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LN東條戦記第3部「売国宰相」  作者: 異不丸
第1章 昭和17年2月
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8 関東総軍

満洲帝国、新京。午後。


関東総軍総司令部の自室で、総司令官の梅津美治郎陸軍大将は黙って煙草を吸っていた。灰皿に盛り上がった吸殻が梅津の苛立ちを示す。時々、右膝で貧乏揺すりもする。



(東條め、関東軍ごと満洲を売るつもりか)



梅津総司令官の苛立ちの原因は、関東軍の再編制の遅滞であった。

関東総軍は、歩兵師団15個、戦車連隊6個、野戦重砲兵連隊20個を基幹に再編制が進められていた。朝鮮軍も隷下に収めたので、師団数はそんなに増えない。しかし、火力と機動力は増強される。


野戦重砲兵連隊は96式15cm榴弾砲24門を運用する。完全に自動車化され、連隊段列も拡充された。歩兵には、7.7mm口径の99式歩兵銃と99式軽機関銃が配備される。6.5mmの38式実包と違って、7.7mmの威力はロシア兵の突進を止めるだろう。さらに、歩兵師団の3個連隊のうちの1個は、北方連隊に改編される。



(まだ、全部揃ったわけではない)



梅津も帝国の貧乏は熟知しており、すべてが一気に進むとは期待していない。従来から満洲にあった戦車部隊と重砲兵部隊はそのままに、支那派遣総軍の戦車と重野砲が配備される。それだけでも、たいしたものだ。

問題は、師団削減の影響だった。


陸軍中央は残存20個師団の枠を、単純に師団号順とした。しかも、近衛師団を2つにしたから、残る師団は第18師団までだ。短絡的としかいいようがない。これでは、満洲に残る師団は玉杉武鉄錦剣照の7個師団だけで、朝鮮には師団がいなくなってしまう。空いた穴を塞ぐ、幸明鏡祭垣月の師団は、はるばる南支や中支からの着任を待つしかない。

このままでは、関東軍の師団数は半減してしまう。



(敵前正面でやることではない)



参謀本部の作戦課は、廃止の決まった師団を優先して復員させるという。陸軍省兵務局も、内務省との約束どおりに本能的反応冷却期間をすぐに開始したい。集団就職の員数がまったく揃ってないと、商工省や企業からも催促されてるらしい。ぐずぐずしていると、大蔵省から予算を減らされてしまう。


再編制の詳細と復員の実態が判明したのは年末だった。知ったからには、正月を祝うどころではない。総軍司令部の参謀たちは、本省本部の課員参謀たちを呪いながら、徹夜で作業を続けるしかなかった。そうでなくても、粛軍の影響で新参の参謀が多い。錯誤や失策が続発した。昨年末から、関東総軍総司令部の士気は最低となっている。



(やはり、東條に嵌められたのか)



もちろん、総軍の編制や改変は参謀本部の軍令によるもので、移動や輸送の手配は陸軍省が行っていた。だから、今は総理に専念している東條首相に直接の責任はない。しかし、多田大将を口説き落とし、山下中将に恩を売った首相は、省部の要所要所にもしっかり、自身の人事を残していた。


梅津も、自分の感情が八つ当たりに近いことは自覚している。しかし、いくら二正面作戦を嫌うソ連でも、満洲の防衛に隙があると見れば、威力偵察ぐらいはやるだろう。梅津の眼からは、満洲は隙だらけであった。まるで誘っているようだ。実際に、国境での紛争や越境事件は頻発している。



(ソ連軍につけこまれたらどうするのだ)



参謀本部や陸軍省の若手たちは、関東総軍の不安を一笑した。支那からの撤退兵団が満洲を通過するのです。大兵力だから緩々と何十日もかかります。露助には、日本軍が3倍にも4倍にも膨れ上がったと見えるでしょう。出てきたらこれ幸い、がつんとやればよろしいのです。


悪夢の如き年末年始は、ゆっくりと日が過ぎていく。総司令部の参謀たちは、いつ電話が鳴るか、伝令が飛び込んで来るか、気が気ではない。いつもの年より2倍も3倍も長く感じられた。

ようやく、官舎に帰って眠れるようになった頃、山下陸相から連絡が入った。東條首相が新京を訪問するという。



(今頃になって、なんだ)



梅津総司令官の苛立ちは、募るばかりである。







同じ日の夜。哈爾浜。


指定された店の外観は、荒っぽく削り出した板と角材でできたダーチャ風だった。冬にシャシリクを出すにはおあつらえ向きだ。しかし、二重の扉でできた入り口を入ると、内壁は煉瓦と漆喰で固められ、洒落た壁紙が貼られていた。換気も考えてあるらしく、石炭の匂いはしない。


根本は首巻と外套をクロークルームに預ける。手袋は、外套のポケットに入れてある。護衛の二人も同じようにしながら、中の暖房に顔をしかめる。汗ばむほどの暖かさに腹を立てたのだ。別の同僚二人は外で立ち番だ。訓練されてはいるが、愉快なことでない。


