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LN東條戦記第3部「売国宰相」  作者: 異不丸
第1章 昭和17年2月
14/59

7 正規分布


帝都東京、首相官邸。夕方。


紀元節から数日後のその日、総理官邸の小部屋には各省の審議官や参事官が集まっていた。昨年末から通常会の第78帝国議会が開院中であり、官僚たちは毎日忙しい。閣僚らも院内閣議で間に合わせている。参事官の大半も政府委員であり、一同が揃ったのは一週間ぶりだ。



今日の課題は貧乏対策である。


「最初に言いたい」

「どうぞ、文部省」

「名称を貧乏ではなく、貧窮対策として欲しい」

「同じことだが?」

「わかっている。だが、拘りたいんだ」

「君が言うなら仕方ない。貧困でなくていいんだな」

「貧窮でいい」

「わかった」




その文部省参事官は、貧農小作の出だった。本来なら尋常小学校を出るのもやっとのところを、地元の篤志家が両親祖父母を説得して、隣町の中学校へ上げてくれた。下宿先を探し学費を支弁したその篤志家は、村の大地主の一人である。


中学でも優等を続けていると、篤志家に呼び出され、県庁所在地にある大きな屋敷に連れていかれた。そこで、数人の紳士や軍人、国士に引き回される。面接らしい。村に帰ると、篤志家は得意そうに、お前は合格したんだぞと言った。その言葉のまま、高等学校、帝国大学を出て、高等文官試験に合格。文部省に入省した。



高文合格の報告を喜んで聞いた篤志家も、文部省に入省希望だと知ると慌てた。学費その他一切をずっと援助してきた県の大物たちは、見所のある少年の将来に投資していたのだ。学資援助という投資は、中央官衙のしかるべき地位について利権という形で返すものだ。文部省にはそんな利権はないだろう。


心配した篤志家は、再び彼を引き連れて、県の大物たちを回った。しかし、彼らは、笑って言った。すでに数十人を中央に送っている。一人や二人は脇役でもよかろう。文部省だって予算はあるし、他省から身内を応援するのも一興ではないか。さあ、合格入省を祝おう、祝宴だ。



よくある話だ。特に、維新の折、矢面に立った藩がある県には多い。

薩長土肥の県は有利を維持するために、朝敵とされた県は不遇を覆すために、優秀な子弟を中央に送り込もうと競い合った。だから、中央官庁に勤める高文の官僚の多くは、出身県の代弁と利害勘定から免れない。


ここにいる高級官僚たちにも覚えがある。

最高学府である高等学校や帝国大学の所在地には、各府県の寮や寄宿舎があり、それらの世話になる学生が大半だ。学費を自弁できたとしても、どこかで誰かに何かしら面倒はかけているものだ。およそ日本人なら義理や恩から逃れられない。



卒業して中央官衙に入っても、それは続く。それどころか、結婚すれば一気に親類は倍に増える。藩閥、地方閥や学閥に加えて、人脈、血脈、一族郎党のしがらみは多くなるばかりだ。そんなもの、出世さえすれば逆手に取ったり、かわしたりは朝飯前で児戯に等しい。しかしながら、積極的に排除しようとする高級官僚は少ない。


何も係累がなく、自由奔放な人間が帝国の枢要な地位につく。その方が、よほど恐ろしい。複数の誰かの影響下にあるなら、大脱線や破天荒はない。安心できる。ある程度の緩やかな縛りや絡みはあってしかるべきだ。その中で義理を果たしながらも、自身の夢や野望は達成する。

高級官僚が思い描く選良とは、そういうものだった。





「帝国の貧乏はどうなる」

「米国からの緊急輸入が成った。しばらくは増刷で持つ」

「工業生産の裏打ちが出来たから、拡大に入るのだな」

「それはわかるが、根本的な解決には遠い」

「いや、問題は、帝国の収支より、国民の生計だ」

「大部分の国民は貧窮のままだ。何も改善されてない」

「たしかに」


「アカの脅威で妄動を抑えているが、いつまで持つか」

「アカとはいえ紛れもない日本人を一万人も」

「言うな、首相は覚悟の上だ」

「そう、弥生神社の奥には」

「言うな、内務三役も一蓮托生なのだ」

「「われわれもだ」」



今朝、東條首相が弥生神社に参拝したことを、ここにいる全員が知っていた。


首相の朝の乗馬は散歩代わりで、首相官邸からお堀に出て時計回りに一周する。最近は中野国務大臣も一緒で、途中の靖国神社では二人並んで二拝二拍手一拝するのが日課である。隼町の弥生神社は、首相の乗馬経路では靖国神社の前だった。


