2 謀略
夜。帝都東京、英国大使館。
重光葵外務大臣は、警衛が開けた車のドアから軽やかに降り立つ。今夜はクレイギー英国大使の私的な晩餐会に招かれたのだ。
「ハッピーイースター。大使閣下」
「ハッピーイースター、大臣閣下」
大使と挨拶を交わした外相は、左手にステッキを持ったままだ。新式義足に替えた今、歩行にステッキは必要ない。長年のスタイルだから今も持ち続けているが、用途は変わっていた。
重光外相が公邸の中に入り、ドアが閉じられたのを確認した運転手は、ターバンを巻いた警衛の案内で駐車場に向かう。助手席に座った護衛が呟く。
「なんで、教主様が磔になった日がグッドフライデーなのだ」
「はい?」
「13日の金曜日っていうだろう?不吉の代名詞だ」
「GOODではなく、GODかGOD'sらしいです。本来は」
「そうだったのか。ゴッドが訛ってグッドか」
「ホォリーフライデーとも呼ぶらしいです」
「それならわかる」
晩餐のメニューは質素で、ラムやエッグは出なかった。やはりと納得しながら、重光はホットクロスバンをちぎる。デザートを終えて、喫煙室に二人きりとなった途端、クレイギー大使は切り出した。
「大臣閣下、覚えておられますか。昨年の10月」
「覚えていますとも。新内閣発足後の最初の会見ですね」
「首相閣下の伝言としてお聞きしましたが」
「変わりはありません。東條首相はお国との関係を深くしたい」
「すばらしいことです、大臣閣下」
「大使閣下。何なりと」
重光とて外務大臣を拝命する身である。想定問答は、省内で十も論じた。耶蘇教徒にとって重要な、復活祭の休日最初の日に招待する。つまり、英国は追い詰められていると、そう演じたいのだろう。
「本国から訓令が届きました。お伝えしたい」
「はい」
「要件のみで、不礼なのですが」
「かまいませんとも」
「海軍をお借りしたい。その、聨合艦隊の主要艦の幾隻かを」
「おお」
(想定問答の第二だ)
重光は即断した。ならば、この表情か。
驚きと困惑の中にも喜びと安堵を隠せない。
(う、うまくいったかな)
しばらくの間、二人は見つめ合った。
クレイギーの眼の中は、戸惑いが歓喜に変わっていく。
英国首相のチャーチル氏は、どんな時も諧謔を忘れない。礼儀正しく、無礼を行う。美辞麗句を並べた直後に、罵詈雑言を吐く。ただし、全体では儀礼を外さない。
結論をまず述べたのは、むしろクレイギー大使の判断だろう。この後に、美辞麗句、つまり帝国や帝国海軍を賞賛する発言が続くはずだ。
「先の大戦の時には、艦隊を派遣していただいた」
「はい」
「大日本帝国は、立派に、同盟国としての務めを果たされた」
「はい」
「チャーチル首相は熱烈な親日家で、今回の日米融和を歓迎しているのです」
「たいへん嬉しい」
「日米以上に日英友好を進めたい」
「完全に同意します」
「「・・・」」
会談が終わると、席から立ち上がりながら、重光は確かめる。
(大丈夫だ。明確な回答は与えていない)
「大使閣下。お国のご要望は首相に伝えます」
「おお。ありがたいことです。大臣閣下」
「これから、すぐにでも」
「すばらしい。本国に伝えます」
重光外相は、車を総理官邸に向かわせる。英国大使館からは指呼の距離だ。
首相は公邸で、まだ起きていた。重光は東條に、会談の要旨を伝えた。
「外相はどう判断されました」
「助力を頼む時期ではありませんね。謀略です」
「なるほど」
「しかし、なにかに使えるのでは」
「たしかに。使えそうですな」
「よかった」
「明日にでも海相に伝えます。はて、今夜の方がいいかな」
「お願いします」
重光が帰った後、東條は護衛の責任者を呼ぶ。
「どうだった」
「英国大使館から尾行がついていました」
「そうか、それでよい」
「外務省も、なかなかやりますね」
「陸軍、海軍だけではないさ。謀略は大蔵省だってやる」
「・・・」
東條は考えた。やはり、海軍省に伝えるのは今夜の方がいい。英国は日本が関心を持ったと判断するだろう。同時に、慌てているとも。
(いろいろと使えるな)