2階は、内装がさらに凝っていた。ペルシャ織りの絨毯は、靴に残った泥と埃を静かに吸い取って舞い立てない。塗り壁の骨材も調整されているのか、足音も話し声も吸収して響かないようである。



案内された部屋では、ロシア人のアレクセイとヤクート人の丁がお茶を飲んでいた。二人は立ち上がり、軽く頭を下げて微笑んだ。いつの間に覚えたか、日本式の会釈である。


丁は黙ってカップを置くと、窓のそばの椅子に着く。

根本の護衛の一人は、頷いてドアのそばに着く。もう一人の護衛は黙って部屋を出て行く。階段か廊下で立哨を務めるのだ。



「久し振りです、ギニラール・ネモト」

「マィオール・アレクセイ、昇進おめでとう」

「バリショー、スパシーバ」


そこで、女給がウォッカの仕度に入って来る。ドアの前の護衛が何も言わないということは、外の護衛が検めたということだ。

黒を基調とした民族衣装の女給は、ウォッカやジュースのフラスコ、グラスを隙なく配置する。どこの国でも、乾杯は大事な行事だ。丁と護衛の前にもグラスが置かれた。


「我々の友情のために」

「ザ、ナーシュ、ドルージブ」

「乾杯!」

「「トースト!」」




根本とアレクセイとの付き合いは、もう8ヵ月になった。

陸士23期の根本博陸軍中将は第24師団長であったが、着任して10ヶ月で師団は廃止となった。自身も折からの縮軍で予備役と覚悟したが、どういうわけか、関東総軍総司令官附きで満洲に居残っている。


根本は、一夕会にいながら桜会にも参席したことがある。三月事件や十月事件にも関係したので、統制派ではないとされた。すなわち、皇道派だ。

誤解を招く行動が多い。東條大佐や今村大佐には緊張感が足りないのだと言われた。根本自身、ぼうっとすることがよくあり、迂闊だったと悔やんでいる。



根本はずっと支那畑であり、林保源という支那名もあった。それが、新京の総司令部から哈爾浜に出張してきて、ロシア人と酒食を共にする。目的は支那、いや中華民国国内の情勢を知るためだ。そして、ここは第24師団司令部のあった街である。


もう、自分でも訳がわからない。危ないな。また、誤解を招く迂闊な行動と見られないか、心配である。だから、梅津総司令官と相談し、司令部からの護衛2名に加えて、D機関から2名を借りてきた。その一人が、今、この部屋にいる。




夕食のコースはメインを終わり、デザートに入った。

根本とアレクセイの話も、主題の中華情勢については終わっていた。護衛として相伴しているD機関員の顔色は変わらないが、瞳が輝いている。つまり、十分な情報は得られたということだろう。今回も、アレクセイ一家の商談は成功した。


ここからは、根本の本題に入る。アレクセイ一家は、情報ではなく、分析を売り物にしている。通常の情報屋と違って、生の情報はなかなか売ってくれない。それは、アレクセイ自身がソ連軍人であり、赤軍の情報部員だから、制限があったのだ。



しかし、分析は個人の自由思考であるから、別問題だ。制限はない。アレクセイはそう言う。

大いに疑問だ。そもそも、ソ連邦で自由な思考が許されるのか。そう思った根本だったが、8ヶ月の付き合いで、変心を余儀なくされた。なるほど、アレクセイ一彼の分析には金を出す価値がある。


だから、率直な質問をアレクセイに向けた。



「悪くはないです。ネモト将軍」

「ほんとうにいいのか。アレクセイ少佐」

「満洲で、ロシア人の村が増える」

「たしかに」

「ほかにも、日本人の跡地がユダヤ人の村になる」

「面白くないか?」

「ここは満洲です。南満洲は日露戦争で失った」

「ふむ」

「北満洲も、満州事変で日本の勢力圏になった」

「なるほど」

「その日本人がやっているのだ。口出しできない」


「取り返すか?」

「今のソ連では米国には勝てないでしょう」

「なぜそこで、米国が出てくる?」

「われらロシア人には、まだ国がない」

「ほう」

「いずれは、ロシアになるにしても」

「何処を指して言っているのだ」

「勝ち取ってない土地に文句は言えません」

「戦争で勝ち取れば、違うのだな?」

「むろんです。日本人もそうでしょう?」



根本は考える。


かつて鳴り物入りで呼び込んだ日本人開拓民が、今は次々と引き揚げていた。行き先は北海道らしい。そして、残された開拓村には満人や漢人ではなく、欧州人が入ってきている。ロシア人が多い。一部の村へはユダヤ人だ。帝国は北満洲を放棄するのか。しかし、それでは、満洲防衛構想が崩壊しないか?


関東軍の任務は、帝国の満洲権益の保護と防衛である。保護すべき農業移民や防衛すべき開拓地がなくなれば、北満洲は対ソ防衛の縦深だけとなるのか。いまや、満洲で防衛するべき最大の権益は南満洲の重工業であり、資源であった。満洲重工業開発の傘下の鉱工業群の鉱山や工場、南満洲油田だ。そして、その満業は今、組織改革と再編制でてんてこ舞いだと聞いた。



アレクセイや丁が、そして室内の護衛も呆れて見つめているのを、根本は失念していた。







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