プロローグ:さよなら前世、こんにちは今世
タイトル通りです。
僕の人生は、ずっと「正解」を探し続けるようなものでした。
どこにでもいる、少しばかり気の弱い十四歳の少年でした。
クラスでは「おとなしすぎる」だとか、「女みたいな趣味だ」なんてからかわれることもありましたが、僕はそれほど気にしていませんでした。
だって僕には、誰にも邪魔されない最高の時間があったからです。
放課後、図書室の隅っこで恋愛小説のページをめくる読書の時間。
家の手伝いで洗濯物を洗ったり、掃除をする時間。
家で一人、キッチンに立って料理を作る時間。
両親は仲が悪く、共働きで、家では小学生までは専らスーパーの総菜やコンビニの弁当が主でした。
中学生に上がった後、料理実習で料理の楽しさを知った後は、主に自分が料理をしていました。
野菜を切る規則正しい音や感触、鍋の蓋を開けて出汁の香りがふわっと立ち上る瞬間。
そういう静かな時間が、僕にとっては一番心地よく、自分らしくいられる場所でした。
けれど、その心地よさは、家の中では決して許されないものでした。
「……また台所にいるのか」
背後から降ってくる父の声は、いつも低く、冷ややかに感じました。
父の仕事は土木関係の仕事をしていました。
僕にとっての父は、絶対的な「正解」を押しつけてくるような、厳格な支配者でした。
男は男らしく、女々しい用事は女に任せておけばいい。
かなりの性差別主義者だったのでしょう。
僕が料理に没頭していること、家事をすること、物語に心を寄せていること。
それらは父にとって、「女のような弱さ」であり、「男らしからぬ振る舞い」だったのでした。
「男なら、もっと外に出て、強く、逞しくしていろ。
そんなもやしのような指で包丁を握って、何になる」
父が言う「強さ」とは、誰かをねじ伏せる力であり、感情を押し殺して役割を遂行することでした。
隣でそれを聞いていた母は、ただ静かに、悲しそうに目を伏せていました。
「あなた、もういいじゃない。この子はただ、優しいだけなのよ」
母がそう言って僕を庇おうとすると、父はさらに厳しい声を上げます。
すると母は、すぐに諦めたように僕に囁きました。
「……父の言うことを聞きなさい。そうしないと、機嫌が悪くなるから……」
そのとき、僕は言いようのない空虚感に襲われました。
父が体現する「強さ」が男らしさなのだとしたら。
そして、母のように誰かの意志に従い、自分を消して耐えることが「女らしさ」なのだとしたら。
僕は、一体どちらになればいいのでしょう。
どちらの道を選んでも、僕が僕として呼吸できる場所なんて、この世界にはどこにもないかもしれないのでした。
そう思った十四歳の冬のある日。
夕焼けに染まった帰り道。
横断歩道に、一人の小さな少女がうずくまっていました。
車が、もうすぐそこまで来ていました。
僕は、何も考えずに足を伸ばしていました。
父が言う「強さ」ではありません。
ただ、目の前の小さな命を放っておけない。
その衝動だけが、僕を突き動かしました。
そうして両手が、彼女に触れます。
助けなきゃ。
そう思った瞬間、世界から音が消えました。
視界が激しく揺れ、それから、ふっと意識が遠のいていく感覚だけがありました。
僕が最後に見たのは、驚いたような顔をした少女。
そしてそこからは真っ暗な夜のような、深い闇だけでした。
真っ白な部屋も、神様もありませんでした。
導いてくれる光も、何も。
ただ、深い眠りに落ちたような静寂がずっと続き、やがて、ゆっくりと意識が浮上してきました。
……暗い。けどすぐ明るくなりました。
それに、なんだか体が重い。
しかし、不思議と寒くはありませんでした。
むしろ、心地よい温もりに包まれている感じがします。
ふわりと、とても甘くて優しい香りが鼻をくすぐりました。
(……ここは、どこだろう)
ぼんやりとした思考の中で、不安が広がります。
消毒液のような匂いはしません。病院ではないのでしょうか。
それとも、ここは死後の世界なのでしょうか。
僕はもう、あちら側へ行ってしまったのでしょうか。
天国だというなら、もう少し光があってもいいはずです。
けれど、この温もりだけは、あまりにも現実的に感じられました。
恐ろしさが、後からやってきました。
僕は、誰に抱かれているのでしょう。
それが誰かも、わかりません。
不安に耐えきれず、僕は声を上げて泣きました。
すると、僕を包んでいた温もりが、より一層強く、ぎゅっと締め付けられました。
そして、耳元で、とても慈しみに満ちた声が聞こえてきました。
『ああ、よしよし。怖かったわね。もう大丈夫よ、いい子ね』
聞いたことがない言葉でした。
けれど、不思議と意味は分かります。授業で勉強していた英語に似ています。
でももっと柔らかくて、音楽のような響きに感じられました。
その声に導かれるようにして、僕は次第に落ち着きを取り戻しました。
すると、今度は別の、けれど同様に温かい女性の声が聞こえてきました。
誰かを深く敬い、大切に思う心が見える、穏やかな声でした。
『おめでとうございます、奥様。本当に、なんて愛らしいお嬢様でしょう』
それから何度も、何度も、耳元でその言葉が囁かれました。
愛情を込めて、宝物を扱うように。
『エリザベス』
『エリザベス・アン・ランカスター』
『我が愛しのエリー』
エリザベス。
エリー。
……えっ。
僕がですか? 僕のことをそう呼んでいるのでしょうか。
もしかして、僕は転生したのかもしれません。
けれど、いま、僕の心に突き刺さったのは、その事実よりももっと切実な衝撃でした。
「エリザベス」
「エリー」
間違いなく女の子の名前です。
僕が、女の子に?
あまりの衝撃に、僕は再び、激しく泣き叫びました。
前世では、あんなに「男らしくあれ」と強要され、それに馴染めずにもがいていたのに。
今度は、本当に女の子になってしまったなんて。
けれど、僕の混乱など知る由もない二人の女性は、ただひたすらに、僕をあやし続けてくれました。
頬を撫でる手のひらは温かく、抱きしめてくれる胸の鼓動はとても穏やかで。
そこには、僕を否定する声も、正解を押し付ける言葉も、一つもありませんでした。
僕は、もう一度だけ、大きな声を上げて泣きました。
どうしていいか分かりません。
でもこの温かさが、たまらなく心地よかったのです。
僕の、新しい人生が始まりました。