18名の警官が殉職した一斉検挙から3ヶ月になる。弥生神社は警視庁の殉職者を祀るものだが、その本殿の左奥には、いつのまにか新しい祠が建立されていた。小さく植え込みに隠れて、参詣人でも気づく者は少ない。

建立した湯浅内相、留岡次官、今松警視総監の三人は、10日と空けず参拝していた。



「だからこそ、残った者にはいい思いをさせたい」

「生まれて良かったと」

「実際に、生き死にの問題なのだ」

「貧乏は変わらない。いずれ、また」

「根源は貧困だ」

「今しばらくだ、まもなく全体計画が成立する」

「「うん、うん」」

「それまで持たない者には、すまないと言うしかない」

「「うっ」」

「それからは、なんとかなる筈だ」

「「ううう」」

「こら、そこで泣いてる場合か」

「そうだ、僕らが強くなければどうする?」




縦軸に所得金額、横軸に人数を目盛として、表図を描く。国民の所得分布である。すると、漏斗を逆さにした形になった。管の部分は上から細く長く、下の逆さ擂鉢は低く潰れている。つまり、帝国臣民の貧富の差は激しく、大部分が貧乏だ。しかも、最貧困層が多い。


貧窮対策は、逆さ漏斗を三角形にし、最下層の所得数値を嵩上げすることである。貧富の差を縮める形の是正と、所得を増やす数値の是正との2つがあった。最終目標は緩やかな菱形で、中間層が最多となることだ。その時、平均所得と中央値が至近となるだろう。



「文部省、なんとか言え!」

「初等教育が第一だ」

「いや、そうではなくて」

「今は省益を話していないぞ」

「待て、聞こうじゃないか」


文部省参事官の主張は、従来から3つあった。(1)初等教育の改正、(2)修身教育の展開、(3)高等教育・最高学府の教授陣の刷新か再教育である。このうち教授陣の刷新と再教育は、昨年の一斉検挙から内務省の推すところとなって、閣議で採用されていた。



「最貧困層は圧倒的に農家です」

「なにをいまさら」

「農林省は、まず農家の自給自足を目指していたね」

((今度は農林省を取り込む腹か))

「はい。自作中農の育成は農林省の悲願なのです」

「柳田先生の持論だね」

「そうです、はい」


涙ぐんでいた農林省の参事官は、嬉しそうに答える。




農林省が計画する農業変革は2つあり、1つは中小規模農家向け、もう1つは大規模資本を前提とした農事企業向けだ。


中小自作農家向けの政策の目標は、一戸が3反から5反を耕作して、所得税を納めることだ。ようやく、地主からの農地供出が実現するのである。それは、大蔵省が応援してくれたからだ。なんとしても自作農を成功させ、税金を納めさせなければならない。でないと、大蔵省の関心は農事企業へと移ってしまう。


天候不順に強く収量も多い開発済みの品種は、農林1号や20号などの水稲に限らない。麦や芋など他の作物にも及ぶ。深耕を可能にする農具も安価供給の目途が立った。また、家禽や鯉鯰なども研究している。化成肥料や土地改良剤の優先生産も、商工省と交渉する用意はあった。だが、それだけでは足りない。



問題は、農家と農民、そのものにあった。

地主から供出される農地の受け手は、大半が小作農になる。だが、生まれついての小作農は農業を覚えていない。地主に指図されての水田耕作と、雑穀や芋の粗放栽培しか知らなかった。


稲作だけでは、天候不順による不作を回避できない。多種多様な作物を、季節を読んで早生と晩生を植え分けねばならないのだ。農業は馬鹿では出来ない。頭も要るし、腕もいる。未熟な小作農では、3反も5反も耕作できないだろう。


