5 上陸船団
南半球、夕暮れ。南大西洋。第三図南丸。
その時、深村海軍少佐は、第三通信室です号機を操作していた。
深村は、海軍技術研究所から出向中の電波兵器の専門家である。汐見室長に配線の改良を頼まれて、あれこれいじっていたら、巨大「くじら」を発見したのだ。そして今度は、コートを着て機動艇に乗るように頼まれた。
「くじらを銛で仕留めろと」
「もう~。少佐はドイツ語も話せる」
「ドイツ語を話すくじらだと」
「勘弁してください。海軍の軍服がない」
「は?」
「各国の軍服は用意したんですが」
「え?」
「まさかの帝国海軍軍服がない」
「はあ」
船尾の日章旗を旭日旗に替え、深村の軍服と軍帽を確認すると、Uボートは誤解を解いた。それまでどう説明しても、日本陸軍のフネとは聞き入れなかったのだ。
誤解が解かれると、あとは早かった。艦長自らが第三図南丸に乗り込んできて、段取りを決める。給油方法は縦曳法で毎時90トン、必要量は150トン前後だから2時間ほどかかる。その間、本船は大きく周回することになった。
2時間の間に、Uボート乗員は交代でシャワーを浴びる。洗濯機と乾燥室も開放される。連絡のために探鯨船を2隻降ろして、まわりに配置する。偽装にもなるだろう。作業が始まって20分、順調を確信すると早瀬中佐は船橋に向かった。
Uボート艦長は主食堂で饗応を受けていた。艦長は、ヘルマン・デーニッツと名乗った。客船ではないからボーイはいない。通訳係りの逓信省の役人がワインを注ぐ。
「このアスパラガスは上等ですね」
「どうぞ、どうぞ」
目玉焼きがのった厚切りのベーコンに茹でたてのポテト、それにアスパラガスのサラダ。艦長は旺盛な食欲を見せた。熱いシャワーも浴びたのでご機嫌である。早瀬は任務中だから飲まないが、ずっと非番の逓信省と農林省の役人は飲んでいた。
早瀬が座ると、デーニッツ艦長がじっと軍帽を見つめるので、どきりとした。
「さきほどは失礼した」
「あ、いや。いえ」
「星に錨ですか。たいしたものだ」
「まあ」
「日本陸軍は給油艦をお持ちなのですね」
「ええ、まあ。あはは」
「潜水艦母艦か休養艦のようだ」
「そうでしょう。あはは」
「まるでゲーリングの独逸空軍だ」
「あはは」
「独逸空軍は戦車師団を持っているのですよ」
「あはは。えーっ」
「まさか、空母はお持ちじゃない」
「げふん、げふん」
「よかった」
「「あっはっは」」
休養船は大袈裟ではない、本船の設備は充実していた。
第三図南丸は捕鯨母船だったから、客船や貨客船と違って、一等船室も主食堂もなかった。高級船員にはそれなりの待遇があったが、ただそれなりだ。しかし、改造費が陸軍負担となれば、話は変わる。陸軍は海のことを知らない筈だ。日本水産には野心をもった役員がいた。
陸軍雇船が決まって改造が始まると、役員の一人が頻繁に訪れ、あれこれと助言を始めた。返却時には現状復帰となっているが、改造の内容によっては復元性や使い勝手が変わってしまう。そうなっては死活問題だ。
指揮官に内定した早瀬中佐にあれやこれ、あることないことを吹き込む。早瀬がこだわったのは、作戦の成否に直接かかわる事項だけだった。それさえ可能になるならば、ほかのことには頓着しない。
こうして、理想の捕鯨船団旗艦船が誕生することになった。旗艦船として、船団船員の休養のために、病院設備、映画室、大浴場や大小の食堂から舞台付きの座敷まで備えている。造りは質素ではあるが、そこらの内航客船より充実している。
捕鯨母船としては、解体・採油のほかに、冷凍食肉や缶詰製造もできる。そのための真水製造装置や大型冷凍庫、新型冷蔵庫もつけた。発電機と補機を増設し、デリックとウィンチは換装強化、新型クレーンも搭載する。すべて、陸軍予算だ。役員は、農林省や厚生省と組んで、安くて滋養のある食肉の供給を計画していたのだ。
視察に来た陸軍高官は目を剥いた。が、船舶司令部の幹部らが説明すると、頷くしかない。なにしろ、海のことは知らないのだ。そして、早瀬中佐の号令の下、スリップウェイの途中が割れて、完全武装の兵士が乗り込んだ高速機動艇が発進すると、黙り込む。