北半球。午後。ドイツ、ベルリン。在独満洲国公使館。
参事官室では、星機関の幹部が会合を開いていた。
機関長の星野一郎参事官、公使館嘱託の三好次郎と杉本佐武朗の三人である。話題は、まずは星機関の収支、試算表だった。
「これが最後ですね」
「ああ、半年ほどだったが」
「たいへんでしたね」
「正直、しんどかったな」
シュテルン機関は、D機関長の命で仏国や北阿でも活動してきた。しかし、本来の任地は東欧や北欧だ。独軍の夏季攻勢が間近いから、本来任務に専念したい。そう言って、早くから西欧や南欧専任の諜報機関の開設を具申してきたが、これが採用された。
エトワル機関がパリに、ステラ機関がローマに、それぞれ設置されることになった。長と要員の人選は、東京と伯林で行われている。しばらくは二つの星の面倒も見ることになるだろうが、それぐらいはかまわない。星野にとって最大の朗報は、エトワルとステラが陸軍省の正規予算で開設、運営されるところにある。
今までは、満州国外交部の予算を工面して、フランスや北アフリカでの工作運営に当てていた。つまり手弁当だったのだ。これからは、大日本帝国の予算で運営されるエトワルとステラから、シュテルンの分を吸い戻してやる。それぐらいは許されるだろう。
陸軍贔屓とはいえ、省務に厳格な賀屋蔵相が陸軍省に新規予算を認めたのには、相当の理由があった。内閣が新聞作戦案を連合国の反攻作戦として閣議決定したからである。新聞作戦案とは、昨年、大々的に米国紙に掲載され、全世界に広まった米軍の作戦案のことだ。つまり、米国は対独参戦した後、北阿、南伊、それから北仏の順に進撃する。
東条内閣は、これを連合国の反攻作戦案として閣議決定した。もちろん、他国の軍事作戦を、日本の内閣で決定するのは異様で不条理だ。しかし、逓信省や商工省からあげられた提議を、他の大臣らは無視できなかった。
曰く、
『北米・中米・南米からの資源輸入を民間に強請している。戦場や係争地域の指定なくしては、帝国の経済活動や貿易が捗らない。政府指定があるかないかで船貨保険料が全く違う』
ともあれ、欧州の情報機関増設は喜ばしいことだ。予算だけではない。要員も装備もしっかりと配置してくれるだろう。そこへ行けば何でも揃う。あとは、露見しないような方法を考えるだけだ。
こうして、星機関の懸案のひとつは解決された。
三人は、次の懸案にかかる。
「波蘭ですが」
「対独抵抗運動、レジスタンスが最も盛んだ」
「富裕層の大分は満州に移しましたが」
「このためのプラハの紳士だ」
「そうですね、白ロシアやウクライナも含めて」
「わが本拠地だ。準備は万端さ」
「「は」」
「すると、瑞典ですね」
「諾威との国境は山岳地帯」
「英国情報員の監視は厄介です」
「ま、わしらが直接やる訳ではない」
「他の戦線もですが、ね」
「「そう、そう」」
シュテルン機関は荒事はしない。三好も杉本も諜報に徹している。血生臭いのが嫌いというわけではない、任務なら遂行するだけだ。しかし、荒事は跡がつきやすいのである。それに、何よりも人材が不足だ、諜報に徹底するしかなかった。
ナチスドイツの諜報・情報機関はあなどれない。東欧でのドイツ人の浸透は歴史的なものであり、地勢的な例外がない。つまり、どこにでもナチスドイツの諜報の萌芽はあるのだ。そして今次大戦で、一斉に花を咲かせた。なんといってもドイツの占領地や勢力圏なのだ。
一方の英国情報部の展開も尋常ではない。先の大戦どころか、数世紀前から英国の情報機関は一流だった。すなわち、三枚、四枚舌ができる。こちらは、任務・軍務だと言われても、そこまで真似はできない。民族的な限界がある。陸軍軍人とはいえ日本人ならば、二枚舌がやっとだった。
シュテルンは、東欧や北欧における英国の動きをドイツに流していた。つまり、荒事である英国情報機関の摘発は、ドイツの官憲や軍がやるのだ。情報を収集し、整理したあとは、適当に加工して流す。流す相手は、国防軍か親衛隊か警察か、ケースバイケースだ。いずれにせよ、正面に立つのはドイツとイギリス。現に戦争中だから、争うのは当然だろう。
