4 日昌丸
アメリカ合衆国、ワシントン州、シアトル市。
大日本帝国の巡航見本市船、日昌丸はシアトル港に停泊していた。
日昌丸はジャワ航路の貨客船だったが、昨年は陸軍に徴用されていた。仏印サイゴンから台湾の基隆まで邦人を緊急輸送し、続いて内地までバナナと砂糖を運んだ。陸軍徴用を解除された後、若干の改造を受けて、日昌丸は商工省の雇船となった。
昨年11月の浅間丸寄港の後、シアトル航路は復活した。横浜~シアトル間には今、海軍徴用を解かれた日枝丸と平安丸が航行している。シアトル航路の乗客と貨物は順調に増加しており、この春には氷川丸も復帰して往時の三姉妹が揃うだろう。
その日の午後、グレートノーザン鉄道専用埠頭に、2台のリムジンが滑り込んで来た。中から、数人の紳士が降り立つ。GN鉄道中西部担当役員の一行である。すぐに日米の係員に案内されて、舷梯に向かう。日昌丸には大きく垂れ幕が張ってあった。
"WELCOME TO NISSHOUMARU"
"JAPAN MACHINERY FLOATING FAIR"
GN鉄道一行は、ガーハイム中西部担当役員を先頭に、ジョーカー役員秘書、アール技師長、エヴァンズ営業部長、それにレナード先任機関士の5人だ。日昌丸に入るとすぐに、銀の盆にウェルカムドリンクを乗せて、バーメイドが現われた。緑色は緑茶、黄色は柑橘のカクテルらしい。
5人は、勧められるままにソファに座り、グラスに口をつけた。役員秘書のジョーカーが立ち上がる前に、白い制服を着た船員が寄って来る。船員は、躊躇なく片ひざをつき、ジョーカーが持つ招待状を見上げながら受け取った。船員の袖には金の三本線、チーフパーサーである。
ジョーカーの差し出した招待状は、船内泊を含むものだった。もとより、チーフパーサーは承知である。5人が乗船名簿にサインしている間、大きくもなく小さくもない声で、一行の予定を説明する。5人はそれぞれ、違った動作で頷いた。
ガーハイム役員は気分を良くしたらしい。グラスを干すと立ち上がる。
「有意義な24時間になりそうだ、ありがとう」
チーフパーサーは、素早く後ずさり、立ち上がって挨拶を受けた。もちろん、音も埃も立てていないし、ズボンのひざを払いもしない。
ジョーカーもボスの後を追って、素早く立ち上がったつもりだ。が、しかし、チーフパーサーにはかなわなかった。
海軍予備役中将の堀悌吉は、日昌丸の上甲板にある執務室にいた。
部屋のドアには、『日本国貿易特使公室』と掲げられてある。
海兵32期を首席で出た堀だが、予備役に入ってからまる6年が経っている。
昨年までは、日本飛行機の社長を務めていた。日本飛行機は、赤とんぼと呼称される93式中間練習機のほかに航空機部品などを製造していて、当然ながら、海軍との関係は深い。
堀と海軍との関係も続いていた。しかし、この頃、海軍との関係を厭うようになっていた。
(いつ頃からかな)
第1戦隊司令官を最後に、堀が退官したのは、海軍内の派閥抗争の結果であり、そのことに特別の感慨はなかった。
しかし、その後、欧州大戦勃発後の陸海軍の対立や海軍内の派閥対決は尋常ではなかったと聞いている。同期の山本五十六が海軍次官を追われて、聨合艦隊司令長官についたのは昭和14年8月だ。その翌年の昭和15年7月、米内大将が半年で首相を降り、近衛第2次内閣が発足する。そして、陸海軍の関係は最悪となった。
日本飛行機に出入りする者の一部に、胡散臭い輩がいると気づいたのもその頃だ。小玉誉士夫や佐々川良平たちだ。同時に、大陸各地の海軍基地との部品納品や修理送品への便乗品が多くなった。不可解なことに、どれも水交社名義だった。
(俺は海軍の暗部を覗いたようだ)
海軍には、通常の軍機遵守や守秘義務の他に、高級士官や上級指揮官に対する防諜の規定が別にあった。シーメンス事件の反省で作られたらしい。堀自身も、大佐任官、少将任官、そして第3戦隊司令官就任の時に、誓書を書かされた覚えがあった。
海軍兵学校で叩き込まれた海軍魂は、陸軍に対して数的劣勢にある海軍軍人の一体感を図るものと理解していたが、どうやら、それだけではないらしい。
船上見本市は、なかなかの盛況だった。今日は週末だから、ビジネスマンだけでなく、一般の家族連れがいる。ご婦人方も子供連れもいた。日昌丸では、週末と休日に限って当日券の売り出しがある。物見遊山の客や日系移民らは、当日券で乗船、見学していた。