戻って来た高速機動艇がマストを折り畳むと、するすると巻き上げられ、スリップウェイの途中に消えた。つまり、特務作戦要員と機材は完全に秘匿されており、本船上に姿を晒すことなく作戦行動が出来る。陸軍高官は一言『程々にな』と言うと、帰っていった。
あの時のことを思い出すと、今でも冷や汗が出る。
しばらくすると、デーニッツ艦長は艦に戻った。入れ替わりに、機関長と先任士官が主食堂に入ってきた。深村海軍中佐も一緒だ。三人ともに顔は真っ赤で、額から湯気を上げている。どうやら大浴場で湯船に浸かっていたらしい。
「ビールがいいそうです」
「そうだろうな」
深村はテーブルからビール瓶を取ると、二人のコップに注ぐ。自分のコップにも注いで、乾杯を上げた。早瀬は眉を顰める。が、何も言わない。深村は出向中で、船舶司令部所属ではない。
「ああ。どこの海軍も酒は飲みますよ」
「えっ、勤務中もか」
「英国の水兵はそうですね」
「そ、そうなのか」
「よく知ってるね」
「何て言った?」
「英海軍ではラムかビールが昼と夜に配給されると」
「昼からか」
「ふむふむ。ラムが薄いと艦長は吊るされるそうです」
「そうか、恐いな」
「うちも司令部の幹部らはテキトーにやっていたな」
「でしょう。艦の幹部はともかく、司令部にはいますね」
「そうだろう」
「今はどうなんだと、聞いていますが」
「今はないな」
「どうして言い切れるのかと」
「そりゃ、陸軍には介錯官がいるからな」
「あはは、驚いてる。って、本当ですか」
「本当だ。最初は将官だけだったんだが」
「はあ」
「獲物がいなくなって、今は大佐も対象らしい」
「そりゃたいへんだ」
「なあに、すぐ慣れるさ」
「えええ」
深村が頭を捻っていると、二本目を飲み干した機関長が切り出す。
「実は頼みがある」
「何でしょう」
「潤滑油がほしい」
「潤滑油ね、軸受けとか」
「そうそう」
早瀬は、逓信省の役人に振る。
「どうしましょうか」
「ものはあるのかね」
「あると言えば、ありますなあ」
農林省の役人が床を指差す。機関長は嬉しそうだ。
「しかし、作戦命令は重油だけだ」
「現場の我々だけで決めていいのか」
「えと、課長でしたよねぇ」
「ええっ。だって中佐が指揮官では」
「いやいや、ここは官位でしょう」
「「・・・」」
しびれを切らした機関長は、ポケットから皮袋を出す。
ちゃり~ん。
「アイン」
「「えええっ」」
「ツバイ、ドライ・・」
「「ごくり」」
テーブルの上に、金貨が積まれていく。
夜。帝都東京、教育総監部。
地下司令室で土肥原大将と樋口中将は、天下三分儀を見つめていた。
「え号作戦は順調か」
「はい。各国軍の進出は計画通りです」
「侵出だろう。わが日本軍は?」
「大休止2日目です」
「ま、行軍速度がまったく違うからな」
「歩兵部隊もいるのですがね」
「これは戦訓に入れておくか」
「はっ。同時進発における突出の危険性」
「うむ、それでいこう」
土肥原は、壁に張られた地図を見る。
陝西省のほぼ中央、延安府に向けて、四方から矢印が伸びていた。
「甘粛省に廻った工藤顧問官の護衛増強は?」
「騎兵1個小隊と機関銃1個小隊を増援しました」
「軽機2丁に重機2丁か」
「他に甘粕機関から、馬賊1個小隊」
「すると、乗馬だけで400名を超えるか」
「騎兵2個中隊の規模です」
「皇帝の直轄部隊を死なせるわけにはいかん」
「興安部隊を制止できる人物は他にいません」
土肥原は、また天下三分儀に戻る。
「いざという時はカ号がある」
「えっ、羽布張りですよ」
「五郎だったらやるさ」
「・・・」
「それに、第2航空師団の前進基地も近い」
「はい」
「なるべく日本兵は死なせるな」
「はい。中国兵主体に」
「満州兵も蒙古兵も死なせていいぞ」
「・・・」
「根本に念をおしておけ」
「はっ」
土肥原は、別の半球儀を見た。
「副官、神州丸の位置を出せるか」
「はっ。ぽちっ」
「ここか、まだ日があるな」
「はっ。船団速度は6ノットです」
「英国士官の乗艦を待ってましたから」
「乗ったのは海軍のフネだろう」
「はい。艦隊旗艦の扶桑です」
「北極海での戦艦喪失は」
「当然、知ってますね。え」
樋口がぎくりとした。
土肥原は凄みのある笑みを浮かべたのだ。
「よし、外務省の応援をしよう」
