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LN東條戦記第3部「売国宰相」  作者: 異不丸
第2章 昭和17年3月
28/59

10 多国籍軍


中華民国、上海市。在中国日本大使公船。


昨年、日中和平が成立すると大日本帝国と中華民国は大使を交換した。外交の再開である。中華民国は、日本軍の撤兵が完了すると、首都を南京に戻した。列強各国も公館を重慶から南京に移す。しかし、日本は大使館を上海に置いた。総領事館は天津で、北京ではない。仕方がないので、中華民国も大使館を横浜に、総領事館を神戸に置いた。外交は相互主義なのだ。


日本政府は、中華民国への邦人渡航を厳しく制限していた。原則、禁止である。中華民国18省に、民間邦人はいない。外交官や軍人も往来は厳格に管理されていた。日貨排斥や邦人襲撃を日本は忘れていない。日中貿易は、欧米商社を介して行われた。不利益は承知の上である。日本外交団も洋上の客船に居住し、日本海軍の軽空母と巡洋艦を基幹とする艦隊が護衛していた。



毎朝〇四〇〇になると、艦隊から駆逐艦数隻が分離し、岸壁までの航路を確認する。異常がなければ、舟艇が降ろされて陸兵が上陸する。岸壁と周辺、大使館までの安全確認が終わるのが〇七三〇。晴天であれば空母から偵察機が発進して支援する。悪天の場合は大使館は開館しない。〇八三〇、防潜網と駆逐艦の盾の中を外交団の乗る客船が静々と進んで接岸する。


外交団が上陸するのが〇九〇〇。その後、艦隊は数隻を残して、沖合いに出る。一〇三〇になると、艦隊は各艦それぞれの課業に入る。停泊する艦もいるが、決して罐の火は落とさない。そして一四〇〇から朝の手順が逆に繰り返される。二〇三〇には全速を出せる海域にいる。

時間割と航路、遊弋海域は一定ではなく、毎日、サイコロの目で変えられていた。



「たいへんなものだ」

「はっ。松井閣下の功績の前には当然でありましょう」

「奥田。海軍に金を使わせるためだぞ」

「閣下、それでは身も蓋も」

「ははは」



特命全権大使の松井大将が乗る客船は外務省の予算だったが、護衛の空母艦隊は海軍予算による。松井大使がワインを好まないので、外務省の予算は抑制できていた。しかし海軍は、正直言って、出費に驚愕していた。臨戦態勢どころか、まさに戦闘だ。燃料や潤滑油はもちろん、航空機の消耗品、通信・電装部品が甚大である。防潜網だって、いつまでも使えるわけではない。


戦時ならばむしろ節約できる。『安全な停泊地』で罐の火を落とせばいいのだ。だが、政府内や諸外国に対する海軍の面子を保持するには、毎日の日課を省けない。主機が常時稼動しているのだ。いいことは、牡蠣がつかないぐらいか。最初は軽くみていた海軍だったが、1ヶ月とおかず、戦隊を交替させることになった。ぼちぼち艦隊司令部も交代させないと限界だろう。


今日、大使館は閉館である。晴天なのだが、波が高いのだ。海軍は今回、空母ではなく水上機母艦を派遣してきた。訓練や整備の都合だという。波が高いと水上機は運用できない。代替案はある。揚子江上流や杭州湾で波の静かなところを探せばいい。しかし、海軍は嫌った。それでは費用節約をねらって空母を水母にした意味がない。もちろん、対外的にはその理由を不測の事態を避けるためとした。



「この間、艦隊の主計長と話したが」

「はっ」

「嘆いていたよ、和平は金がかかると」

「「あっはっは」」



松井石根陸軍大将と副官の奥田道夫陸軍中尉は、最上層のデッキでお茶を飲んでいた。眺めは悪い。護衛の兵隊があちこちに立っているからだ。黄海から上海に航行するには、長江口から揚子江の本流に入り、沖積島の南を通って50km、支流の黄浦江に入る。黄浦江を20kmほど上ると上海市である。今朝は開館のつもりで黄浦江まで来ていた。長江口を出るまでは、立哨が続くだろう。


かつて、長江口には機雷が設置されたことがあって、今も掃海が完全でない。機雷を設置したのは、もちろん蒋介石軍である。が、設置した時の資料は消失して、どこにいくつかが明確でない。上海に公館を置いて中国と貿易を行っている列強各国は、交代で掃海を行っていた。50km近い河幅の揚子江下流でも、黄浦江から長江口までの航路は限定される。


護衛の兵は、最初は上海海軍特別陸戦隊だった。海軍では唯一の常設陸戦隊だ。歴戦練磨で上海には土地勘もある。しかし、あまりの出費に豊田海相が山下陸相に泣きついて、今は陸軍となった。その陸軍兵が敬礼をして一人欠け、また二人去り、まばらとなる。長江口を抜けて外海に出たのだろう。船足もあがったようだ。すぐに護衛部隊長の水田大尉が、松井大使の正面に立つ。



