1 鍵を狩る者
ドイツ、ベルリン。
ベルリンの高級日本料理店『あけぼの』の一室で、坂西陸軍中将と西郷陸軍中佐は鍋をつついていた。坂西は在独日本大使館勤務の陸軍武官、西郷は大使附きである。
「すきやきとは豪勢ですね」
「たまにはいいだろう」
「はい。長い日陰者でした」
「まあ、やれ」
「はっ。いただきます」
「うん、うまい」
「はい。うまいですね」
今朝、大使執務室に呼ばれた坂西は、上機嫌の大島大使から褒め上げられた。日頃の精勤を賞賛され、たまには息抜きをしろと三日間の特別休暇と金一封までもらった。どうやら、坂西が上げた情報が、大島大使の役に立ったらしい。
「よほどのことですね」
「うん。しかし複雑な思いだ」
「え?」
「報告した中に役立つものがあったのだろう?」
「はい、そういうことですが」
「大使が喜ぶからには、独逸の役に立つということだ」
「あ、そうですね」
「「・・・」」
ベルリンの在独日本大使館では、穏健派の二人は異端であり、冷や飯を食わされていた。しかし、最近になって風向きが変わったのか、大使によく呼ばれるようになった。話も聞いてくれる。そして、部屋も日のあたるところになった。
「殊勲艦は3隻とも、ノルウェーに到着しましたね」
「ああ、新聞で見たよ」
「これで、ノルウェー海の独逸戦艦は3隻になりました」
「英海軍も、さぞ頭が痛いだろう」
「ソ連もでしょう」
「アイスランドからの輸送船団か」
「未確認ですが、引き返したようです」
「あの辺は、悪天候があたりまえだろう」
「はい、吹雪も結氷もありますし」
「海軍さんもたいへんだな」
殊勲艦とは、先月、白昼堂々とドーバー海峡を横切って、フランスのブレストからドイツ本国のキール軍港に帰還したシャルンホルスト、グナイゼナウ、プリンツ・オイゲンの3隻の軍艦のことである。シャルンホルストとグナイゼナウは同級の戦艦で、プリンツ・オイゲンは重巡洋艦である。
それまで、英国と王立海軍はドーバー海峡の敵艦通過を許したことはなかった。総統と独逸海軍は、英国の鼻を明かしたのである。ドイツ国内紙も海外紙も、先月末の新聞は大喝采であった。ただ1つ英国紙を除いて。
今月になって、3隻共にノルウェーに健在であると新聞に続報が出た。もちろん、坂西と西郷は、もう少し詳しい情報を知っている。独逸国防軍情報部と在独日本武官府はうまくやっている。同盟を離脱した後は追い出されると思った西郷の心配は、いまのところ杞憂に終わっていた。
「1月からいるティルピッツと合わせて、戦艦3隻か」
「もちろんUボートもいます」
「そうだな、援ソ船団の航海は難儀になるな」
「護衛の英海軍も忙しくなりますね」
「英国には何隻の戦艦が残っているのだ?」
「さて?」
「「・・・」」
二人とも陸軍軍人だから、あたりまえだが、海軍には詳しくない。戦艦は軍艦の中で一番強くて、次が重巡、そして軽巡、駆逐艦。それぐらいしかわからない。漠然と、要塞砲、野戦重砲、野砲、歩兵砲みたいなものかと想像してみる。
いずれにしても、米英からの支援物資が届かなければ、ソ連は不利になるだろうう。春、いや夏からの東部戦線は独逸軍が有利になるかもしれない。
「どこになりますかね?」
「独逸の夏季攻勢の目標か」
「はい。3つのどれか」
「北、中央、南の3つか?」
「最初に立てたソ連野戦軍の殲滅はもう無理でしょう」
「そうか?」
「昨年開戦からの独軍の損害は80万です」
「投入兵力300万の3割か」
「戦果は捕虜も含めて400万」
「独参謀本部が見積もったソ連の総兵力なのだ、それは」
「「・・・」」
「もう、決戦は無理ですね」
「西郷中佐、考えたんだがね」
「はっ」
「電撃戦は、心理作戦でもあるんだな」
「あっ」
「敵軍指揮中枢の想像を超えた快進撃と大戦果」
「はっ、予備や動員など敵の対応を許さない」
「タネは、火力と装甲と速度の集中なのだが」
「それで敵国首脳部の継戦意欲を潰す」
「もう降伏しかないと追い詰める」
「心理作戦ですね。まさに」
「中央のモスクワ攻略が一番困難だ」
「突出しますし、両翼から横槍を喰らいます」
「正攻法なら大兵力が必要だ」
「集中ができないなら、ひと夏では無理ですね」
