10 衝突
夜。帝都東京、教育総監部。
定時を過ぎると、土肥原大将はすぐに地下室に降りる。定席の椅子の上から天下三分儀を眺め、あちこちの点灯についていちいち確認する。
「パラオ沖は海上補給だな」
「はっ、あと1時間はかかります」
「遅い、何をやっとるか」
「捕鯨船を戻したので、油槽船が足りません」
「そんなもん、作戦計画に入れておけ」
「計画より速度を出しましたので」
「げふんげふん」
副官の禄雄は土肥原の視線を追って、先回りする。
「東洋艦隊が出港しました」
「編成は」
「空母1、重巡2、軽巡1、駆逐艦4」
「樋口」
「油槽船が2隻、先行しています」
「駆逐艦が少ないと思う」
「先日不在の駆逐艦が」
「それだ」
土肥原は4つの半球儀を見比べるが、すぐに首を振る。
「どうもいかんな、これでは」
「総監、グリニッジと赤道で区切ってはだめです」
「どういうことだ」
「先日、船舶司令部に出張しましたが」
「そうだったな」
「あそこの半球儀は傾いておりました」
「「・・・」」
「そうか、南回帰線か」
土肥原はすぐに理解した。さすがだと樋口は思う。
「東洋艦隊は東へ行ったと」
「マラッカからは視認報告がありません」
「油槽船を追った漁船がいます」
「それだけでは判断できん」
「はい。この後、北か南か」
「両方ではないのか」
「え、挟み撃ちですか」
「「あっはっは」」
土肥原と樋口の間では、東洋艦隊の問題は解決した。
「副官、太平洋艦隊出港は海軍特務か?」
「はっ。グアム経由でマニラへ向かうかと」
「ハワイからグアムへは15ノットで10日」
「油槽艦は何隻だ」
「電文にはありません」
「これだ。ばかめが」
「総監、ら号作戦には間に合いません」
「もちろんだ」
「ひょっとすると」
そこで、土肥原は樋口に目配せする。樋口は頷く。
「帰路を狙うのかも知れませんな」
「そうだな。タラカンまで4日もない」
「上陸占領に2日かかるとして」
「施設を復旧して油送するまで3日」
「帰る頃に、待ち伏せしているわけだ」
「ら号艦隊は戦艦4の空母2」
「2隻は巡洋戦艦で装甲が薄い」
「軽空母で艦載機は少ない」
「戦力は半分以下だな」
「・・・」
東半球、早朝。太平洋、パラオ西方。
蘭印領海に入ると、ら号船団は全速を出した。巡洋戦艦金剛と榛名は、第1戦速で先行する。金剛に乗り組んだ王立海軍の連絡士官は気が気ではない。
「中尉、また艦速があがったようだが」
「第2戦速になりました。中佐どの」
「はああ。わたし宛の電文は」
「ありませんね。まだ10分です」
「ふう」
「明日の昼には開始できます」
「なにを始めるのだ」
「艦砲射撃ですよ」
「えーっ」
その時、爆音が聞こえて、王立海軍の少佐は空を見る。通過したのは、艦上戦闘機の編隊だ。
「あ、空母もいました」
「いたらどうする」
「未明には航空攻撃ができます」
「「・・・」」
「中尉、電報を頼みたい」
「はい。いいですとも、中佐」
「ちょっと待ってくれ」
「平文じゃないんですか」
「げふんげふん」
午前。帝都東京、外務省。
重光外相とクレイギー英国大使の会談がはじまって1時間になるが、結論には至らない。
「大使。蘭印は公式の場に出て来ません」
「亡命政府の説得は終わっているのです、大臣」
「まさか、ウィルヘルミナ女王ですか?」
「げふん、チャーチル首相が訪米中でして」
「頑固、いや強固な意思の方でしたね」
「あと1日下さい、その蘭印も米国も」
「ご承知でしょうが、保障占領は戦争ではない」
「それはノーコメントと申し上げた」
「戦争ではないから政府が主導していますが」
「あっ、統帥権ですか」
「一旦戦闘が始まれば、こうはいきません」
「うう」
「米国艦隊も出動したという」
「いや、それは」
「開戦となれば、作戦に介入できません」
「大英帝国の威信にかけて、解決します」
「蘭印総督も石頭でしたね」
「あ」
夜。帝都東京、教育総監部。
「シカゴは何だ」
「デトロイトで喧嘩が起きたと」
「そうか、よし」
「ガザラで独伊軍が総攻撃開始です」
「よくやった」
「上海の英国領事館の女性秘書2名が欠勤」
「いいぞ」
「大統領の今朝の血圧は、180の150」
「もう少しだな」
「第三図南丸です」