予約前売りのビジネス客や、招待状を持つVIPや投資家との兼ね合いもあって、当日件の枚数には限りがあった。しかし、船内のほとんどの施設は利用できる。アルコールを除いて、飲食もフリーだ。ランチもとれる。
割安感があり、束の間の船客気分を味わおうと、窓口には早朝から列ができていた。
だが、当日券の客たちの興味は、工業製品にはない。
彼らは、エントランスに入ってすぐの土産物店や、その隣の伝統工芸品の即売会場を覗いて、記念品の品定めを済ますと、ラウンジやカフェに居座った。メインダイニングと船橋3階の遊歩甲板、プロムナードデッキは当日券では出入りできない。
当日乗船券の時限は午後2時までで、30分前から案内放送があった。米国人と日本人の二人が、交代で5分おきに放送する。当日券の客たちはエントランス手前で、それぞれ記念のみやげを買う。荒波を乗り切る日昌丸の姿が彫られた木製の盾は結構売れていた。
舷梯で当日乗船バッジを返却すると、和服の女性が微笑んで、切手4枚のシートと交換してくれた。4色刷りの切手は、日昌丸に歯車と真空管のデザインだ。日章丸船内郵便局の風景印が押してある。
"NISSHOUMARU xx.2.1942 I.J.SEAPOST"
何よりの記念だ。当日客たちは上機嫌で下船していく。
午後2時以降、船に残っているのはビジネス客と招待客となった。
予約前売りのビジネス客も、週末だからご婦人同伴が多い。女性の同伴はフリーなのだ。
ご婦人方の興味は工業製品にはない。あったとしても、歯車や真空管ではない。ご婦人方の関心は、いつでもどこでも、服でありバッグであり靴であり、宝石や真珠の宝飾品であった。
船橋内には、既製服の展示即売コーナーがあった。
東京にあるドレスメーカー女学院師範科を卒業した浅井淑子が乗り込んでいる。浅井は女学院創立者杉野芳子の一番弟子だ。
米国人女性に合わせた型紙も揃っているらしい。浅井が自ら寸法をとるその後ろで、数人の女性がミシンを踏んでいた。
ねらいは、高級服ではなく、かといって量産品でもない。ちょっとした外出にも使える洒落た普段着がターゲットらしい。服地のデザインと色使いは、アメリカ人から見ても大胆で派手だった。
今朝オーダーした服を試着したご婦人が舞い上がっていた。
「まぁ、ぴったしだわ。なんてこと」
「本当にプレタポルテなのかしら」
「いいことよ、お似合いだわ」
「派手だと思ったけど、シルクだから品があるのね」
「「・・・」」
いつの世も、ご婦人方は身勝手、自侭である。
テーラーメジャーを首から掛けたままの浅井女史がお礼を述べる。
「マダム、グッドフィットですわ」
「あら、そう?」
「こちらのエプロンは、オーダーされたお客様にお配りしています」
「あら。いいのかしら」
「マダムは、その権利をお持ちですわ」
「どうしましょう、ダーリン」
「もらっておきなさい、サマンサ」
「はいっ」
エプロンには"SUGINO DRESSMAKER ACADEMY"と書かれてあったが、水玉のデザインに溶け込んで目立たない。
GN鉄道一行は、日昌丸前部の第1展示室にいた。主甲板から1階降りた第1船倉を改造したものだ。商船の各階各層の呼称は、船会社や船によって異なる。軍艦と違うところだ。船橋など上部構造物を除いた船体の最上層、乾舷のある階を上甲板、アッパーデッキと呼ぶことが多い。
日昌丸の場合は、船客エントランスのある船橋1階の層を主甲板、メインデッキと呼び、船橋2階を上甲板、アッパーデッキと呼んでいた。船橋第3階は遊歩甲板、プロムナードデッキだ。第1船倉の下は、第2船倉。その下は、第3船倉である。
ガーハイムは、片手にカタログを1枚持って、担当者の説明を聞いていた。
もう順路も終わりに近い。後ろに立つジョーカーの両手は、あちこちで渡されたカタログや説明書、サンプルの入った紙袋でいっぱいだった。もうメモも取れないから、説明を記憶するのに必死である。
ふと、ガーハイムは後ろを振り向くと、ジョーカーに言う。
「他の3人はどうした?」
「え?」
ジョーカーは慌てて見回す。
さっきまで一緒にいた筈の営業部長、技師長、先任機関士の3人がいなかった。
「あれ、あれ?」
「見てこい」
「サー、イエスサー」
ジョーカーは、足早に順路を逆にたどる。
かなり先の方からご婦人方の悲鳴が聞こえた。
ジョーカーは走り出す。
「「オーノーッ!」」
先任機関士のレナード・ローレンスは、自転車コーナーで日本人女性のスカートを覗き込んでいた。