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「話題がない」

話題がない 28

作者: てるり

鶴崎君の場合


 今日もさみぃーなぁーなんて思いながら、歩くと彼女が今日も前をゆっくり歩いているのが見える。まだ小さくて遠いけれど、僕にはわかる。たまに、たくさんの通勤の人に紛れて見えないこともあるけれど、今日は良く見える。

 ああ、今日も見られてよかった、とつい微笑んでしまう。顔に出さないように努力する。朝から、ニヤニヤ一人でしていたら、ただの怪しい奴だ。

彼女が前にいると思うと、寒い灰色の風景が不思議とキラキラしてくる。この時間に彼女の姿がないと、とっくに先に行ってしまったのか、後ろにいるのか、それとも今日は来ないのかとなんだか寂しい気分になる。

 彼女はあっちこっち見ながら、行きも帰りもゆっくり帰る。毎日同じ風景、変わらないと思っていた自分と、変化を見続けている彼女。彼女の話を小耳にはさんで聞いて、彼女が毎日見ている風景をやっとちょっと知ったところだ。僕もちょっと目を向けてみる。

 最初は時間が合わなかった彼女の通勤時間。乗っている電車が違うってことも最近知った。僕が彼女に合わせるために自分の電車の時間を変えたことを彼女は知らないだろう。これなら彼女と会える。

それでもたまの電車の遅延だけはどうしようもないけれど。普段は歩くペースも走ってみたりして、出来る限り通勤途中の彼女に会えるように努力している。

 本当はもっと同じにできる。行きも帰りも同じ通勤路にできる。歩くペースだって彼女に合わせることもできる。しかし、そんなことをしたら僕だけが、彼女に夢中で首ったけのようで、なんだか悔しい。これはせめてもの譲歩なのだ。

 行先は同じなのだから、通勤途中に話しかけて、そのまま一緒に通勤。そんなことはたぶん、遠い未来だ。

 初めて会ったとき、君が笑いかけて丁寧に挨拶をしてくれた、それだけで君が素敵だと思った。挨拶は誰にでもしていることだと最近知ったけれど。

 席替えがあった今では君は目の前で微笑んでいる。チャンスが足元に転がってきたのだ。けれど、その特別な笑顔は僕に向けられることはなく、同時期に一緒に会社に入ったメンバーたちだけに向けられる。

僕はまだ、警戒されているようだ。そう考えると一緒の時期じゃなかったことがちょっと悔しいけれど、仲良くなれる様にはなにもしていないと言われればその通りなのだから、しかたがない。話すことがなくて、いつも言葉に詰まる。何か探そうと考えるけれど、質問の後にくる沈黙が怖くて僕は何も聞けない。

 朝の挨拶はあっても、帰るときの挨拶はない。それも寂しいけれど、自分だって声をかける勇気がないんだから、あきらめるしかない。

 それでも、仕事中にこっそりではあるけれど、君の嬉しそうな笑顔を近くで見ることもできるし、楽しそうな声を聞くこともできるし、疲れている顔も寒そうにしている姿もたくさん、たくさん見ることができる。いい時だけじゃなくて、そうじゃない時も見ていたい。機嫌のいい時も悪いときも素顔を見ていたい。

甘いものを嬉しそうにこっそり食べることも最近知った。昼食後はすぐに寝てしまうことも最近知った。顔に赤い痕をつけてちょっと気にしながらさすっている姿もみることができた。これをラッキーと言わず、なんというのだろう。

 本当は休憩中になにか話をしたいのだけれど。話す話題がない。彼女を困らせるようなことは聞きたくない。隣の何とも思っていない人とは話すことができるのに、どうして彼女に話しかけらないのだろう。

きっと彼女は気が付いていないのかもしれないけれど、彼女の仕事の姿勢に少しずつ周りが動いている。そんな影響力を僕も受けているのかもしれない。

 だんだん彼女の背中が近づいてくる。僕が彼女の後姿を目標にまっすぐサクサク歩く中、彼女は足元を見たり、横を見たり、上を向いたりと忙しい。僕にできることはと言えば、彼女の視線に少しでも入るように彼女の見ている方向の横を歩くくらいだ。それも彼女の視線がずれてしまえばそれで終わり。

視界に入るかどうかもわかっていない。それでも試したくなる。これくらいしか僕にできないからだ。

 彼女がこの時間にここにいるということは、会社内でも会える、そして挨拶も出来る。本当はエレベーターの中でも一緒にいたいのだけれども。そうしたら、もう少しなにか話せるかもしれない。

 それだけでいまは幸せだ。まだこれが恋だとは言えないかもしれないのだ。

 そのうち、多くを求めてしまうかもしれない。自分から声をかけてみたい、たくさん話してみたい、笑いかけてほしい、一緒に歩きたい。けれど、今は、彼女が逃げていかないように転がってきたチャンスにあぐらをかいて、のんびりいこう。

チャンスがなくなったら、実力を出そうと思う。それまでにどれだけ距離を付けられるかが勝負だと前向きに思う。

「おはようございます。」

 彼女が寒さで赤くなった顔でにこやかに微笑んで言う。まだ本気の笑顔ではないけれど、それでも嬉しい。ついさっき彼女を追い抜かしたけれど、そんなことをお互いに顔に出さない。

「おはようございます。」

 僕も返す。できる限り微笑んで。今日はこれだけでいい日になるような気がしている。単純だな、と思うけれど正直な所その通りなのだからしかたがない。

 そのうち、「おはよう」だけになればいいな。


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