「本船は支那海に出ました。今日は南下するようであります」

「うむ。承知した」

「はっ」

「水田大尉、一緒にお茶を飲まんか」

「はっ、いただきます」

「どうぞ」



奥田が皿にのった紅茶碗を差し出す。水田は立ったままお茶をいただく。が、背中は常に陸地に向けている。まだまだ、陸地は至近だ。両手がふさがった指揮官の両脇に、護衛兵が寄って立つ。兵隊は、もちろん陸地を向いている。

兵といっても、全員が伍長以上の階級で、つまりは下士官だ。水田大尉が率いる護衛部隊は、下士官と士官から成っている。特異な構成のこの部隊は、昨年秋に関東軍が編成した関東軍機動第2連隊である。


満州第502部隊と通称される連隊は、しかし人員は300名程度である。2個中隊基幹で大隊にも届かない、民間連隊よりも小規模である。しかし、全員が学課・術科ともに優秀、気力・体力は抜群の選考基準を経た精鋭の下士官と士官であった。任務は、ソ連領内へ侵入しての後方撹乱・破壊工作である。

水田大尉は、その第1中隊長であった。



「どの部隊でも第1がつけば先鋒、先任だ」

「はっ、閣下」

「波須美連隊長と一緒に出勤したかっただろう。すまんな」

「いえ。この任務は最重要であります、閣下」

「ほう」

「防衛は攻勢よりも困難であります、閣下」

「なに、そうか」

「連隊長のお言葉であります、閣下」

「・・・」



水田中隊長の返事を聞いた松井は、副官の奥田を見る。奥田は、黙って頷いた。

それを確認した松井は、話を続ける。


「防衛とも防御ともつかぬ護衛は、さらに困難だな」

「はっ。仰るとおりであります」

「気を抜ける時機が掴めん」

「え」

「交替制にも限界があるな、奥田副官」

「閣下。交替制とは、常に誰かが出勤しているということです」

「そのとおりだ」

「ええ」

「奥田。ではどうする?」

「閣下、風が強くなってきました」

「えええ」

「ふふふ。よくできた」

「はっ」

「えっ、えっ」



水田大尉は目を白黒させながら、公室に向かう松井大将の後に続く。

持ったままだった紅茶椀と皿は、奥田中尉に引き取られた。


「船室で淹れなおしましょう」

「あ、ああ」


奥田は、二人の後に続きながら、護衛の下士官たちに目で合図する。

下士官たちは、頷き、敬礼した。







中華民国、陝西省。


山口吾朗陸軍大尉が陝西省に潜入したのは1月である。

最初の4週間は、陝西省の地誌を理解することに努めた。潜入時はヤクート人の丁に案内されたが、その後は吾朗が行き先を決める。山西省、河南省など隣接する省への交通路を念入りに調査する。特に、旧綏遠省など内蒙古方面へは精力的に踏査した。支那は広い、陝西省だけで本州と同じくらいの面積があるのだから、丁はたまったものではない。


延安府に近づいたのは5週間目で、中に入ったのは6週間目である。

丁が、はじめて五郎に会ったのは昨年の5月。用心深い男だと思ったが、ますます磨きがかかったようだ。丁を警戒することはない。五郎は、内と外の境界を明確に引いて、その対応を厳格に区別していた。もちろん、丁は身内の扱いである。丁やアレクセイを値踏みして、日本陸軍との間を仲介したのは、五郎自身なのだ。



「どうだ、ゴロー」

「はい、丁さんや少佐が調べたとおりですね」

「そうだろう」

「関東軍の作戦には十分です」

「うんうん」

「でも、今回は部隊数が多いから」

「ああ。ひどい話だ」

「満蒙はまだ身内ですけど」

「支那もいるしな」

「一つじゃないんです」


「わかるとも。蒋介石に閻錫山」

「それに周恩来」

(げっ!)

「・・・」

「あ、いや。どうするのだ」

「ひとまず基地に帰りますか」

「ああ」

「また部隊が増えてなければいいんだけど」

「えええ」

「いやな予感がしますよ、丁さん」

「ひっ」



吾朗たちの基地は北へおよそ100kmの楡林郊外で、最も古い長城の外に設営されてあった。満蒙側から言うとオルドスである。

オルドスとは、蒙古人の内、オルドス部の故地であり、かつてはチンギスハンの廟があったとされている。オルドやエジンホロという言葉がそれらを語っていた。


この数週間は、基地に戻っては状況の変化を知り、それに対応するために現地に再調査。戻ってはまた新状況、さらに再々調査。その繰り返しである。丁はあきれていた。

最も大きい状況の変化は、参加部隊がどんどん膨らむことだった。同じ日本軍ならまだいい。が、満州国軍でも中国軍でも新たな部隊が加わる。さらに米国からも複数だ。




え号作戦の指揮系統は明確であったはずだ。

参謀本部-関東総軍-内蒙古機動軍と、それぞれ戦略指揮-作戦指揮-実戦指揮を担当する。指揮官も、多田参謀総長-梅津総司令官-根本司令官とはっきりしていた。しかし、実戦部隊の内蒙古機動軍は、え号作戦のためだけの臨時編成であった。要するに、戦闘序列だ。