「正面への集中はまだ可能だろうが」
「側面防御の手配までは」
「だから一点突破の電撃戦だったのだが」
「冬の間に防衛線が敷かれては、もう通用しない」
「北と南をかかえていてはな」
「やはり、北ですね。レニングラード」
「芬蘭を誘っての片翼包囲、形はいい」
「湖が凍って補給線になるとは想定外でした」
「戦訓だな。満洲防衛に活かせる」
「どこかで突破できませんかね」
「そうだな、芬蘭に増援するのが早いかな」
「上陸戦と後方からの包囲でも」
「いま少しなんだがな」
「それでも、ひと夏はかかります」
「ひと夏あれば出来るんだよな」
「すると、南ですか」
「クリミア半島は抑えたから、もう十分なのだが」
「総統の戦争経済がありますから」
「ああ、バクー油田か」
「遠いですか?」
「そんなことはないが、作戦目的をどこにおくか」
「ソ連軍への石油を絶つことでしょう?」
「バクーまで行かなくても、それは実現できる」
「石油を渡さないか、我が物にするか、ですね」
「占領されると見たら、ソ連軍は破壊するだろう」
「なかったことにするのですね」
「南は深い。バクーが取れたら守らなければならん」
「ボルガ河までですか」
「少なくとも、河口の両岸は抑えなければ」
「かなり突出することになります」
「ああ、カスピ海では海軍を運用できるよな?」
「大型貨物船が行き交う海です」
「そしてバクーの先はペルシアだ」
「イランは英国が進駐しました」
「いくらなんでも店を広げすぎだろう」
坂西が頷くと、西郷は追加の肉と酒を注文した。胃痛は治ったらしい。
なにしろ、この店の日本酒は高い。飲める時に飲んでおかないと。
「つまり、1年や2年では終わらない」
「長期戦になると資源と兵站線の維持が」
「ああ、北だとアルハンゲリスクとムルマンスク」
「レニングラードさえ抜けば」
「南はペルシア回廊だな」
「水運を抑えるには、カスピ海とボルガ河」
「ペルシア湾は中東の英軍も使っているな」
「そして、油田は南のカフカスとイラン」
「「・・・」」
「閣下、熱いうちにどうぞ」
「おう、すまんな。中佐」
「こうして見ると、モスクワに固執する必要はないですね」
「ああ、開戦直後の昨年ほどの価値はない」
「ソ連は首都機能も工場群も疎開させたといいます」
「それは、つまり、電撃戦を封じたということだな」
「なるほど、そうなりますね」
「総統には政治面、内政・外交の懸案もある」
「ドイツ人の支持は磐石ですが、公約もあります」
「わしら軍人は、政治については語らない」
「はっ。その通りであります」
「ん、もぐもぐ」
「うい、ごくん」
「戦争経済といっても、資源ぐらいはわかるぞ」
「げふ。は、はっ」
「見るところ、兵站は鉄道の石炭」
「戦闘は、陸戦・海戦・空戦ともに石油です」
「クリミア半島まで進駐した枢軸軍は」
「ルーマニア油田の防御は完璧になりました」
「独逸軍の分だけ、あるいは東部戦線の分だけだ」
「ああ、伊太軍がいましたねぇ」
「げふんげふん。えー、同盟国にも回すには」
「バクー油田が欲しいんですね」
しめの雑炊をつくるために、西郷はご飯と玉子を頼む。
坂西は、野菜が残っていないか、鍋を箸で掬う。
「どうも西洋のマッシュルームは鍋に合わない」
「はい」
「えと、あれだ」
「はっ」
「枢軸国全体にとっての鍵は、石油だな」
「はっ」
「独逸に限っては、人が鍵だ」
「人的資源ですか」
「兵隊にする若者だな」
「つい数年前まで600万の失業者がいたのですが」
「今は、フランスから30万の労働者を輸入しているぞ」
「はい」
「昨年の80万の損害を回復するには、数年かかる」
「いい方法があるんですけどね」
「そうなんだがな」
「ま、あちらもご承知でしょう」
「いろいろとあるのだろう、大人の事情が」
「・・・」
「あとは、敵側の兵站線の破壊ですか」
「補給戦だな。言い換えると」
「はい、北と南。北は出来そうですね」
「南も、やろうと思えばできるだろう」
「リビアのロンメル将軍と連携ですか」
「しかし、北と南の補給線が崩壊すると」
「残るは、北太平洋船団となります」
「それは困るな。帝国が巻き込まれる」
「ああ、そうですね」
「陸軍はともかく、海軍は黙って見逃すか?」
