2 神父さま
アメリカ合衆国、ワシントン府。在米日本国大使館。
大使館では午餐会が開かれていた。
主賓は、ニューヨーク郊外のメリノール派カトリック教会に所属の、ウォルシュ神父とドラウト神父である。二人の神父は、日米交渉の糸口を作ったとされていた。
席は、長いテーブルの真ん中に二人の神父さま、向かいに吉田大使と若杉公使、それに通訳係りの宮沢官補。二人の神父さまの両脇は、陸軍武官と海軍武官で固められている。両武官は、ここぞとばかり、礼装に勲章を並び立て、長剣を下げていた。
二人の神父さまは、にこにこと笑顔を絶やさなかった。なにしろ、大使の吉田茂はカトリックに理解があって、近く改宗するという。吉田の娘や婿はすでにクリスチャンらしい。
三人は、乾杯の前に祈りを捧げた。
二人の神父さまは、ワインを重ねると、さらに上機嫌になった。
「これは、お気を使っていただいてありがたい」
「なんのなんの、日米がここまで好転したのもお二人のおかげ」
「神父さまには感謝しております」
「主の御心です」
また、三人は十字を切った。
「われわれ日本人は、受けた恩を決して忘れないのです」
「それは、得がたい美徳ですね」
「目には目を、です」
「「・・・」」
「それで、満州での神学校と英語学校ですが」
「「は、はい」」
「メリノール派教会を全力で支援します」
「「ほんとうですか!」」
「われわれ日本人は、決してうそをつかないのです」
「それは、得がたい美徳ですね」
「歯には歯を、です」
「「・・・」」
「まずは、朝鮮からお願いしたい」
「「え」」
「東郷総督は、外務省の後輩ですから」
「あ、はい」
「お二人が行かれるのがよろしいかと」
「「・・・」」
吉田も若杉も英会話は万全である。武官の二人もそこそこ話した。
前任の野村大使と違って、通訳の宮沢喜一は不要だとも思えた。
しかし、大使や公使が使う外交官独特の儀礼的な言い回しを、宮沢外交官補は、いちいち直截な英語に話し直す。
「暗礁に乗り上げていた日支交渉を仲介し」
「満州国も承認する」
「蒋介石には汪兆銘との合流を即す」
「まったく、日本には異論がありませんでした」
「三国同盟離脱だけですから」
「「・・・」」
「一部に、野村前大使を誤解させるような表現があった」
「それは野村大将の能力不足ですね」
「米国が本気で日支の仲介に乗り気であると誤解した」
「実は、支那に割り込みたかったのですね」
「貴国の主張は、一貫して統一されていた」
「逆に、日本の国論は割れた」
「「・・・」」
二人の神父は、話が進むに連れて、もぞもぞと居心地悪そうだ。しかし、両脇の武官が、長剣に手をあてて、中座を許さない。
話は、二人の武官と宮沢官補が主導するようになっていた。
「結局は、満州国承認も日支の仲介もなかった」
「ま、なんとか今、やっていますよ」
「自力でね」
「高くつきましたよ、ここまで来るのに」
「天は自ら助けるものを助く」
「あ、これは聖書ではなかったですね」
「失敬」
「「・・・」」
「どうです。今度は独逸に行かれては」
「そうそう、米独関係を好転させるのです」
「世界平和は、崇高な使命でしょう」
「糸口はこうですか。独英の仲介と」
「東方生存圏の承認!」
「「あっはっは」」
「「・・・」」
「総統と副総統の合流も」
「「あっはっは」」
「「・・・」」
ついに、二人の神父の顔は真っ赤になった。ぶるぶると暴発しそうである。
ようやく、吉田大使が声をかける。
「どうしました、お気分が優れませんか?」
「あ、いえ。ちょっと」
「その。ワインが過ぎたようです」
「おお、そうでしたか」
「「今日はありがとうございました」」
「いえいえ、とんでもない」
「またやりましょう」
「「あ、いや。もう」」
全員が、二人の神父さまを玄関で見送る。
「メリノールの司教さまによろしくお伝えください」
「え?」
「げふん」
「次はこちらからお伺いしましょう」
「いえ」
「あ、その」
「洗礼も受けたい」
「「そ、それは」」
「わずかながら、寄進も」
「ああ、ありがとうございます」
「必ず伝えましょう」
神父さまを乗せた車が大使館を出て行くと、二人の武官は塩を撒いた。宮沢は、あかんべーをしている。
それを黙って見ながら、吉田が呟く。
「宮沢君、飲みなおすかね」
「はい。大使閣下」
「二人も来たまえ」
「「はっ。大使閣下」」
同じ頃。ペンシルベニア州。
ワシントン府からペンシルベニア州へと北上するフリーウェイを、一台のビュイックが驀進中であった。重一の運転する美号である。
