抜きだ!」
「ぎょええ!じい正気か!?」
「……どのみち今日は、な。」
レンコはぐったりと意気消沈して、丸い顎を弥春の背の肉に埋める。
その紫がかった玉石の瞳はしかし、怒りの色が消え、代わりに理性の光が灯っていた。
「……やはり神国は新たな迷い子を認めないだろうし認めたところで即刻殺すまでだろうな。」
「うむ。だが戦うしかあるまいよ、能の無いものは、そうするしかあるまい。」
弥春は広くなった額をぽりぽり掻きながら悩まし気に言う。が、その表情には戦いに臨む者の気概が示されていた。
レンコは手慰みに自分の前髪を束ねて遊び、それから、
「なんだ、あれだ、じいが死んでもわたしはいっこうに構わないのだがそれだと今夜の夕餉に困るから今日のところは勝って貰わないと話にならないぞと一応は応援してやる所存でいるつもりだがもし仮に死んだとしても供養などしてやらないからやはり生きることをわたしは推奨するのであって別にこれは強要ではないから無論好きにしてもらっても構わないぞ。」
「はいはい、冗長冗長。」
「弥春じい!わたしを虚仮にするのか!?」
地面に下ろされたレンコは爪先立ちで弥春を見上げ、その顔を覗き込む。
一方の彼は幼女に怒鳴られても飄々(ひょうひょう)として蓄えた髭を撫でている。
「そういえばレンコお前、パパの口臭をザリガニだとか言ったな。」
「なんだいな?流石に少し傷ついたと見えるがあな嬉しや。」
「今度故郷に帰ることがあれば釣って来て夕食の一品にしよう。」
「じょばっ!あれを食うのは一部の物好きだけだと聞いたような気がするがわたしの味覚は平均の域を出ないものだしこの高貴な口には合わないだろうと思うのでどうか思い直してくださいお願いします!」
白髪の老人と黒髪の幼女は喧しく唾を飛ばし合いながら、二人押し合うようにして腐朽した部屋から出る。
年齢も身長も、なにかもちぐはぐな弥春とレンコ。
彼らの声が鼠色の古城の壁に吸い込まれていく。
まだ全天は雲一つない青空。
戴く太陽は世界に濃い影を落とし、昼の暑さに備えて憩いの場を用意する。
それは僅かな、小鳥が小枝に留まる穏やかな朝の一幕であった。