5 外交官補
アメリカ合衆国、ワシントン府。
土曜日の夕方、在米日本大使館を出た山藤は、同僚の宮沢の後ろについて市電に乗った。ワシントンの市電は、日本と違ってとても静かで、線路の継ぎ目がないのかと疑うほどである。提げた鞄の中にはワインが数本入っている。朝まで飲み明かそうという誘いに、山藤は乗ったのだ。
宮沢喜一は、東大法学部在学中の昨年の10月に高等文官試験の外交科、すなわち外交官試験を受験し合格した。外務省では、入省年度ではなく、外交官試験の合格年度で呼ぶ。つまり、第50期、または昭和16年組である。外務省入省は、山藤と同じ昨年の11月である。
宮沢のアパートは暖房が効いていた。といって、汗ばむほどではない。どうも、冷暖房に対する欧米人の感覚は違うようで、肌着で過ごせるほどに効かすのがふつうらしい。それに比べると、この部屋はだいぶ控えめであった。もともと家屋が外の風雪を防いでいるのだから、そう大袈裟に暖める必要はないと考えるのが日本人だ。
日本人は、冬は冬として過ごす。しかし、と、重一は思う。これぐらいでなくてはビールはうまくないのも事実だ。さあ、飲むぞ!
二人は早速、オーバーに続いて上着も脱いだ。シャツは腕まくりをする。
テーブルにはつまみが広げられる。宮沢が、缶詰や瓶詰め、ハムやパテの皿を並べる。豪華なものだ。野菜も、やはり瓶詰めのアスパラガスとザワークラウトだ。山藤は、薄斬りにしたブレッドをオーブンで焼いて木皿に盛る。ガーリックの匂いが立ち込める。
二人は、冷蔵庫から出したバドワイザーで乾杯する。
「帝国の繁栄と」
「帝室の弥栄に」
「「乾杯!」」
かちん、がちん。
「「あっはっは」」
山藤重一は昭和15年組なので、1年先輩になるのだが、同日同期の入省と公言して先輩風を吹かさない。合格通知と同時に入省させられ、すぐに浅間丸に乗せられた。それからシアトル上陸、GN吉田号の騒動。ワシントンに着くまでの2週間、寝食を共にした。二人は同い年でもある。
「なにを急ぐのかと思ったんだよね」
「合格通知の件だね」
「まさか人事課長が家まで来るとは、びっくりしたよ」
「僕の場合は入営先だったんだ」
「「あははー」」
高文の受験資格は高等学校卒業以上とされているが、それは予備試験免除の要件であって、必須条件ではない。帝大や私立大学以外にも、高等学校卒や中学校卒、陸軍士官学校予科卒で合格した者もいた。
同様に、在学中に合格すれば卒業を待つ必要もない。実際に、大学を退学して入省する者は多かった。
「両親が仰天して、すぐに行きなさいって」
「よほど成績が優秀で、期待されていると」
「そんなことなかったよね」
「そうだよね」
「船上で結城書記官に聞いてがっかりしたよ」
「でも一人でなくてよかった」
「そうとも。心強かったさ」
「「あははー」」
もともと、外務省が人手不足なのは事実である。さらに、昨年の場合は、重光大臣の至上命令があった。新人官補を最低二人、それも浅間丸の出航に間に合わせろというのだ。首がかかった人事課長は必死に口説いて回った。実は吉田新大使の要求で、重光には無茶を断われない事情があったらしい。
二人はビールを飲みながら、浅間丸と吉田号での騒動を振り返る。今でこそ笑い話だが、右も左もわからなかった4ヶ月前は懸命だったのだ。そして、話題は現在へと進む。
「重一の会話は通じるよなあ」
「そうかい。喜一もすごいじゃないか」
「遺恨があるからね」
「そんなに気にすることかい?」
「ああ、3年前の初渡米はショックだった」
「日米学生会議だね」
「うん、まったく通じなかった」
「英会話は、英語の読み書きとは別物だからね」
