7 民籍
ソビエト連邦、ザバイカル。
オトポール駅は、ソ満国境の駅である。
ソ連領内を通るシベリア鉄道は、バイカル湖の南からチタを過ぎると、少し北上してネルチンスクへと向かう。ソ満国境の外周沿いに進んで、ハバロフスクからは南下し、終点のウラジオストクへと続いていた。全線開通したのは日露戦争の最中である。
しかし、シベリア鉄道の建設中に、ロシア帝国は満洲北部を短絡する鉄路の敷設権を清国から得た。支線である東清鉄道である。シベリア鉄道よりかなり短く南にある路線は、工事の進捗も順調で本線より早く開通した。
ソ連が、北満鉄路と呼ばれるようになっていた東清鉄道を、満州国に売却したのは6年前である。この北満鉄道譲渡協定を最後に、ソ連の公的利権は満州国内からなくなった。買収後に満州国は、シベリア鉄道と同じであった広軌を標準軌に改めた。
ずいぶんと迂遠な旅をして来た欧州からの乗客は、シベリア鉄道支線のソ連側終着駅であるオトポール駅で、一度列車を降りる。そして長い列を組んで、ソ連官憲の出国審査を受ける。寒風吹きすさぶ屋外まで並ぶこともある。一等客も二等客も区別はない。もともと、ソ連は階級のない国なのだ。
出国審査は、うんざりするほど時間がかかる。ソ連の審査官は、一人当たり5分以上の時間をかけるように指導されていた。だから、10分はかかる。ガラス板で仕切られた審査官の席は、乗客を見下ろす高い位置にあった。不平不満の顔や仕草をすれば、列の後に回される。乗客たちは審査官を見上げると、精一杯の笑みを顔に浮かべて愛想を使った。
だが、制服の出国審査官は寡黙なままだ。滅多なことでは、「ダー」も「ハラショー」も口にしない。たまに、「ニエット」がないこともないが、言葉より表情のほうが重要だ。不機嫌な顔で手元の書類と乗客の顔を交互に見比べるだけなら、まだいい。
怖いのは、険しい顔が横を向いて、手をあげた時だ。決まって、国境警備隊の兵士が現われて、両側から乗客を抑えて連れ出す。つまり、出国審査に落ちたのだ。両手を奪われた乗客は、悲しい目で兵士たち、そして後方に列をなす他の乗客を見る。それから、黙ったまま連れられていく。重いため息だけが残った。
満洲帝国、満洲里。
満洲里は満ソ国境の街であり、満洲里駅はオトポール駅の隣の駅である。
2年前に予備役に編入された安江仙弘は、昨年末から満州国外交部に勤めていた。陸士21同期の樋口特務兵監の紹介である。安江は大佐までいったが、同期の樋口季一郎や石原莞爾と違って陸大を出ていない。だから、大佐停年の前に予備役となった。
といって、安江には不満はない。やることはやったという思いがある。特に、大連特務機関長として国家規模の作戦に携われたのは、一生の誇りだ。当時、哈爾浜特務機関長であった樋口には世話になったし、また迷惑もかけた。樋口はすでに陸軍少将だった。
そして今、満洲里で出入国管理事務所長をしている安江は、因縁を感じざるを得ない。オトポール駅からソ連兵士に引率されてくる欧州人乗客の大半が、猶太人であった。まさに河豚計画の再興である。といっても、かつて五相会議で採択された方針は、満州国に引き継がれる際にかなりの改変がなされていた。
「所長、越境です」
「おう」
安江所長は部下の報告を聞くと、窓に立つ。事務所の2階からは、満ソ国境ゲートの周囲が見渡せた。ソ連兵士に引率された乗客の列がこちらに向かって来る。今日は多い。預けた荷物は別途に処理されるから、乗客は手荷物だけだ。しかし、ふらふらと行列は乱れがちである。
(また、審査官をけちったな)