「すると」
「ら号船団は12ノットに増速!」
「「は、はっい!」」
「どうだ、樋口」
「英国は焦るでしょう」
「考える時間を与えてどうする」
「それが全面攻勢の骨子でしたね」
「徹底しようではないか」
樋口と禄雄は、どっと汗をかく。
「し、上海ですか?」
「米国もだ」
「ひっ。しかし、ヤマ機関長は出動中で」
「五郎はな。親父の四郎さんは日本にいる」
「は、はい」
「この間、飲んだぞ。東條の家で」
「そ、総監。段取りが狂いますが」
「向こうはもっと狂うだろう」
樋口と禄雄は顔を見合わせて、頷く。
「すぐに再構成します」
「もちろんだ」
「総監、樋口は退室します」
「おうっ。良しなに、な」
「は、はっ」
「閣下。副官は上に戻ります」
「水交社の八郎にも言っておけ」
「は、はい?」
「時は今」
「ええ」
「復唱はいらんぞ」
地下司令室に残った土肥原は、ひとり呟く。
「わしは大混乱が好きなのだ」
東半球、深夜。太平洋。
寝入り端の武藤中将は、揺動と物音に起き上がる。
乗っている船の振動が増していた。隣の船室のドアが閉まる音がした。まだ飲んでいた今井と岩畔が、やって来るらしい。やれやれ。
「「夜分、失礼します。師団長閣下」」
「まったく失礼だ。ほれ、それを飲め」
「さすが師団長、話が早い。ごくごく」
「いったいわしは、いつ眠ればいいのだ」
「それは、うちに帰ってからでしょう」
「「あっはっは」」
しばらく乾杯の応酬をした後、今井大佐が言う。
「閣下、船団は速度を上げたようです」
「そうだな。振動が違う」
「いよいよ実戦ですね」
「さあて、それはどうかな」
「師団長、士気にかかわります」
「だから、船室の中で呟いておる」
「失礼しました」
武藤は、煙草に火を点けた。マッチを消した今井は話を続ける。
「いきなりのタラカン上陸ですが」
「参謀長はメナド経由が持論だったな」
「はい、中継の補給基地を設けて」
「しかし、まずフネがない」
「極端に自動車化されてますからなあ」
「それはないだろ、連隊長」
「これはしまった。ふ号作戦の戦訓でした」
「「あっはっは」」
蘭印保障占領を遂行するら号兵団の基幹は、近衛歩兵第5連隊の5500名だ。ふ号作戦の頃と違って、船団に組めるフネが少ない。ほとんどの商船が徴用を解かれ、本来の航海に戻っていたのだ。南方連隊の車両は多い。そして、戦車はふつうのフネでは運べなかった。
「3ヶ月は持久できる」
「補給があれば、数年も可能です」
「そうなのですが」
「油田を占領した事実が重要だ」
「日蘭会商違反の懲罰です」
「保障占領だ。石油代金は払う」
「また、しまった。政治でしたね」
「何を言うか、軍事課長」
「「あっはっは」」
「タラカンの蘭印軍は2000名足らず」
「問題は沿岸に設置された砲台」
「聯合艦隊がいる」
「36cm砲40門だぞ」
「それに艦載機60機」
「成功しないほうがおかしいですね」
「だから重圧なのですよ」
「まったく慎重居士だ」
「「あっはっは」」
日蘭会商を破った蘭印を、やむなく保障占領する。それが、今回のら号作戦の大義名分である。それは今井参謀長も岩畔連隊長も承知だ。その裏があることも知っていた。
しかし、その裏の裏に、また裏があることは武藤師団長しか知らない。
「タラカンは英領ボルネオにも近い」
「西の白人王国、保護国だったな」
「北ボルネオもです」
「比島にも近いな」
「メナドなら蘭印だけですむ」
「そこだ、岩畔」
「今井。作戦は師団長だけで決めたのではない」
「知っているさ。閣下が反対されたのも」
「ならば、なぜ」
「不合理で不健全だからだ」
「なにをこの」
「その先は止めておけ」
「閣下!」
「でなければ、自室でやれ」
「失礼しました」
「そのウヰスキーは持っていっていいぞ」
「ありがたくあります」
「程々にな」
「「失礼します」」
一人になった武藤は、煙草を深く吸いながら思う。
今井と岩畔が熱くなるのはわかる。装備や編成は、近衛第2師団が上げたふ号作戦の戦訓が活かされていた。しかし、作戦自体は上から下りてきたものだ。そして、占領地域がタラカンに決まったのは、まさに、英領と米領に近いからだ。支那海へも近い。メナドでは遠すぎた。