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LN東條戦記第3部「売国宰相」  作者: 異不丸
第3章 昭和17年4月
34/59

1 工作


夕方。帝都東京、教育総監部。


陸軍教育総監の土肥原大将はこのところ、遅くまで執務室に詰めっきりであった。4月に入って、一斉に状況が動いたからだ。つまり、世界のあちこちで混乱が起きている。といっても、その解決策を練る訳ではない。事態収拾は各国政府の仕事だろう。


帝国予備軍司令官で謀略総司令でもある総監の任務は推移を見極めることだった。

(そうとも。眺めるのも仕事なのだ)

出来上がったばかりの地下司令室で、土肥原は一人呟く。



「えっ、閣下。何か言われましたか?」

「げふん、何も言っとらん」

「はあ」

「それよりも、伯林に青灯が点いておるぞ」

「はい、シュテルンからエ号作戦の報告です」

「え号でなくエ号か。紛らわしいな」

「敵作戦名がエンスラポイドです。訳語の『る号作戦』としますか?」

「いまさら。作戦名を変えると混乱するだけだろう」

「閣下は混乱がお好みでしょう」

「あっはっは。晩飯を奢るぞ」

「えへへ」

「命令。英軍のエ号作戦は、以後、ル号作戦と呼称する」

「ひえっ」


顔に絵の具をつけた副官の山内禄雄は跳びあがった。

教育総監執務室と地下司令室の間には通路が設けられてある。太り始めた土肥原のために、階段の勾配は緩やかだ。そこを、禄雄は駆け上がる、足音を立てずに。




一人になった土肥原大将は、あらためて司令室を見回す。

40畳ほどの部屋には、かすかに漆喰や接着剤などのにおいがした。部屋の隅に階段室へ続く扉がある。反対側にも扉が1つある。部屋の中央に大きな机が4つあり、その真ん中に回転椅子が置かれてあった。そこが土肥原の定位置である。


部屋の壁面には様々な地図が貼ってあった。が、いずれも地図であるから、距離・角度・面積を同時にすべて正確には表示はできない。軍事作戦の指揮なら、戦略・作戦・戦術の各級に応じて図法と縮尺を使い分ければよい。しかし、謀略の総指揮には、距離角度面積が同時に正確で、かつ、一目で全世界が見渡せる地図が必要である。そう要求した土肥原へ、総研高等班が出した回答が机上の半球である。



机の上には、それぞれ直径2mの半球が置かれている。地球儀である。球体の地球儀なら距離角度面積は同時に正確である。しかし、一目では裏側が見渡せない。だから半球2つとする。ほかにも要件は多々あり、それらを満たすための最小の大きさが直径2mとなった。机の盤面から1m膨れ上がるから、真上から覗き込むには十尺以上の身長が必要だろう。そんな日本人はいないし、といって梯子や脚立、踊り場を設置するのも場違いだ。


4つの机には、それぞれ東半球、西半球、北半球、南半球が置かれていた。半球の下部は光源と配線を納めた円筒になっている。つまり机の中央は丸く刳り貫かれているのだ。内側には円筒を回す動力があり、半球を回転できる。土肥原は中央の椅子から必要な半球を選択し、机上の押釦で回転・調整すればよい。半球はガラス製で、昼間の部分、夜の部分を投影できた。他にも、主要都市には個別の光源があり、三色に点灯できる。もちろん、4つの半球の点灯は同期していた。



半球は標高と水深によって色分けされていたが、地勢や海流などで色分けされた蔽いを被せることもできる。そこで、土肥原は白地図の蔽いを要求した。お好みで、世界を色分けしようというのである。夕方の定時を過ぎると、土肥原は地下に篭って、世界三分の色分けに熱中していた。もちろん指図するだけで、色塗りは禄雄の役目である。蔽いは4つあり、同じ場所は2つはあるのだから、なかなかたいへんである。


土肥原は定席の回転椅子に座り直すと、椅子を高位置に上げ、完成間近の世界三分儀をぐるっと見回す。椅子は電動で上下し、回転する。右手で肘掛下の押釦を操作し、左手には洋酒のグラスを持つ。そうして、両足をぶらぶらさせながら、極彩色の世界を眺めてにやにやする。

至高の時だ。ぐいっ、とグラスを傾ける。


と、その時、壁のブザーが鳴る。びーっ、びっー。


「ぶっ」

「閣下、樋口特務兵監が来られました」

「げふんげふん」

「閣下、樋口中将が・・」

「ん~もう。下に来るように」

「はっ」




出来たばかりの地下司令室のことを知っているのは、安達本部長と樋口特務兵監の二人だけだ。いずれは、各兵監らを呼ぶつもりであったが、教育総監部が主管するのは教育と監察であり、戦略や作戦策定の参謀本部とは違う。極端に言えば、地図などなくてもできる仕事なのだ。これだけの施設が今必要なのは、戦略思考が欠かせない謀略総司令と司令だけ、つまり、土肥原大将と樋口中将だ。


