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神奈川県、川崎市、登戸。夕方。
山口志郎は家の外で清水憲兵中尉、岩山憲兵伍長と別れる。玄関に入ると吾朗の靴があった。きれいに並べてある。志郎は微笑むと大声を出した。
「ただいま」
「お帰りなさいませ、旦那さま」
「帰って来たか」
「はい、吾朗さんは午後早く」
「お帰り、父さん」
「おっ、元気そうだな」
「先にやってるよ」
「すぐにいく」
女中のきくは奥の八畳の和室に先回りして、乱れ箱を準備する。客間兼用の書斎に鞄を置いた志郎が入ってくると、着替えを手伝う。この部屋は吾朗の六畳間に続いており、二人の着替えや布団部屋でもあった。そのまま襖を開けて居間に入る。きくは廊下に出て台所に行く。
「久しぶりだな」
「はい。父さん、お土産」
「ほぉ。暹羅のソーセージか」
「嗅がなくても大丈夫だよ。どうぞ」
「そうか、ありがとう」
吾朗は仏印に行っていたが、国境を越えてタイまで足を延ばしたのだろう。皮や耳を混ぜたソーセージはビールに合う。慎重に青い獅子唐を外しながら志郎は噛む。まだ冷たいのは冷凍してあったのだろうか。台所の方で声がする。非番になった岩山が夕飯をもらいに来たらしい。
台所からは風呂の焚き口を通じて外へ出れる。護衛の清水と岩山、交代要員の新田と川谷は隣の家に寝起きしていた。この家と同じ造りで左右対称、玄関には山口の表札が出してある。きくは隣家の掃除と賄いもやっていた。もちろん、山口家の分とは別に、給金と食材費は陸軍から出る。
「きくさん、伍長に土産を分けてくれ」
「はい、旦那さま」
「大佐、いただきます」
「青いのは喰っちゃいかんぞ。中尉にも注意だ」
「了解であります。おやすみなさい」
「おお、明日も頼むぞ」
「タイにも行ったことがあるんだね」
「欧米以外は、だいたい行ってるな」
「景気がよくなったね、日本は」
「強兵だけでなく富国もしないとな」
「今度は2週間は居れる」
「温泉でも行くか」
「どこがいいかな」
「熱海、那須、伊豆・・」
(・・・)
ふと、吾朗は気を感じた。父の志郎は剣道有段者だから殺気には気づく筈だ。平気で飲んでいるのは害悪を感じてないからだろう。誰かに見張られているが、身の危険は感じない。それどころか・・。
「ねえ、父さん」
「ん、どうした」
「惚れられるって、どんな気持ち」
「おお、そうか。そうだな、えーと、痛し痒しだ」
「ええ、わからないよ」
「嬉しいのには間違いないが、困るところもある」
「へえ」
「相手を好きになれるかだ」
「応えなければならないのか」
「そうだ、わかるか」
「なんとなく」
庭の隅に潜んでいた早苗は、出直すべきか思案する。
LN東條戦記第3部 完