「これだけ派手につぶせば、英国情報部も本気になりますね」
「ああ、工作員狩りに来るだろう」
「ぼちぼち、要員の身辺も危うくなります」
「私たちもですが」
「そうだな。赤と黒はどこまでいったかな?」
「赤が8割、黒が5割というところです」
「黒は、独ソ戦の戦況次第だからな」
「赤の方は、ゲシュタポの探索が進んでいます」
「年末まで持たないかも」
「そうか」
「「・・・」」
「英国情報部へ流すか」
「そうですね」
「楽団員にはソ連人もいますが」
「それは独逸へ」
「「なるほど!」」
「三つ、四つ、五つ巴の中に身を置けば」
「木の葉の周りが森になる」
「われらの要員も、まずは安心」
「例外も用意すれば、薬味も効きます」
「「うん、うん」」
「黒は外しておいてくれよ。まだ早い」
「了解です」
二つめも解決に至った。三人は、次にかかる。
「ええと、何だっけ」
「石油と人です」
「おおっ、伊太利か」
「はっ」
「剣士が始めました」
「頬に傷のある方だな?」
「はい」
「いよいよか」
「誰に引き金を引いてもらいましょうか」
「そりゃ、最先任だろ」
「では、坂西中将に」
「うん、問題ない」
全面攻勢だ。三人は、今日の徹夜を覚悟していた。
夜。在独日本大使館。
大使館の一室で、陸軍武官の坂西陸軍中将と大使附きの西郷陸軍中佐は、眠気覚ましのお茶を飲んでいた。
「ずずーっ」
「ず、ずずーっ」
「四月に入りましたが、夜は冷えますね」
「日当たりがいいといっても、日が暮れてはな」
「ずずーっ」
「ず、ずずーっ」
お茶は満州公使館からの差し入れで、配給品と違って香りもよく、体も温まった。お茶の他にも、もらったものは多い。
「これだ。見てくれ」
「はっ」
西郷が書類を見ている間、坂西は葉巻を楽しむ。これも差し入れだ。どうも、在独満州公使館は予算が潤沢らしい。西郷のカップにお茶を注ぎ足してやる。
「相変わらず、よくできていますね」
「そうだろう。さあ」
「あ、これはどうも。ずずーっ」
「ず、ずずーっ」
「閣下、ここですが」
「ん?」
「白ですか、黒や赤でなく」
「うん。楽団よりふさわしい」
「そうですね」
満州公使館の骨折りに報いるためにも、大島大使に提出する書類は急いで整えなければならない。冒頭の梗概は坂西が作成する。日本語の書類だから、訳文にも気をつけていた。表紙の件名は、『白い礼拝堂』だ。
「大丈夫ですかね」
「何が?」
「当のゲシュタポが見たら」
「それはないよ」
「え」
「この書類はイタリア向けだ」
「ええっ」
坂西は書類を受け取ると金庫に入れ、鍵をかけた。ポケットに鍵を仕舞うと、西郷を振り向く。
「さあ、今日の勤務は終わりだ」
「はぁい」
「今夜は何処にする?」
「そうですねぇ・・」
北半球。早朝。内蒙古中国国境、オルドス。
山口吾朗陸軍大尉は、内蒙古機動軍司令官の根本博陸軍中将から最終的な指令を受けていた。すなわち、この指令が終われば作戦開始だ。律儀な根本中将は、書面の命令書も用意していた。
「ま、友軍の中では身分証明書代わりになるが」
「はっ」
「敵陣内では命取りになる」
「はっ」
「縫いつけてる暇はなかろうから、どこかに埋めろ」
「・・」
根本は特務機関勤務が長いから、文書を身に帯びる危険は身にしみて理解していた。だが、司令官の身では、その辺で焼いていけとか、捨てていけとかは言えない。命令書の権威も勘案すれば、埋めるのはぎりぎり『セーフ』だろう。
「ありがたくあります」
「うむ。武運長久を」
「はっ」
敬礼して回れ右をした吾朗は、教範どおりに、腰にこぶしを揃えて滑走路へ走った。吾朗の乗機を待つ機体はキ76、一式指揮連絡機である。中には、操縦士のほかに丁がいた。
「ずいぶん派手な出陣じゃないか、ゴロー」
「中国だけではない、米英が見ています」
「ソ連もだ」
「ロシアもでしょう」
「盛り上がってるな、ずいぶんと」
「そりゃあ、溜まってるものはあります」
「わかるとも」
「「あっはっは」」
え号作戦が発動された。