安江は思う。ソ連の出国審査官は、中年の女性だけとなっていた。それでも、ロシア人だからウォッカは飲む、あびるほど飲む。二日酔いで、出勤できない者も多い。毎度のことだが、ソ連では規定日数内の病欠は認められるらしい。
(復活祭は来月の筈だが、ま、飲むのに理由はいらないか)
とにかく、無事に越境できた客は、いつものとおり歓待するべきだ。越境自体が奇跡といえないこともない。安江は背広の上着を着て、ネクタイを正す。欧州からの客には、協和会服は異様に映るらしいし、軍服はもっといけない。正に、そういう制服を嫌って国を出て来たのだから。
「所長、出国許可を得られなかった乗客が3名です」
「この3人か?」
「その通りです」
「わかった。犬養さんに出てもらう」
「はい」
所員は多くない。全員で手分けして行うしかないから、一人で複数の係を兼業だ。安江も入国審査を自ら行う。だが、出番にはまだ早い。国境を越えて来た乗客は、まず待合室に入ってもらう。暖房を効かせてあって、温かいお茶やスープ、ビスケットが出される。暖まって落ち着いたところで、満州国側の入国審査となる段取りだ。
安江は時間を見計らって、階下の部屋に下りて行く。
審査室に入ってきたのは、美男美女の夫婦だった。
「ええと、ヴィクトル・ラズロさんですね」
「ヤー」
「そして奥さんのイルザ・ラントさん」
「ウィ」
「満州国入国手続きを始めます。要件を確認します」
「ああ」
「お願いするわ」
「ラズロさんはチェコ人ですか、それともスロバキア人?」
「チェコスロバキア人だ!」
「ひっ」
「あなた」
「「・・・」」
「失礼があったらお詫びしますが、興奮しないでください」
「わるかった」
「ええと、ラズロさん名義で満州国内の銀行に振込みがありました」
「もちろんだ」
「名目は農地購入代金。えーと、すごいな」
「「・・・」」
「入境目的はハルビンへの入植。クラスA2ですね」
「「・・・」」
「問題ありません。入国を許可します」
「「おおっ」」
「満洲へようこそ。歓迎します」
「「ありがとう」」
「ハルビンまでの列車はあと1時間で発車です」
「うん」
「着いたら、民政部の事務所へどうぞ」
「ああ」
「そこで、民籍を発行します」
「民籍とは?」
「満洲帝国での国民登録です」
「え?」
「するしないは、ご夫婦の自由意志です」
「へえ」
「登録すると、権利と義務が生じます」
「「・・・」」
「しないと義務は生じませんが、権利が制限されます」
「詳しくはこの冊子をご覧ください」
「おっ、チェコ語ではないか」
「ハルビンには各国人の支援事務所があります」
「ほんとだったのか」
「もちろんです。暫定民籍を出します。3ヶ月有効です」
「「オー」」
「では、あちらで預けた荷物を確認して、お待ちください」
「ありがとう。デクイー」
「ネニーザチュ。どういたしまして」
美男美女の夫婦は、入って来た時とはうって変わり、満面の笑みで退室して行く。その後姿に安江は頷き、二人が国民登録をすればいいなと思った。
「次の方、どうぞ」
満洲帝国、新京。
宮内府を正午に退庁した顧問官の工藤忠は、昨年勇退した前侍従武官長の張海鵬と面談していた。このところ、工藤は古い友達を訪問していた。張は、馬賊討伐の軍人でありながら馬賊に転じ、張作霖の義兄弟となった。中華民国では旅団長となり、満州国では熱河省省長にもなった。75歳の老将軍である。
長い間、工藤忠が同志として行動をともにしてきた、蒙古人の升充はすでにない。湯玉麟も逝ったから、30年以上の付き合いは張海鵬が残るぐらいだった。工藤は、三十路の時から邁進してきた復辟の大儀を、還暦を迎えようとする今、再確認しておきたかった。