フレデリックを過ぎた辺りで、ハイウェイポリスがチェイスに入った。
「来たか、ひゃっほー」
重一の美号は、右へ左へと頻繁に車線を変更する。障壁がないところでは、反対車線にも飛び込む。美号はぎあんぐあんと軋み、きるきゅると悲鳴をあげるが、重一には歓声に聞こえた。
後ろのほうでは、きーききぃーとブレーキ音も聞こえる。追ってくるハイウェイポリスのパトカーか。ミラーの中では煙も立っているが、重一は気にしない。
「まだまだ、なんのなんの」
ブレーキは使わない。
ハンドルとアクセルだけで安全に快適に、そして最高速で美号を走り抜けさせる。それがカードライブの醍醐味だ。重一に迷いはない。
「行け、美号!」
だいたい、重一には、ハイウェイとフリーウェイとエクスプレスウェイとか、区別がややこしいし、実際に判別がつかない。私有地と州内と州間の違いらしいが。そんなもの、かつて見たことも聞いたこともない。
日本では、車が走れる道の方が珍しいのだ。まして、全速力を出せる道路など、日本にはない。
「おおおっ。飛んでるみたいじゃないか」
「まさしく、自由の国だ」
「飛んでやるぞ、よしっ」
重一の美号は、先頭に立った。前方の道路は空っぽである。
ぐん、ぐんと速度が上がる。
ばぁんばぁんと、前後輪が地を蹴る音が響く。バウンドをしているのだ。
エンジンが呻る。しゅば、しゅばしゅば、しゅばー。
「ま も な く、浮く!」
美号の4つの車輪は、激しく回転しながら、空中での飛翔時間を伸ばしていた。
「あ、れ、ターンパイクだ」
突然、重一の美号は速度を落とした。
身震いしつつ、フリーウェイを降りる。
「ざ~んね~ん」
重一は、ハリスバーグ市内を流れるサスケハナ川の河畔に美号を停めた。近くのベンチに座り、煙草を吹かす。いつものエステートセダンが追いついてくるのを待っているのだ。2本目を吸い終わる頃になって、エステートセダンが近くに停車するのを確認できた。やれやれ。
在米日本大使館の館員は、米国連邦捜査局FBIの監視下にある。
そのエステートセダンは、重一と美号の担当らしかった。最近は、美号がハイウェイポリスとのチェイスに入っても、無理に追っては来ない。重一が南北戦争の史跡を廻っていることを、理解したようだ。
山藤重一は、非番の日は、愛車の美号に乗って東部を回るようにしている。
何と言っても、合衆国の起源は東部13州にあり、北軍の根幹であった。さらに、ペンシルベニア州は、リンカーンの共和党が生まれた州である。
ペンシルベニア州には、東に独立の都であるフィラデルフィアがあり、西にフロンティアへの玄関口であるピッツバーグがあった。州都ハリスバーグはその中間にあり、水陸交通の結節点である。南北戦争最大のゲティスバーグの戦いでは、後方兵站基地となった。
前回の行程がきちんと報告されているのならば、今回の目的地はゲティスバーグではなく、ハリスバーグであろうことは容易に推察できる。
つまり、FBIは、ちゃんとした組織だということだ。
(それならそれで、対案を考えるさ)
重一は、煙草を銜えたまま美号に戻る。
すぐに煙草を消す。車の灰皿には濡れたトイレットペーパーが敷かれてあった。
夕方。ペンシルベニア州、ハリスバーグ市。
サスケハナ川に面した、そのボートハウスは喧騒の真っ最中であった。
この週末に、対岸の島でボーイスカウトの地区大会があるらしい。ひっきりなしに自動車が入って来て、制服に身を包んだ子供をおろす。送り出す父兄も、出迎えるシニアも、この季節に、半ズボン、ハイソックスである。
ボートハウスの雇人には、東洋人が多かった。まさか、スーツは着ていないが、上着の下はシャツである。美号を追ってきたエステートセダンの主も戸惑う。喧騒の中で、ボートが川に出されて、エンジンがかけられた。東洋人が奇声をあげながら、大荷物、小荷物を抱えて駆けずり回る。
山藤重一は、ボートハウスの一室で、山崎従次と向き合う。ここは、重一が手配したセーフハウスの1つである。
「やあ」
「うん」
「連れは、島に渡ったらしいね」
「うん」
「あの島の名前を知っているかい?」
「いや」
「スリーマイル島、と呼ばれてるらしい」
「へえー、川の3倍か」
「そう、サスケハナはインディアン語で、1マイルの川幅らしいね」
「飲もうか」
「飲もう」
「「ふふふ」」
二人は、冷蔵庫のビールで乾杯する。
「ねえ、重一」
「なんだい、従次」
「バドワイザー、って」
「ああ」
「悪賢いかな?」
「ブドヴァイゼルはドイツ語だよ。知ってるくせに」
「えへへ」
「うふふ」
「ふふ」
「「うっふっふ」」
「「あっはっは」」