「戦時でもないのに戦闘序列とは」

「でも、戦闘許可は受けています」

「でないと発砲できないな」

「ええ」

「たいへんなものだ」

「はい、丁さん」

「ゴロー、よく頑張るな」

「い~え~」



内蒙古機動軍の戦闘序列、すなわち編制はめちゃくちゃになりつつある。

もともと、戦闘序列は日本陸軍内、あるいは日本海軍内に通用するものだ。満州国軍が加わるのはいいとしても、内蒙古軍や中国軍、そして非公式ながら米国の小部隊やソ連のエージェントも入っている。もちろん各部隊の目的と思惑は同一ではない。


内蒙古機動軍の司令官である根本博中将は、当初はすべての隷下部隊を指揮するものだと構えていた。ふつうはそうである。しかし、満州国軍と内蒙古軍とでさえかならずしも一体でないとわかると、臍を固めた。各部隊の目的は錯綜していて、打てる手は多くはない。根本中将は正規軍としての指揮をあきらめ、特殊作戦の指導に徹することにした。



関東軍の梅津総司令官は根本軍司令官の上申を容れた。そして、関東防衛軍の今村司令官を提供官に任命した。今村中将は、提供官事務所を立ち上げる。関東防衛軍司令部の中で、根本中将の要求にしたがって、必要な人材の人選や、資材の調達、輸送兵站の段取りを進めるのだ。

一方で、現場の実務は調整官に任命された山口大尉になげられた。吾朗は請けるしかない。


調整官とは、複数部隊間の調整を行う役目だ。戦闘序列による臨時編成では、責任や権限範囲が編成規模と釣り合わない場合が多く発生する。手薄になりがちな補給や兵站を補うための参謀が、もともとであった。部隊や調整官の権限を越える人材や物資を用意するのが提供官だ。

先行偵察と進撃誘導のために潜入していた吾朗に、軍隷下部隊間の調整官という任務が加わった。なんのことはない。吾朗自身が複数の目的を抱えることになったのだ。




8週間めからは、吾朗は、傾斜陣地や兵站基地、中継基地など戦闘の具体的進行を見据えての現地調査にはいっていた。この段階で、新たな部隊の参加は非常に困る。そして日本軍でなければ、目的も違うのだ。といって、無視はできない。上が承認したのだから、現場は従うしかない。それぞれの目的に適した進撃路、戦闘地帯、退却路を考慮すると、他部隊のものと交差してしまう。


陝西省のような峻厳な山岳地で土漠地帯では、進撃路も退却路も限られるのだ。我に有利で敵に不利な戦闘地の策定はなかなか容易ではない。日本軍なら大まかに決めてやれば、あとはそれぞれの本部の参謀たちがなんとかやるだろう。

しかし、満蒙軍と中国軍は近接させるわけにはいかない。特に、蒙古軍と中国軍はいけない。同士討ちが始まる。



「なかなか、たいへんなものです」

「そうだな。ここはどうだ?」

「いいですね、でも」

「でも?」

「頂上の平地が狭い」

「戦闘には十分だろう、小隊なら20人のテントがあれば」

「ええ、それはいいです」


「なにが不足だ」

「平地が直線で50mほしいです」

「え?」

「着陸が難しい」

「なに、航空機が発着するのか」

「はい」

「第1挺身隊は降下だけのはず」

「ああ、別の部隊が」

「ちっ、またか」

「・・・」



「500mでなく50mか、ずいぶん短いな」

「特別な機体だそうです」

「米ソに見せるのか」

「いや、ここは米だけです」

「ふむ。50mならなんとかなりそうだが」

「・・・」

「あの2つ先だな」

「ああ、あそこですか」


「飛行機の着陸に下り坂はだめか?」

「そうですね、たぶん」

「ひょっとして上り坂?、まさか」

「ですから、平地です」

「50mは短いが、地盤がな」

「はい。雪融けや泥濘は困ります」


「なるほど。草地ならいいのか」

「いいですけど、丁さん。冬ですよ」

「4月だろ、春だ」

「3月末になるかもしれません」

「延ばせよ、調整官の権限だろ」

「そうなんですが」

「・・もう」





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