入ってくるなり、樋口は絵の具の匂いに鼻をひくつかせたが、何も言わない。天井を仰ぎ、極彩色の傘が紐で吊るされているのも見たが、やはり何も言わない。

副官の山内禄雄はひとりではらはらする。土肥原大将の隣に椅子を置くと、樋口中将に勧めた。ぶぃぃぃ~んと、土肥原の椅子が下りてくる。


「よくできていますね」

「そうだろう」

「はい」

「ここを見てくれ」

「え、ああ。これはすごい」


樋口は、十数分も土肥原の自慢に付き合った。


「ポジフィルムは使わないのですか」

「半球が大きくなるそうだ」

「そう、ですか?」

「投影装置ではなく、焦点距離だ」

「なるほど」

「ま、あまり司令部に金をかけ過ぎるのもな」

「死守するという輩が出てきますね」

「秘密を貯めこみすぎると、な」

「所詮は司令室。使い捨てでよいと」

「一生住めるという確信があって、家は建てるものだ」

「終の棲家ですね」

「うん」

「ひょっとして、閣下が詰めっきりなのは?」

「げふんげふん」

「・・・」




戦力の逐次投入はいけない。謀略も集中投入であるべきなのだ。そして、木は森の中に隠せ。土肥原の考えに樋口も異論はない。

D機関は今、英国情報機関に対して全面攻勢に出ていた。


「聞こうか、樋口中将」

「はっ、総監。報告します」

「うむ」

「シュテルンが英国のル号作戦を潰しました」

「そうか」

「プラハの紳士は無事。チェコ亡命軍の7名は逮捕または射殺されました」

「よし」

「すこし遅かったですが」

「時機を判断するのは現場だ。失敗するよりはいいさ」

「はっ」

「ふん、類人猿などとふざけた作戦名をつけおって」

「神経毒を検知したそうです」

「そうか。徹底しているところは見習うべきだな」

「・・」

「それで後処理は?」

「S1が自ら施したと」

「ほう、秋草なら抜かりはあるまい」

「今度の件で、芋蔓式に反独連絡網が露呈するでしょう」

「チェコはいいか、しばらくは」

「はっ」



帝国陸海軍の在欧州情報機関は独逸を中心としてあった。三国同盟を離脱し、対米融和に舵を切った今、それだけでは危うい。対ソ連を見据えた東欧への布石は、星機関の設置と戦力化で完了した。次は、対米国への布石だ。米国の対独参戦は目前に迫っているのだ。


米国には疲弊してもらわないといけない。また、英国と連動されて米英一体となるのは最悪だ。米英二国に同時には対抗できないから、なるべく距離を置かせたい。できる限り、英国は弱体化させ、米国は消耗してもらう。それが、内閣から受けた陸軍諜報の任務だ。すなわち、帝国謀略の大戦略である。



同じアングロサクソンの米英両国は、親近感も親和力も高い。利害の一致もある。だから、帝国の謀略としては米英の利害の不一致を計ることになる。独逸が強大化すれば米英の損害は増大する。しかし、強大化した独逸に帝国が関与できなければ意味はないし、米英の利害も一致したままだ。いや、むしろ結束は固くなるだろう。


土肥原と樋口の出した結論は、二つあった。

一つは、独逸の強大化ではなく枢軸国の強大化。つまり、伊太利亜や芬蘭などの同盟国・軍の強化である。もう一つは、連合国の不協和と弱体化である。しかし、表立って英国に敵対すれば、いずれは米国に波及して日米融和が吹き飛んでしまう。陸海の正規軍は使えない。だから、謀略・諜報の秘密戦だ。



「思うに」

「はっ」

「最初から東條は読んでいたのだな」

「閣下を教育総監に指名する前から、ですか?」

「うむ。そうなる」

「しかし、そのような・・」

「わしも最初は国内だけと考えていた」

「しかし、実際は」

「そう。日本が変わっただけでは・・」

「状況は変わらないのですね」

「世界が変わらないと、帝国は生き残れない」

「不合理な気もしますが」

「現実だ。だから東條を見直した」

「はい」

「これだけの司令室をもらったのだ」

「はっ」

「世界がひっくり返るような謀略をやって見せるさ」

「・・・」


樋口は、しばらく無言で考えを馳せる。


「6時半か」

「伯林は正午前です」

「今のうちに飯を食っておくか」

「閣下、では今夜も」

「あたりまえだ。こんな見ものは滅多にないぞ」

「はあ」

「生涯に一度だな。二度めがあるとしたら」

((ごくり))