「老師将軍。よいのでしょうか?」
「王大人、どの件ですかな?」
「白人、あるいは欧州人の入植についてです」
「ふむ。ロシア人はもともと多かった」
「それは隣国ですから」
工藤が心配していたのは、満洲帝国の民籍のあり方である。国民政策といってもいい。昨年の日中和平から、満洲は移民殖民を積極的に受け入れている。今までの日漢だけではなく、欧州各国からの移民も優遇していた。
それまでも白系ロシア人は受け入れていたものの、入植地は限定されていた。しかし、日本人が次々と引き揚げていく今、空いた土地に欧州人が続々と入植して来る。人数的にはまだ大きくないが、彼らが農場用地として買収した土地は無視できない広さになりつつあった。
「思うに、秩序や安寧は自分たちで作り上げるものだ」
「あ」
「そして、不断の尽力で維持することを怠ってはいけない」
「それは、満蒙の民の考え方でしたね」
「日本では天、いやお上がもたらすものでしたな」
「はい。政府の役目です」
「理解はできるが、大陸ではその考えはない」
「通用しないし、空論で終わると」
「そう。そして、新彊、青海、西蔵の民も同じ考えだ」
「ああ」
張はにこりと笑って、年下の旧友の目を覗き込んだ。
「そういうことをずいぶんと議論しましたな」
「はい。そうです」
「懐かしい。想いだした」
「ええ」
「たしか、自治の話だった。自主裁判権の」
「経済学で言う、コストと効率との比較でしたね」
「そうとも。たまの見せしめの方がよほどいいと」
「ふふふ」
「ははは」
張は家人に言って、庭に酒の仕度をさせる。
「うちの桃はまだまだでしてな」
「いえいえ、3月ですから」
3月は満洲国建国の月であり、また首都名を長春から新京へ命名した月でもあった。
庭園の四阿で、二人は乾杯した。四阿といってもなかなか立派な瓦葺きで、これはもう亭と呼ぶべきだろう。
張は、真顔になって言う。
「2回目の訪日の後、鉄石先生は糾問されましたな」
「はい。思わぬ成り行きでした」
「恩義に対する礼である1回目は当然だ」
「2回目に関しては弁解の余地がありません」
「いや、先生の職務は陛下の護衛です」
「はっ、痛み入ります」
「だから先生を責めるのは筋違いだと主張した」
「その節は、恐れ入りました」
満洲帝国皇帝溥儀は、2回訪日していた。1回目は満州帝国皇帝となった翌年の昭和10年、2回目は欧州大戦で仏国が降伏した直後の昭和15年6月だった。満日友好は満洲宮廷も望むところであった。なにより、満洲独立に際しての日本の貢献は揺るぎない。だから、訪日して礼を尽くすことは、まったく問題とならなかった。
しかし、2回目の訪日は旧臣たちの間で大問題となる。満洲帝国皇帝と大日本帝国天皇との間で、溥儀皇帝の後嗣について提議があったとされたからだ。その上に建国神廟とは、噴飯ものである。満洲国の祖神として、日本の天照大神を祀るというのだ。諂い以外のなにものでもない。
「皇后陛下の間に男子がありませぬ」
「それだ。英国が送って来た家庭教師だ」
「なるほど」
「日本も気をつけたがよい、この先」
「はい」
現下、大日本帝国は満州帝国の内政、外交から手を引きつつある。日本人移民の大半も引き揚げていた。残留を決めた日本人移民は、満洲民籍に同意した者たちだ。また、新軍事協定で認められた関東軍の駐留費の大半は満洲が負担するという。満州国軍が熟成されるまでの間は。
だから、溥儀皇帝陛下の後嗣に日本の皇族を入れる話も、建国神廟も、日本独特の方式でうやむやな内に立ち消えとなるだろう。それはいい。