「しかし、米国が」
「と、国民を煽る輩が出るだろう」
「「・・・」」
すべてを食い終わって、二人はお茶を飲み、煙草を点ける。
「結局、独逸の国家目的ですね」
「うん、それで戦略は変わる」
「どこまで入植し、どこを前線とするか」
「前線の後背には兵站線がいる」
「内線機動の交通網と航空基地も必要です」
「戦争しながら建設もやる、貧乏国はたいへんだ」
「どうも、わが国と同じような」
「だから、同盟国だったのだ」
「・・・」
「鍵は、石油と人だ」
「相手は選ぶべきですね」
「まったくだ」
ドイツ、ベルリン。在独満洲国公使館。
参事官室では、星機関の幹部が会合を開いていた。
機関長の星野一郎参事官、公使館嘱託の三好次郎と杉本佐武朗の三人である。話題は、まずは星機関の収支、試算表だった。
「いい実入りになってますね」
「三好君、そういう言い方はやめよう」
「はい。星機関の経費を補って余りあります」
「さすがはD機関長です。悪知恵はたいしたものだ」
「杉本君、もう少し穏やかな表現を」
「はい。ある所にはあるものですね」
「それが欧州だよ」
シベリア鉄道の使用が日本に開放されている。満洲-西シベリア-カザフ-カスピ海-黒海-トルコを経由する、日本と欧州の連絡路は賑わっていた。日本人の利用はもちろん、通過査証をもつ欧州人もいた。
大日本帝国が発行する満州国通過査証には、最終目的国の入国許可ないし入国見込みが必要であった。日本は、外国人への入国許可はなかなか出さない。欧州人の目的地は上海租界であり、最終目的地は米国だった。政治亡命は、日本でなくても、どの国も審査はうるさい。
一方で、独ソを筆頭に、欧州各国は外国人を国外に移動させたかった。政治亡命を希望する外国人とは、活動家とほぼ同義である。活動家は、右も左も、同国人であっても安心できない。外国人なら、なおさら剣呑だ。さらに、欧州各地には数百万のユダヤ人がいる。
ここで、満洲帝国外交部が動いた。満洲への移民を条件に、満州国入国許可を発行したのだ。満洲国は、独伊ほか枢軸諸国と正式国交があり、外交官を交換している。ソ連にもチタなどに領事館があった。満州国入国許可を担保に、ソ連を含めた各国は通過査証を発行することになった。
「希望者は多いですね。思った以上です」
「そりゃ、本人以上に、国が望んでいるのだからな」
「「・・・」」
枢軸各国が追い出したい人間、もとい満洲国への移住希望者は、各国官憲で証明書を発行してもらう。この時点で、ナチスドイツ国家保安本部の審査は終わっている。満州国領事館では、証明書を確認した後、移民審査を行う。満州国内で入植地ないし住居地を購入することが可能かどうか、つまり金があるかないかである。
「満洲の移民政策を、各国は歓迎しているようです」
「うむ。特に独逸とソ連が諸手を挙げている」
「意外と、両国は似ているのですね」
「げふんげふん」
満州国外交部は、これを機に、満洲帝国を承認する国家が増えることを期待していた。今日明日でなくてもいい。時間はある。外交とは、長い付き合いなのだ。
そして、短期的には、領事館の査証・入国許可の審査料収入が急増していた。比例して、領事館の機密費も潤沢となっている。
話題は、北アフリカ戦線に移った。
「仏伊国内の工作は終わったか」
「クレシャスェールはアルジェに入りました」
「いよいよ本番ですね」
「鍵は石油と人だ」
「「・・・」」
北アフリカ、フランス領アルジェリア、アルジェ。
カスバは、アルジェリアの首都アルジェの旧市街区である。古く美しく、そして怪しい町並みは、2年前に日本で公開された仏映画『望郷』の舞台であった。
自由を愛し平和を求めるクロキグループは、今、その酒場にいる。彼らの会話は喧騒に掻き消されていた。
「どうだ、ケイコ?」
「OKです、ボス」
「そういうことだ、カザマ」
「はい。姐御も一緒ですよね?」
「今回だけは、ね」
「メルシー」
「では、ビルアケムは頼んだ」
「「ダコー」」
「ボス、歌っていい?」
「今日は止めとけ、ケイコ」
「あら、残念」
「残念です、姐御」
「打ち上げはモロッコだ」
「ウィ、ボス」
「いいか、鍵は石油と人だ。忘れるな」
「「チンチン!」」