「全く別の言語さ」
「そりゃ、大げさだよ」
「「あっはっは」」
宮沢は高等学校は文甲で、英語を専攻とし首席で卒業した。だから、南カリフォルニア大学で開かれた日米学生会議には堂々と乗り込んだ。だが、話が通じない。子供の頃から理屈屋であった宮沢は、必死に論理立てしたが、説得できない。ディベートは、読み書きではなかった。
「それから頑張っているんだよね」
「そう、議論と英会話の大切さを思い知ったんだ」
「喜一は理論家で、酒好きだからな」
「うふふ、まさに外交官にうってつけだろう」
「ほかにも、得るものがあったんじゃない」
「あれ」
「日米学生会議は、女子学生も出るのだろ?」
「えっ」
宮沢の顔は赤くなった。落としたアンチョビを、手づかみで口に入れる。
(確かに議論好きで、酒癖が悪い)
「え、なに?」
(けど、ま、正直なところもあるな)
「「あははー」」
ナイフとフォークを器用に使い、皿の上でカナッペを拵えると口に運ぶ。別に、西洋式食事作法を尊重している訳ではない。手が汚れるのが嫌なのだ。特に、手についた油脂が酒のグラスにつくのが許せない。
とは言っても、酒宴も後半に入ると手づかみとなるから、テーブルには絞ったタオルが3つ、4つ置かれていた。
「ねぇ、重一」
「なんだい?」
「米国にも階級があるのは分かるよね?」
「もちろんさ」
「見た目は、ホワイト、カラードのふたつだけど」
「ホワイトの中は重層だね」
「知ってるんだ」
「知ってるとも」
「僕の英会話は、ホワイトの上のほうだけ」
「ああ、それか」
「レストランやデパートでは感じないけど」
「うん」
「売店や食堂では、え?という顔をされる」
「住む階層で使う単語も違うからね」
「そうだろ。数えた限りで、ホワイトでも4つはあるね」
「へー。喜一もやるねぇ」
「えへん。でも重一は誰にも通じるみたい」
「あれ、そうかな。話し分けてるのかな」
「そこを聞いているのだけど」
「ごめん、意識したことない」
「これだよ」
「う~ん、難しい単語は使ってない」
「軽い言葉ばかりか。軽一だね」
「「あははー」」
ビールを飲み、軽口を叩きながら、宮沢は頃合を計っていた。
山藤は気さくで人付き合いがよい。そそっかしいところもあるが、礼儀はきちんとしているので、皆に好かれている。しかし、宮沢の目で見るところ、決して粗忽者ではないし、軽率でもない。用意周到に行動している節があった。
「「かんぱ~い」」
がちゃん、がつん。
「乱暴だよ」
「ご乱心~」
「「あっはっは」」
喜一は長男で、父は衆議院議員だ。親戚や知己には政官財の大物が多い。いずれ、父の地盤を次いで政治家となるだろう。
一方、山藤家では、官僚になったのは重一がはじめてらしい。五里霧中だから、がむしゃらに知己を広げるしかないのだろう。
そんな重一にあっと言わせて本音を引き出す。値踏みしてやろうと、機をみていた。
「ねぇ、学校はどうする?」
「来月から行っても、中途半端だよね」
「それに、交渉の結果も見極めたい」
「やっぱり、9月からにするかあ」
「カレッジよりユニバーシティがいいな」
「そうだよね」
「そうだよ」
外務省では、新米の官補は赴任先で修学させられる。半年から1年を大学で過ごして、言語に磨きをかけるのだ。米国の大学の新学期は9月からで、まだ二人は修学していない。
「喜一は何にするの?」
「え。そうだね、経済学かな」
「ふ~ん、やっぱり」
「重一は?」
「国際政治学かな」
「ええー」
「あれ、どうして」
「だって、国際政治って学問なのかなーって」
「君は政治学科じゃなかったっけ」
「そうだけど。語彙と専門用語だけだよ」