「亡国の時だな」

((やはり))

「さて、河豚があるかな?」

「神経毒ですね」

「耐性をつけとかんとな」

「はっ」

「肝は副官に譲ろう」

「えっ、えっ」

「「あっはっは」」







南半球、南氷洋。


南氷洋での捕鯨の漁期は、南半球での夏場の11月から4月の半年である。3月末になると日本の捕鯨船団は帰り支度を始めた。南氷洋の冬は突然始まるし、日本までの航海は1ヶ月かかるのだ。帰国日程が決まって、船上の船員たちの表情は明るい。いつもの半分の勤務で家に帰れる。漁獲は例年より多かったから、給与も例年通りと決まった。機嫌が悪いわけがない。船員たちは、農林省の特配だというビールを飲みながら、あれこれと思う。


今回の漁はいろいろと戸惑うことが多かった。まず、出漁が遅れた。昨年は対米英蘭関係が険悪で、開戦が必至と報道されていたから、会社が出航を見合わせたのだ。南氷洋の漁場に行くには比島沖や蘭印、豪州沖を通過するから、不測の事態が予想された。また、燃料も思ったほど都合できていない。待機は12月まで続いた。待機手当を会社に求めて運動した船員がいたな。漁労長は思い出したが、ビールを注がれると、すぐに忘れた。



コップを空けながら、漁労長は回想する。結局、出航は年の瀬も押し詰まってからだった。出港に先立ち、船団の幹部らが招集された。農林省から役人が出張って来て、今回の出漁の意義を説く。ま、時節柄だ。しかし、逓信省に続いて、陸軍省の局長が登壇した時は驚いた。それから会社の重役さんが出て来て、帝国捕鯨の新機軸を披露する。馬鹿なと思ったが、政府も会社も本気だった。


出漁する捕鯨船団は、母船ごとに対象の鯨種が指定された。そして、鯨種によって農林省と陸軍省の役人が同乗するという。冗談だろうと思ったが、本気だった。役人たちは、捕鯨船の砲手の横で鯨種を確認し、母船での解体と搾油にも立ち会う。当然ながら、捕鯨の効率は落ちた。せっかく群れを見つけても、鯨種が違うと捕獲が許されない。船員たちの不満はつのる。直談判しようとしたその日に、第三図南丸が合流した。



第三図南丸は、その巨大な油槽をかわれて、昨年末の緊急輸入に従事していた。2万トンの石油を運べるのだ。民間油槽船でも1万トンを運べる船は数えるほどしかない。帝国海軍の油送艦なぞ、速度だけは20ノットを出せるが、石油搭載量は6千から7千トンがやっとなのだ。その第三図南丸は、緊急輸入の後に陸軍と傭船契約を結んだと聞いた。改造も受けたというから、今回は参加しないと思ったのだが、違ったらしい。


日本水産の捕鯨母船と合流した第三図南丸は、船尾のスリップウェイから新型探鯨船を降ろすと、次の母船へと向かう。どうやら、大洋漁業や極洋漁業にも配るらしい。そして。翌日から漁獲が急増した。新型船は、鯨の群れを的確に捉える。半分は鯨種が違うとしても、それを補う以上の探鯨能力であった。また、捕鯨船には新式銛も配布されたらしく、百発百中だという。



もう、黙って見てはいられない。漁労長は真偽を確かめるために、探鯨船に乗り込もうとした。しかし、農陸逓の役人たちに、拒否された。国家機密だというのだ。それらの船は政府所属で、乗員たちも各省の役人・雇員という。陸軍の軍人はもとより、農林省と逓信省の役人も腰の拳銃を躊躇なく抜くと、銃口を向けてきた。ううう~ん。



「うう~ん」

「・・漁労長、大丈夫ですか」

「ん。お前は」

「まあまあ。飲んで」

「山下か。いや、山上だっけ?」

「ほら、飲まなきゃ」

「まだあるのか」

「いいから、いいから」

「うう~ん、忘れた」

「これだよ。松木さ~ん」

「ほっとけ。それよりこっちで飲め」

「は~いぃ」



農林省の特配が尽きた後、逓信省や陸軍省の特配があった。

大宴会を乗せた日の丸捕鯨船団は、一路日本を目指して北上する。気の早い船は大漁旗を上げていた。


ただ一隻、第三図南丸は、船団から新型探鯨船と新式銛を回収すると東へ向かう。目指すは大西洋、そしてカリブ海だ。





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