「おおっ、どこだ」
「赤道祭の出し物は白浪五人男」
「遅すぎる」
「カラカス北方の群島は蘭領です」
「ふん、新庄め」
「油槽船です、寄港しなくても」
「よし、それでいこう」
「仏印駐在武官の長少将から酒はまだかと」
「放っておけ」
「いいのですか」
「あいつの酒はしつこい」
「甘やかしましたな」
「げふんげふん」
「ロンドンです」
「誰だ」
「ドゴール将軍が人事不省」
「量を間違えたか」
「解毒の黒素は?」
「ある筈です」
「次はら号船団」
「待て」
「「・・・」」
「一服しよう」
「「ほっ」」
東半球、未明。太平洋、セレベス海。
ら号艦隊では、空母瑞鳳と祥鳳が艦載機を発艦させようとしていた。
瑞鳳の飛行甲板上を一条の白い煙が走る。艦は風に立った。零式艦上戦闘機4機は後方エレベータの前に一列に並んでいる。九七式6番陸用爆弾2個を下げた九九式艦上爆撃機4機は甲板最後尾から千鳥に置かれ、片方の主翼は海上にあった。零戦より一回り大きく、1トンも重い。発動機の馬力はほとんど同じだから、発艦には倍近い距離が要る。
発動機の爆音が一際高くなった。発着甲板指揮官が旗を振る。
『マテマテマテ』
「「えええー」」
艦は回頭し、艦首を西に向ける。そして、艦速も第1戦速に落とされた。
午前。帝都東京、外務省。
重光外相とクレイギー英国大使の会談は挨拶ぬきだった。
「なんとかタラカン空爆は制止しました」
「国王陛下が女王を説得します」
「マカッサル海峡から蘭印艦隊が迫っています」
「会談は9時からです」
「6時間もある。航空攻撃ができない」
「戦闘は不要です」
「日が暮れれば船団も危険になります」
「船足を止めてください、大臣」
「大使。一方的な不利は軍が承知しない」
「8時に繰り上げます」
「4時間が限度です」
「なんとか5時間を」
「艦載機は降ろしませんよ」
「30分毎に電話します」
天を仰ぎつつ、クレイギー英国大使は出て行く。
東半球、正午。太平洋、セレベス海。
ら号船団は、タラカン東方100海里の海上にあった。
神州丸を旗艦船に各種揚陸船5、輸送船2の合わせて8隻の船団は、2列横隊を組んでいる。その周囲を戦艦2、軽空母2、重巡2、駆逐艦8のら号艦隊が護衛していた。上空には戦闘機6機、さらに西方と南方を水上機4機が警戒している。
もしもタラカンに蘭印空軍機があれば30分で飛んでくるのだ。神州丸の電探室では操作員がたせ機のスコープを睨んでいた。あきつ丸と摩耶山丸ではす号機を運用できたが、艦船が多過ぎてあてにはならない。一式指揮連絡機が対潜見張りにあたっているが、それも日暮れまでだ。
150海里南方の海上を、艦隊から分派された巡洋戦艦2、軽巡1、駆逐艦8が急行していた。北上する蘭印艦隊を迎撃するのだ。先行した艦載機が視認した蘭印艦隊は軽巡3、駆逐艦7だから、戦力的には知れている。
しかし、快速にものをいわせてすり抜けられると、船団が危険にさらされる。おそらく蘭印鑑隊はいくつかに分かれて、突破しようとするだろう。個艦突破となったら始末に終えない。
マカッサル海峡の最狭部はおよそ100kmで、11隻では有効な封鎖には至らない。金剛の艦橋では、隊形について喧々諤々の論争が起きていた。阿武隈の第1水雷戦隊長は衝突戦を具申したという。
「中佐。外に出てはいけませんよ」
「そうなのか、中尉」
「距離があるうちに空襲すればよかった」
「それは」
「不利になったのは英国が止めたから」
「しかし」
「ただではすみません」
「ひぃ」
「まもなく4時間が過ぎます」
「5時間に延ばしただろう」
「あと30分で交叉するのです」
「うう」
「艦載機は下げましたが、フネには何百人もいる」
「え」
「敵艦が横切るのに誰一人撃たないとでも?」
「まだ敵じゃない」
「応答しないのは敵ということです」
「しかし」
「全艦沈めれば誰もわからない」
「わたしがいるが」
「じーっ」
「えっ。まさか、中尉」
「にやり」
午後。帝都東京、外務省。
重光外相に英国大使館から電話が入った。
『成功です、大臣』
「説得したのですね」
『あ、その。うん、解決です』
「わかりました、作戦を中止します」
『夕方、お目にかかりましょう』
「シャンパンを用意しておきます」