営農に失敗すれば、せっかくの農地も質に入り、いずれ人手にわたってしまう。だから、農林省の初期目標は、全農家の自作自給の成功にあった。たとえ、一戸で耕作できたのが1反に満たなくてもいい。食費に現金を使わないこと。その支援策のために、大蔵省や陸軍省と交渉を続けていた。




「自作農の成功のためには教育が必要ですね」

「はい、それはそうですが」

「国民学校令では、初等教育を延長した」

「はい」

「しかし、社会に出るには、内容が充実していない」

「「農工商水産の実業科があるだろう」」

「税金、法令、金融をはじめとする実学も教えるべきだ」

「「初等教育で金融だと?」」

「農家と家業を継ぐものは、9割近くが国民学校で終える」

「「ああ」」

「であれば、そこを重視した教育に変えるべきだ」

「です、はい」


「「それで、何が変わる」」

「役場や郵便局で、申請や申告が出来る」

「「ほほう」」

「売買や借金の契約書が読める」

「「人買いに騙されなくて済むな」」

「貧乏は馬鹿を生む。教育は馬鹿を減らす」

「そして、利巧は貧乏を克服する」

「しかし、まどろっこしい話だ」

「貧窮が改善されるとして、何年かかる」

「2、3年では無理だな。ふつうに5、6年か」

「ばかな、そんなに待てるか」

「長くかかるから、早く始める。違うか?」

「「おおっ」」



文部省と農林省の二人以外の、他の参事官たちは戸惑う。今のところ、予算や権益の話はない。教育内容や指導要領は、もとより文部省の管轄だ。単に、地元の後輩である農林省の応援をしたいだけのか?




「貧窮対策としても、ただ援助するのでは無意味だと思う」

「やらないと、餓死者がでるぞ」

「せっかく、大蔵省が予算を組むというのに」

「暮らしが助かっても、人格が変わる訳ではない」

「潜在的な貧困は変わらんというのか」

「それです」

「人買いを無くすのは当然としても」

「うん」

「遊郭やカフェを規制しても始まらん」

「「え」」

「貧窮女性の行き場がなくなる」

「み、認めるのか?」


「現に営業しているじゃないか、何をいまさら」

「すまんかった」

「それに、助けて帰したとしても、また売られる」

「ええーっ」

「事実だ。親に売られれば傷つくな、ふつうに」

「「むろん、そうだ」」

「それが2度、3度となれば、もう救われない」

「「ああああ」」

「女衒も悪かろうが、問題は親の方だし」

「「うんうん」」

「農家の自給自足や、自作農の成功には繋がらない」

「です、はい」



結局、大蔵省が予算をつけようとした緊急農家支援は、農林省へ持ち帰りとなった。文部省の初等教育改正も同様だ。長期的展望が見える具体案を再提出すること、つまりは差し戻しである。





裁定を終えた議長役の内務省審議官は、感慨にふけっていた。


内閣が議会対策に必要とした緊急法案を引き伸ばしてしまったが、それはいい。次官や大臣には、なんとでも説明は出来る。気になったのは、予算案は衆議院を通過しているということだ。つまり、緊急農家支援は、貴族院での議事で必要になったのだ。


さらに気になることがある。

農林省と相撃ちした文部省参事官の意図はどこにあったのだ。わざとしか思えない。日頃の切れもなかった。うん、このままでは寝付けないな。あれの考え方は、早いうちに知っておかねば。



内務省審議官は、皆に告げる。


「諸君、帰り支度のところを申し訳ないが」

「「・・・」」

「これから新橋へ繰り出す。ご同行を願いたい」

「「おっ」」

「勘定は文部省参事官の懐から出る」

「もちろん、そうです」

「「おおっ」」


「ひとつだけ頼みがある」

「「・・・」」

「どうぞ」

「女給と仲居にはいつもの倍のチップを上げてくれ」

「景気対策だな」

「「おおおっ」」

「謹んでお請けするぞ」

「「あっはっは」」






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