1 宝船
帝都東京、首相官邸。午後。
5月に入って最初の月曜日、首相官邸の小部屋には各省の審議官や参事官が集まって来た。入室すると、司法省参事官の肩を叩いて賛辞を述べる。
「やあ、大活躍だったそうだね」
「いやいや。まだまだ。なんのなんの」
「日焼けしたね、ご苦労様でした」
「兵隊さんに比べたらいくらでもないさ」
かわしながらも、司法省参事官はちょっぴり自慢だった。実はとっくに帰国していて、ずっと家の風呂に浸かっていたのは内緒だ。だから、天長節にあわせて特別配給された桃缶もしっかり食べている。足腰の痛みは治った。
明日の閣議は、先週の総選挙の結果を踏まえたものになる。次の議会は25日に召集の予定であるが、その前に議会対策の戦略を練っておかないといけない。人工景気の中間報告も用意しておく。税制改革や地租改正、農地改革から国防基金は時限法への改訂が必要だ。
「すまん、議会対策は後回しになった」
「明日の閣議で確認することがあるそうだ」
「首相の地方出張が今週末までかかる」
「だから人工景気の中間報告も来週だ」
「効果を自ら確かめているのか」
4月になって禁足令が解かれると、東條首相は精力的に各地を視察して回った。長野県、北海道、佐賀県の新幹地の候補地を筆頭に、岩手、山形、島根など帝国大学移設の予定地である。経済変革、教育改革の中心地となる地方だ。あと1回の出張で20道府県となる。
「では、時限立法からやるのか」
「そうだ。12年と15年の二案」
「改定案を2つ作るのだな」
「新法ではない、旧法を見直してくれ」
「旧法令のうちで時限法に改定すべきものか」
官僚たちは、それぞれの省庁の担当法令の一覧を出すと、作業に入る。法令の中身はすべて頭に入っているから、一覧を指で追いつつ帳面に必要事項だけを書き出す。しばらくの間、ページをめくる音と鉛筆を走らす音だけとなる。
「なあ、総理は内閣改造はやるのかな」
「そりゃ、やるだろう」
「誰が動く?」
「ん。君が思っているとおりだよ」
「そうか、やはり中野さんか」
作業が終わった者は部屋の隅に集まって、お茶を飲みながら内閣改造の下馬評をはじめる。陸海外蔵官は動かせない。内務大臣も代わったばかりだ。だいたい東條内閣自体がまだ半年である。やるとすれば、理由は総選挙結果と省庁再編だ。
「入るのは中島さんだよな」
「間違いないが、本人か腹心か」
「あっ、本人は閣外もありか」
「内外蔵につけないとなれば、ね」
「新設の省次第だな」
「「ふ~む」」
東條内閣が企図するのは日本変革だと、参事官らにはお見通しである。不明なのは、世界における日本の位置だった。国際的な地位や各国に対する立場は、欧州大戦中の現在、不確定なことばかりだ。帝国自体、中立を宣言したわけでもない。
「大きく米英に寄ったのは間違いないが」
「海軍が言うには、今は旗幟鮮明の時期ではないと」
「太平洋がわが海になったからか」
「いずれ米英の戦艦が戻ってくるぞ」
「だから大戦終結までは不鮮明のままで」
「首相の考えもそれか」
「違うらしい。まだ米英を見定めきれないと」
「なるほど。で、どうする」
「議会だな、今月はじまる」
「ええ、議会の意見を容れるのか」
作業を終えて、話に加わる官僚が増えて来た。まだ作業を続けているのは、内務省と鉄道省、逓信省の3人。担当する法令が膨大か、扱う分野が広すぎるからだ。それは、つまり予定されている省庁再編の対象でもある。
「それも違うな」
「すると?」
「議会の進捗を参内して報告」
「そのあと陛下との懇談の場で」
「なかなか考えたな」
「組閣の勅命では和平を望まれたが」
「連合国に入れば、独伊と開戦となる」
「果たしてそれを宜とされるのか」
「まずは議会の反応を上奏する」
「地方出張で国民とも接した」
東條首相はこれまで、組閣の勅を至上命令としてやって来た。和平を前提とした内政変革もずいぶん乱暴に進めた。開戦回避、対米融和は明確であったから、全力で邁進できた。しかし、その実現後は不透明である。
帝国の新国策遂行要領で、対米武力発動を見合わせるのは先月末までだった。概ね半年間で実現の見通しが立っていなければ、旧に復する可能性もあったのだ。しかし、5月になった今、新国策のほとんどは達成されたといっていい。