『げふんげふん』
「大臣」
「天羽君。外交の勝利だ!」
「おお」
「大本営に電話を」
「はいっ」
「それと車だ、官邸へ」
「了解しました」
東半球、午後。太平洋、セレベス海。
「中佐どの、電報です」
「よし来た。ふむふむ」
「成功したのですか」
「残念そうだな、中尉」
その時、艦が大きく傾く。変針だ。中止命令が来信したのだろう。
「やんぬるかな」
「上がっていいかな、中尉」
「ご案内しましょう」
「ふっふっふ」
しかし、中佐を見た金剛艦長の表情は困惑であった。
「中佐、どういうことです」
「なにがでしょう、艦長大佐」
「蘭印艦隊が発砲しています」
「ええ、そんな」
双眼鏡を借りた中佐は艦橋の横から南を見る。たしかに発砲の閃光と煙が見えた。
「こちらに撃ってはいないようですが」
「そうなのです、中佐」
「すると」
「蘭印総督府が割れているのか」
そこへ、通信長が電信簿を持ってくる。
「艦長、艦隊司令部より至急電です」
「読め」
『ラクニクルシムラクインキョ』
「作戦中止ではなく作戦終了だと」
「では、あの発砲は」
連絡士官の中佐が艦長を振り向き、敬礼をする。
「ホワイトエンサイン、王立海軍です」
「お見事ですな」
艦長は、ゆっくりと答礼を返した。
夕方。帝都東京、在日英国大使館。
長文の訓令電は、国王女王会談の顛末についてだった。
ウィルヘルミナ女王を知っているジョージ6世国王陛下は、はなから説得など考えていなかった。ただ、一方的に告げた。会談は5分もかからなかったという。
『貴方の油田は大英帝国が占領します』
『貴方の艦隊も王立海軍が殲滅します』
『これは通告です。反論は容れません』
『今すぐ、総督に命令なさい』
『1インチでも日本の艦船に傷をつけたら』
『ドーバーを泳いでもらいます』
『それでは、ご機嫌よう』
おそらくそうだ。電文には会話まで記されてなかったが、予想はついた。クレイギー大使は、深くため息を吐く。これは、英国外交の勝利なのだろうか。大英帝国には選択の余地がなかった。最善が望めないなら、次善を採るしかない。
大日本帝国からは戦艦6隻をもぎとるつもりだった。聯合艦隊は新型艦2隻を含めて12隻の戦艦を持ち、さらに2隻を建造中だ。半分は出せるだろうし、残した6隻で仕事は出来る。
英米は対独戦に専念するのだ。一時的に戦艦不在となる太平洋の保全は日本に任せる。問題はない、米国は説得できる。日米間への積極関与こそがクレイギーの持論だった。
「秘書官、日本外務省に行く」
「サー、車は待たせてあります」
「損して得とれか」
「サー?」
「東西、考えることは同じだな」
東半球、夜。蘭印、ボルネオ島、タラカン港。
タラカン油田と一帯は、王立海兵隊が占領していた。港内を進む金剛は、英国の空母や駆逐艦とすれ違う。油送桟橋には、すでに日本海軍の油槽艦が取りついていた。
「世話になったな、中尉」
「中佐どの、ご武運を」
「ありがとう」
港外に停泊した旗艦コーンウォールに向かう連絡艇の中で、中佐は気づく。
「おい、船団はどこだ」
「なんのことです。中佐」
「日本軍の輸送船だよ」
「油槽艦は見ましたが、輸送船は見ていません」
「しまった」
「どうしました、中佐」
「艇長、戻せ。金剛に戻るんだ」
「ええ」
「いや、空母に向かえ。飛行機なら追いつける」
「ええええ」
ら号艦隊はタラカンに入港したが、ら号船団は入港しなかった。
東半球、朝。太平洋。
神州丸はスル海を出て南支那海に入った。
「昨年から思うと、一周したんですね」
「輪廻だな」
「秘匿名が仏号作戦です」
「誰にとって不都合なのか」
「そりゃ米国でしょう」
「長少将がお待ちかねです」
「日本酒は大丈夫か」
「大吟醸50樽です」
「豪勢にやったな」
「「あっはっは」」
ら号船団はふ号船団と符号が変わった。12ノットで西に向かう。
夕方。帝都東京、教育総監部。
地下司令室で、三人は煙草を吸っていた。
「一段落ついた」
「「はっ」」
「たまには英気を養うか」
「「はっ」」
え号作戦とら号作戦は終了したが、土肥原の謀略はまだまだ続く。
「閣下は大混乱がお好きですから」
「そうだとも」
「「あっはっは」」
誰もいなくなった司令室の半球儀で、上海の赤灯が点滅する。