「う~ん。じゃ、世界史」
「それはいいね。どこにする?」
「シカゴかな」
「なるほど」
山藤の希望がシカゴ大学だと聞いて、宮沢はやはりと思う。
シカゴにはGN鉄道の本拠がある。山藤はGN鉄道から利益供与を受けているとの噂があった。GN幹部らと妙に親しいらしい。山藤は電信室に勤務していた。
吉田新大使の着任と同時に本省との電信暗号は更新された。それが昨年の有利に通じたのかは宮沢にはわからない。しかし、ここ数ヶ月の日米交渉は不調だった。機密情報を流して代価を得る。山藤は、その絶好の部署にいるではないか。
「そろそろ、ワインにしようか」
「あっ、え」
「もう冷えた頃だと思うよ」
「ああ、ワインだね」
「うん。どうかしたの?」
「さて、コルク抜き、コルク抜き」
「・・・」
山藤は、招待のお土産にワインを持ち込んでいた。抜かりないところだ。この季節だから充分に冷えているはずだが、部屋は暖かい。念のために、冷蔵庫に入れてあった。
「新庄さんが送ってきたんだ」
「へー」
「今、カラカスにいるらしい」
「ベネズエラか。三井物産だったね」
「うん、中南米支店長だよ」
「ブラジルでもアルゼンチンでもない?」
「コロンビアだと首都が内陸だからね」
「ああ、カリブ海か」
宮沢は、細めのワイングラスを置く。そして、山藤が注ぐ。かちん、ごくん。
「へーっ、辛口だね」
「ぷわーっ。さすが新庄さん。ぴりぴりする」
「チリなの?」
「ほんとだ。チリ産だ」
「新庄さんって?」
「ほとんど、支店には居ないらしいよ」
「え?」
「中南米を飛び回っているんだって」
「あっ、物産の抜け駆けか!」
「そうそう」
昨年の11月に米国は、資産凍結を解除し、工作機械と潤滑油の輸出を解禁した。しかし、屑鉄や石油全般の解禁に至るには、相当の日月がかかった。その間隙を突いて、三井物産は中南米からそれら屑鉄や石油を輸入したのだ。陸軍徴用貨物船10隻に満載された積荷が陸揚げされたのは、米国からのそれより1ヵ月近くも早かった。
宮沢は焦り始めていた。どうも、話の主導権をつかめない。それは、山藤の話が面白いからだ。驚くほどに話題が豊富だった。もう、正面突破で行くか。多少強引でも、あっという話なら同じだろう。
「重一、吉田大使の任務は知ってるかい」
「え。だから、日米通商条約だろ」
「それだけではない」
「え、え」
「それだけなら、旧スタッフの総取替えは必要ない」
「あ、あ。そうだね」
「僕にはわかる気がする」
「え、なに、何なんだい」
「ずばり、日米同盟だ」
「えええーっ」
「「・・・」」
さすがの山藤も驚愕したようだ。ワインをがぶ飲みすると、黙考している。着任以来の吉田大使の言動を振り返っているのだろう。宮沢は、間をとってやった。
よし、ここからだ。追い討ちをかけて、山藤が売国奴かどうか、確かめてやる。
じりりりりりりりんん。
けたたましくベルが鳴った。
「「えっ」」
「電話だ!」
「こんな時間に?」
渋い顔をして、宮沢が電話に立った。いかにも不機嫌だ。しかし、応答する間に、顔色が変わる。酔いの赤味が見る間に引いて、青くなった。
受話器をおいた宮沢が山藤を振り返って、言った。
「非常呼集だっ!」
「えええ」
「重大事件が起こったらしい」
「「大変だ」」
どたんばたん。じゃぶじゃぶ。げ、げーっ。
慌てて二人は、顔を洗い、水を飲み、酒を吐く。オーバーのボタンを詰めながら、階段を駆け下りた。
寒風の中でタクシーを待ちながら、宮沢と山藤は考える。
(防特演か)
(あの水域は援ソ船団の航路だ)
(それとも、満洲か)
(まさかソ連が)
((いったい、なにが起きたのだ!))