まもなく、満州と蒙古の連邦が成って清と号する。ようやく復辟が成る。しかし、大清国の再興には、まだ遠い。
張は姿勢を正すと、工藤を呼ぶ。
「忠閣下。お気づきではあろうが、言わせてもらう」
「おお」
「陛下の眼目は、異民族間の調停である」
「ああっ」
「それで、第2回訪日を超越できるとお考えだ」
「老師将軍、感謝します」
張は工藤に杯を即した。二人の話は、まだ終わっていない。
「復辟は、北京の紫禁城に還ってこそであるが」
「それが薄くなられまして」
「こういう情勢では、しばらくは無主のまま」
「では」
「異民族の糾合と統合を先行する」
「はい」
「満蒙が連邦すれば大清帝国の儀は立つ」
「漢は内乱で動けません」
「歴史は、今こそ漢を討てと教えている」
「陛下はそれを採られない」
「清の満蒙に加えて、新彊人、西蔵族」
「青海の回族。それに加えて欧州からの白人」
「それら異民族を統べることですね」
「大清皇帝ならできるはずだ」
「仰る通り」
「大陸から手を引く大日本帝国には出来まい」
「あっ」
「第2回訪日を克服するにはこれしかないのだ」
(陛下の御意企はそこに!)
長い会談を終えて、工藤忠は老いた将軍に暇を告げた。張海鵬は立ち上がると、工藤の肩を抱いて「頼む」と言う。工藤は大きく頷いた。
工藤を乗せた車は、自邸のある東朝陽路に向かう。
満洲帝国、北満鉄路。
満洲里と哈爾濱を結ぶのは濱洲線で、おおよそ1日強、26時間ほどかかった。午後に満洲里を発つと、翌日の夕方に哈爾濱に着く。ソ連領内の広軌1,520mmから1,435mmの標準軌に縮小されたとはいえ、1等室は横に二席だ。ゆったりどころではない。目いっぱい倒した席をぐるぐる回しても、前後左右の席には触れないほどである。
昨年末以来、満鉄にとって濱洲線は文字通りのドル箱になっている。欧州からの乗客はドル建てなのだ。客室には1等、2等、3等があり、1等室の運賃は3等室の2.5倍である。そして、欧州からの客は1等室利用がほとんどだ。満鉄は急遽、1等特別室や特等室を造作していた。
美男美女の夫婦は汽車に揺られていたが、笑みは絶やさない。振動は前進している証左であるから、不快に思えないのだ。なにより、1等特別室の居心地は好い。空調は快適に効いていて、食堂車までの行き来も上着は要らないくらいだ。もちろん、紳士淑女の常として、そんな真似はしない。
夫婦は、赤いカクテルを味わっていた。個室に取り付けられた電話で取り寄せたものだ。赤い色は柘榴由来だという。そういえば、窓の外は夕暮れ時だ。どこかで赤い夕陽の満州と聞いたが、列車はハイラルを過ぎて山間部に入っている。夫のヴィクトルは、入国審査室でもらった満洲入植案内の冊子を眺めていた。
暗くなった窓に厭きたのか、妻のイルザが聞く。
「あなた、やはりアメリカに行くの?」
「うん。でも、すぐでなくてもいいかな」
「そうよ」
「ハルビンを見てから決めようか」
「ええ、そうしましょう」
「モロッコに行くより簡単だった」
「でしょう」
「ここまで来たらもう大丈夫だ」
「だから、ゆっくりしましょう」
「そうだね」
「のんびりするのよ」
「時の過ぎ行くままにね」
「うふふ」
「あはは」
「でも、わたしのことを忘れちゃだめよ」
「もちろんさ、いつも君を見ている」
「うふふ」
「「乾杯!」」
その時、個室のドアを叩く音がした。
「ヤ」
「サー、食卓の準備が出来ました」
「まあ」
「ありがとう。今、行くよ」
「サンキュー、サー」
ごとんごとんと、列車は進む。




