異世界
異世界に来た。
僕はその程度のことでは驚かない。
知悉している。
日本では「お宅」というゲテモノのような集団があって、彼・彼女らは、現実から逃避し、部屋に閉じこもり、親の脛を齧り、怠惰で非生産的な日々を送っているどうしようもない奴らだ。
そんなお宅どもが、口を油塗れにして頬張る低俗な読み物にそういうジャンルがある。
僕は違う。
僕が愛読するのは、世界文学全集と日本文学全集。
そうかといって根暗でもない。運動も出来る。足も速い。
畢竟、自ずからモテてしまう。
中学では生徒会長だった。
高校は県内有数の進学校。
有名大学合格は確実。
そんな華々しい人生の道程に思いがけず小石が投げ込まれた。
比喩ではない。文字通り小石である。
躓いた。
死んだ。
電車に轢かれた。
つまりは轢死というやつだ。
僕は慌てて辞世の言葉を残した。
「轢死で僕の人生の歴史が終わるのか。」
どうやら酸素が欠乏しているらしい。
そんな幕引きがあって、目覚めたら異世界だった。
なんか農場の真っただ中、大きな木の下に寝ている。
梢が揺れて、陽が顔に漏れる。
天国だと思った。
天国は異世界だ。
だから僕は異世界に転生したと言って良い。
「……あの、どちら様です?」
仰臥する僕に向かって不躾に問う者がいる。
「ふん。人はそうやって簡単に名前をたずねる。資本主義社会にあって、名前は本人よりも重要なものだ。肩書こそが本質だ。そうして名前だけが過重になって、社会に縛られ、逃げられなくなる……。現代において、逃走は責められることではないと、偉い人が書いていた。だから、逃げて良いんだ、苦しくなる前に……。」
僕は世の全ての自殺志願者に対し啓蒙する。
「え、えっと。よく分からないんですけど。あの、そこにいると牛さんに食べられてしまいますよ。」
「ふん。騙そうたってそうはいかない。見るからに何もないこの平原の中では、木陰は駅前並みの不動産であると看破した。ゆえに地上げには応じない。もっと価格が高騰する昼まではここで惰眠を貪る。今は朝だな、そうだろう。」
「そうですけど……。ここ、領主さまの農場、ですよ?」
「領主、か。人は天国にあっても平等とはいかないらしい。悲しいかな。……おや、お前は器量に恵まれているな、蔑ろにするなよ、美しさはそれだけで一つの価値だ。」
僕がそう褒めると妙な間があって、それから、
「え、何か言いました?」
と、そらとぼけた顔をする。なんだ、耳が遠すぎやしないか。
「君は美しいなと、そう言ったんだ。」
「ごめんさない。風が強くてよく……。」
僕は碧空を見上げて、目を瞑った。
たしかに風が心地よい。今は夏だろうか、じんわりと首筋が汗に濡れている。
死は唐突なものだ。昔はそうではなかった。ある小説家が嘆いたように、大儀に身を奉じて死ぬということは、現代では不可能になったのだ。
世界は突然に終わる。このことは現代特有の問題であって、よくよく考える必要が……。
「こら、ポメロ!だめよ、その変な人食べちゃ。ああ、ああ!ごめんさい!ごめんさい!」
「変な人か。では聞くが、変ではない人に何の価値がある。むしろ変ではない人間、真面目で朴訥な常識人こそが害悪であることが往々にしてある。それこそが人の原罪というもの……だ……うがあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
僕の足は牛に咥えられ、そのまま振り回されている。躾がなってないにもほどがある。
赤い髪にエメラルドグリーンの瞳。その時点であまり関わり合いたくない衝撃的な容姿をした少女が、なんとか牛を宥めようと食らいついている。が、呆気なく振るうう角の餌食となって彼方に飛んで行った。
本当に牛なのか、僕は腕を組んで考える。体は牛によって風車の如く高速で旋回している。丁度いい。頭に血が上って、酸素の供給は十分だ。
「沈思するまでもない。これは牛じゃないな。」
「何悠長に考えてりゅんですかぁ!」
ほとんど気絶しかけた僕は、赤髪の女とは違う幼げな声を耳に聞いて、辺りを見回す。景色は全て残像となって見えない。それに遠心力で顔もろくに動かない。
辛うじて口は開ける。
「お前は誰だ。」
「キュリュでしゅ。」
「媚態を含んだ話し方をするな。虫唾が奔る。」
「主。たしゅけて。目が、目が回りゅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
「無理だな。俺の膂力をもってしても。すでに脚が腰からちぎれそうだ。むしろまだくっついていることに驚きを禁じ得ない。」
僕は一度死んだことにより、諦念が心に根を張っている。足が千切れるなど朝飯前である。
「……腹が減ったな。」
「何言ってるんでしゅか!主!唱えるでしゅ。」
「何を。」
「頭に浮かんでるはずでしゅ!神聖にして絶対の、神の御言葉が!」
「唱える?神?」
僕は渋々、耳元から聞こえる愛らしい声に従った。
大きく息を吸いこみ、咆哮する。
「…………尽十方世界、是一顆明珠、きぇぇい!南無阿弥陀仏!」
僕が世界の蘊奥を説くと、神の怒り、もとい雷が大樹を裂いて落ちた。快晴な空に雨雲など勿論ない。
「うぎゃあああああああああああ!」
僕はありったけの輝きに包まれた。
牛は死んだ。
そして変身していた。
なんか体の周りに長短の剣が十本くらい浮いてゆっくり回っている。
ださい。
シルバーアクセサリーをとち狂ったように装着しているヤンキーもどきみたいだ。
あるいは演歌歌手の無駄に金をかけた衣装のよう。
それに服も変わっている。僕の部活ジャージはどこにいった。
なんだか濃い緑の、軍服的な恰好になっている。襟が高くて首回りが苦しい。そして一番恐ろしいのは、視界にちらりと映る前髪。なんか水色に発光している。
「だせえ。」
口をついてでてしまった。僕は見た目で自己顕示欲を満たす輩が嫌いなのだ。なんら生活や精神に誇るところのない者が、容姿で己の承認欲求を振り撒き、周りに応当を求める。迷惑千万な話である。
僕は耳元の小人、パッションピンクの髪をしたそいつに水を向ける。
「なんだこれは。」
「戦士でしゅ。主は戦士でしゅ。」
「しゅっしゅしゅっしゅうるせえな。汽車ならせめてぽっぽにしろ、この幼児天使め。」
「そうでぽっぽ?キュリュは生まれたばかりでぽっぽ。」
「……幼児なのか。それは済まなかった。謝罪する。新生児なのにそんなに言葉を知っていて、なんだ、その、偉いな。」
子供にとって自己肯定感は重要なのだ。むやみに怒鳴ったり、否定する言葉を用いてはいけない。世の母親たちには是非知って実践してもらいたい。
僕はキュリュとかいう幼児天使の頭を撫でてやる。天使と形容するのはそれらしい羽が生えているからだ。
「でも言葉遣いはきちんとしろ。可愛いからと言ってなんでも許されるわけじゃないからな。分かったか!」
「うふふふぅ。はいでぽっぽ。」
なぜか僕を取り巻く剣が高速で回転している。高周波の音が鼓膜に痛い。
僕はどうやら戦士になったらしい。
「「戦士さまだあああああああああああああああああああああ!」」
ほら、青天の霹靂を見た村人どもが血眼で集まって来た。土煙が猛然と迫って来る。
ここは本当に天国なのだろうか。
僕は疑義を抱いて、取りあえず遁走を図ることにした。