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午後。首相官邸。
執務室の東條に、陸軍大臣の山下泰文中将から電話が入った。
参謀本部から本間次長が来ている。近々に予定されている防衛総軍特別演習の実施要綱に疑義があり、山下陸相が説明しても納得しないという。
昨年11月に日支和平が成って、支那からの撤収も山場を迎えようとしている。帝国は今、平時に戻りつつある。大本営の解散も準備中だ。だが、現に存続中の大本営陸軍部に対して、新任の陸軍大臣では説明も説得も限界があった。戦時の参謀本部は統帥部であり、陸軍の一部門ではない。
「すると、あの件か」
「はい。その件です」
「そうか。あれを吐露するしかないか」
「力及ばず、ご迷惑をかけます」
「もともと政府がねじ込んだものだ。こっちでやる」
「恐れ入ります」
「それはいい。ただ、ここではちょっとな」
「そうでしょうね」
東條は、素早く考えを巡らせる。対案はあった。だが、山下陸相の言い方が気になる。(そうか。そういうことか)
「陸軍大臣、考えがあるのだな?」
「思うに、あれを吐露するならば、外相を絡ませるべきかと」
「官邸ではふさわしくない話だが」
「公邸でよろしいかと」
「よし。外相との懇談の場に参謀次長が同席」
「それでよろしいかと」
「わかった、それでいく」
「陸軍省からは栗林を出します」
「そうだったな。証人が要る」
「栗林は、米加両国で駐在武官をやっております」
「本間は英国だった」
「はっ」
陸軍大臣の山下泰文も次官の中村明人も、独逸駐在武官であった。東條自身もそうである。
「すまん。配慮に感謝する」
「ご奉公です」
「ああ。そうとも」
「では、軍務局長には念を入れておきます」
「わかった。これから総長に電話を入れる」
「よろしく願います」
「うん。うまくやるさ」
「はっ」
電話を置いた山下は、待っていた本間中将に説明した。
本間は、ちょっと頭を傾げたが、首相が参謀総長に電話すると聞くと、頷いて出て行った。
(ふーっ)
山下は息をついた。
参謀次長の本間雅晴中将は陸士19期で、陸大27期の優等である。山下は陸士18期で、陸大は28期の優等。陸士と陸大では後先が入れ替わっているのだ。
陸軍大臣は親任官であり、中将といえども大将への指揮権はある。しかし、それは陸軍大臣としてのもので、人事や賞罰に関してだ。
(どうも、やり難い)
(陸相を降りた東條は、もっとやり難いだろうな)
そう感慨した山下は、陸軍大臣就任の時を思い出した。
年末の内閣改造で、東條首相は兼任していた陸軍大臣と内務大臣を同時に降りたのが、その親任式は個別に行われた。東條の手向けである。
山下は、陛下と拝謁できて感激した。226以来の確執などあり得ない。もとより元首と臣下なのだ。陸軍軍人にとって、陛下は元首以上の存在である。
東條は、陸軍省での引継ぎで特別なことは何も言わなかった。すべて任せるということか。
「よろしく頼む」
それだけだった。
その日、山下は、就任訓辞を終えると、中村次官、栗林軍務局長、額田人事局長を残した。陸軍次官の中村明人中将は、東條の肝いりの憲兵司令だった。
「ひとつ聞きたい。なぜ仏印に執着する?」
「対独ルートの維持のためです」
「ほう」
「ほかに、英国に対する牽制があります」
「それは、日英親和のためだな?」
「そのとおりです。緊張を保つ必要があります」
栗林局長は躊躇なく答えた。山下は大きく頷いた。
「もう1つは、中国と米国に対する陽動です」
額田局長も即答する。
「わかった」
わかったのは、三人に二心がなく、任務に忠実だということだった。山下が存分に働けるように、東條は段取りしてくれていた。
ならば、働くだけだ。
「ご奉公である。よろしく頼む」
「「「はっ」」」
三人は、新任の陸相に最敬礼をした。
(本分を尽くさねば)
そう、山下は想った。