「3月末の時点では国策の三が未達だった」
「なぜ米英蘭と明記したのか」
「ぼかせばよかったのに」
「昨年の状況では無理だった」
「いまさら大本営の暴走はないだろうが」
「首相に対抗できる政治勢力が1つ減る」
「大本営の解散の前に、結果報告が必要だ」
「来週にでも大本営政府連絡会議が開かれるだろう」
「次の国策策定は内閣の仕事となる」
「内政はいいとして、外交が問題だな」
そこへ、内務省審議官が加わった。全員の作業が終わったということだ。
「なんだ、盛り上がってるじゃないか」
「ああ。済んだのか」
「うん。この後は省庁再編もあったんだが」
「司法省は1ヶ月も不在だった」
「わかった。意見交換を続けよう」
「この先は後戻りがきかない」
「そこで陸海軍は総力をあげて」
「外務省と組んだのが、先月の大攻勢だ」
「それも3つを一斉に」
「え号、ら号、ふ号」
陸海軍が外務省と協力して進めた3つの作戦は、成功裏に終わった。経過や結果は必ずしも作戦計画のとおりではない。しかし、帝国の戦略目的は達成したのだから成功だ。敵国と戦争したわけではないので勝利ではない。
「戦争なしでも、これだけできるのだな」
「「たいしたものかもしれない」」
「ま、あれだ。周到な準備と全力攻勢」
「けちると逐次投入になるからな」
「情勢変化への即時対応、柔軟な変更」
「選択肢が多いと、出たとこ勝負ができる」
「先手先手でいけたのもある」
「え号作戦で溥儀皇帝の面子は立った」
「蒙古の忠誠は揺るがない」
「次は寧夏か新疆か」
「工藤顧問官なら甘粛から青海だろう」
「満洲の対日協力は万全だ」
「内面指導を止めても安心」
「米国資本導入もうまくいく」
「英国が蘭印を占領するとはな」
「アングロサクソンの面目躍如だ」
「オランダが裏切られるのは何度目だろう」
「利用だろう。空気を読まないからだ」
「総督も女王も了承したという」
「では、艦隊司令官の責任となる」
「「よくあることだ」」
「仏印総督は大喜びという」
「危ういタイミングだった」
「数週間遅れていれば」
「タイを後押ししたのは英国だ」
「仏印は空気を読んだ」
「中立宣言では、英国も押せない」
「結果がすべてだ」
参与官らは、帝国の3作戦についておおよその事情をつかんでいた。しかし、国外での突発的な事件に関しては予備知識もあるはずがない。ここは外務省の出番だ。
「いろいろとあったな」
「第3次上海事変、デトロイト暴動」
「マルタ島陥落、トブルク陥落、英第8軍全滅」
「ドゴールの変心、仏印の中立宣言」
「太平洋艦隊の大西洋回航」
「一ヶ月の間に世界は一変した」
「「そうだとも!」」
南米。ベネズエラ、首都カラカス。夜。
ベネズエラの首都カラカス市郊外の別荘地でパーティが行なわれていた。
ホストの三井物産中南米支店の新庄支店長は、政財界の有力者らと乾杯を交わす。が、今宵の人気は、新庄の秘書に集中していた。緑がかった深い黒色の長い髪、透き通るような白い肌の秘書嬢は、深紅のカクテルドレスに身を包み、招いた紳士たちから乾杯を受けていた。
彼女がシャンパングラスを上げるたびに、露わにした二の腕の産毛がきらきらと光り、腋の翳りがシャンデリアに晒される。ヒールを履いた高さは6フィート近いか。だが、その顔立ちと眼は日本人特有のものだった。
「トミとはどういう意味なのです」
「リコ、豊かな、です」
「確かにお美しい」
「うふふ。でもトゥレセの意味もありますのよ」
「ええ、ゴルゴダの13ですか」
「不吉かしら」
「とんでもない。ぞくぞくして来ました」
「うふふ」
脇で聞いている新庄は顔を顰める。ニューヨーク支店長の紹介で会った山後富子は、たしかに有能であった。英語、ドイツ語、スペイン語が話せる。おそらくポルトガル語やイタリア語もわかるだろう。それぞれのタイプライターも使いこなせた。
簿記も経理も出来るし、試算表や決算書も読みこなす。コントラクトはもちろん、L/Cからインボイス、マリンサーベイ&スウォンまで、なんでもござりだ。その時、新庄は自分の幸運を感謝したものだ。
半年前に死病を克服した新庄である。一生分の運を使い果たしたと思っていたのに、任務に不可欠なスタッフにめぐり会えたのだ。俺はついていると思ったが、その晩、やはり間違えたと悟った。新庄は富子の裸体を目にしてしまったのだ。
「ボス、試掘の許可が出ましたわ」
「そうか。これで第三図南丸は居座れるな」
「よかったですね、ボス」
「うん。早瀬中佐に打電しなきゃ」
「電文はこれでよろしいですか、ボス」
「よくできてるぞ」
「ありがとうございます」
「ねえ、山後君」
「あら、ボス。とみと呼んで」
「いいや、山後君」
「はい」
「君は、支店長どころか社長も務まるんじゃないかな」
「はい、ボス」
「え。出来るのか」
「でも、そうすると誰にお給料をもらえるのか」
「・・・」
「おかしいですか、ボス」
「いや、支店長と呼びなさい」
「はい、支店長。とみと呼んでください」
「げふん。いいや、山後君」
「残念ですわ」
「げふんげふん。あのね」
「電文を打ちますわ、ボス」
「はい。お願いします」
「偽装も手配できました、さっきの紳士さんに」
「ありがとう。って、えええ」
「これからデートです。おやすみなさい」
「あああ」
新庄はおかしくなりそうだ。ふとした偶然で目にした富子の体は、男のものだった。彼女いや彼は、山後富子ではなく山後十三男だったのだ。
南米。コロンビア、カルタヘナ沖。昼。
第三図南丸は、ようやく錨を降ろすことができた。
早川船長も早瀬中佐もほっとした。いくら2万トン近い油槽を持っているといっても、積んでいるのは重油だけではない。半分以上は鯨油なのだ。それに、1割近くが改造されて油槽に使えない。海水を貯えることはできるのだが。
陸軍中尉の増田信夫は第三図南丸の甲板で、任務の説明を受けていた。増田は、昨年の南満洲油田発見の功で一階級昇進した。和戦の決定へ与えた影響は大きい。しかし、その後の任務は専攻の石油地質学でも地層学でもなく、土方だった。土掘りといえば同じだが、地下に掘削道を作るのだから鉱山学ではないのか。
はじめのうちは金鉱や銅鉱などの探索だったから、まだよかった。地図や空中写真の上に既存の鉱脈と坑道を書き込み、地勢を見ながら、山中や坑道を回る。満州と違って日本の山は険しかったが、楽しくもあった。10ほどの新鉱脈が発見できた。発見までの経緯を報告書にまとめた。あとは、民間の鉱山会社が引き継ぐらしい。
増田の次の任務はやはり土方だったが、実態は泥棒だった。帝国は、国際取引に用いる正金や正銀が不足らしい。増田は作戦開始前に、本当に軍務なのか確認をした。その結果、ビンタを張られた。上司も不満だったのだ。それを知って、少し気が楽になった。外国から盗めば戦争になるが、国内からの拝借なら返せばいいのだろう。
目標の近くに土地を借りると、現場事務所を立て壁で囲う。擬装と目隠しが済むと、掘削機器や工具を搬入し、真昼間から堂々と隧道を掘る。邸宅の地下に埋められたお宝を回収し、そっくりの贋物を置いて埋め戻す。場所は帝都のど真ん中の大商や大名の旧屋敷、お宝は千両箱が多かった。
「やっと、専門の石油探鉱ができます」
「増田中尉、誤解してもらってはいけない」
「え。違うのですか、早瀬中佐」
「探すのは金銀財宝がぎっしり詰った宝箱だ」
「はああ、また盗掘ですか」
「収集と理解してもらえれば、嬉しい」
「この辺なら絶対に石油が出ます」
「中尉が言うなら間違いなかろうが、残念だ」
「うまくいかないものであります」
「復唱!」
「増田小隊は第三油槽にて沈没船を探索します」
「すまんが頼むよ。中尉」
第三船倉の部隊に戻る増田中尉の後姿を見ながら早瀬中佐は思う。本来ならば、カラカスに寄港し休養した後に、パナマ運河を見張る予定だった。しかし、太平洋艦隊の出港が予想よりも早く、直行することになってしまった。
上陸して憂さを晴らせなかったので、士気は落ち込んでいる。しかも一日中、島影に隠れていたのだ。なにしろ第三図南丸はでかくて目立つ。すでに2ヶ月以上も海の上にいるから、全員が倦んでいた。思わぬ失敗や事故が起きるかもしれない。
(うまくいかないものだ)
第三図南丸に向かって猛進するクルーザーがあった。中には富子がいる。
「無聊は慰めなきゃ」
「気鬱は晴らさなきゃ」
「わかってるわね、みんな」
「「シー」」
 




