第13話 回復魔法
ハルキは走った。
腕の中には、カラスの重み。
いや――重みが、なさすぎる。あまりにも軽すぎる。
それが、恐怖を煽った。
(落とすな。離すな)
心臓が喉を打ち、肺が焼ける。
足音が、背後から、確実に迫っていた。
――コツ、コツ、ではない。
滑るような足音。
人間のものではない。
「……逃げ切れると思っているのか」
部長の声が、廊下の壁を伝って追いすがる。
距離感が、狂う。
すぐ後ろのようで、遠くのようでもある。
ハルキは歯を食いしばった。
(今は……考えるな……!)
曲がり角。
非常階段の標識。
ハルキは、迷わず飛び込んだ。
鉄の階段が、足の下で悲鳴を上げる。
音が、夜に拡散する。
(まずい……!)
だが、止まれない。
一段、二段、三段――
足を踏み外しそうになりながら、
ハルキは一階へと転げ落ちるように降りた。
背後で、何かが、壁に触れた気配。
次の瞬間。
――バキン!!
手すりが、内側から砕け散った。
魔力の余波。
直接狙っていない。
確実に遊ばれている。
「……くそ……!」
ハルキは校舎裏の非常口を蹴り開けた。
夜風が、肌を刺す。月明かり。校舎の影。
木々が、ざわりと揺れる。
ハルキは、校舎裏の植え込みへと身を投げた。
枝が、服を引き裂く。
土の匂い。
湿った草の感触。
ようやく、足を止める。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸が、うまく整わない。
腕の中のカラスが、微かに動いた。
校舎裏。
フェンスと古い倉庫に挟まれた、
光の届かない死角。
ハルキは、そこに転がり込むように身を滑り込ませた。
「……はぁ……っ……」
膝から力が抜ける。
そのまま、地面に座り込み、カラスを抱えたまま背中を壁に預けた。
しばらく、何も起きない。
足音も、詠唱も、
追撃もない。
夜は、ただ静かだった。
(……来ない?)
いや――
来ないのではない。
今は、来ないだけだ。
ハルキは、腕の中を見る。
黒い羽毛は血に濡れ、
裂けた翼は、無理に動かせば崩れてしまいそうだった。
(……このままじゃ……)
胸の奥で、何かが、きしむ。
さっき――覚醒しかけた、あの感覚。
感情が揺れ動き、衝動で膨れ上がった力。
(……使える!)
使えば、助けられる。
少なくとも、今よりは。
ハルキは、目を閉じた。
呼吸を、整える。
ゆっくりと、体の内側へ潜る。
――ある。
まだ、ある。
骨の奥、血の流れ、
心臓のさらに奥。
言葉にならない力が、
静かに、確かに、そこに溜まっている感覚。
(……少しだけだ)
全部は、使わない。
踏み越えない。
ただ――カラスに流すだけ。
ハルキは、カラスの胸に、そっと手を当てた。
「……頼む……」
願う。祈る。
言葉にしなくても、
心が先に、動いた。
内側の力が、細い糸のように、指先へ集まる。
それを、ゆっくり、慎重に カラスへ。
一瞬、何も起きない。
だが次の瞬間。
カラスの羽毛が、淡く光った。
黒ではない。 闇でもない。
深い青。
夜空の底に沈む、魔力の色。
「……っ」
カラスの喉が、わずかに鳴る。
裂けていた翼が、
ありえない速度で、形を取り戻していく。
折れていた骨が、音もなく、正しい位置へ戻る。
血の匂いが、薄れていく。
「……ハルキ……」
低い声。
確かな、声。
「……無茶、するな……」
カラスが、ゆっくりと目を開いた。
その瞳は、もう、濁っていなかった。
「……戻った……?」
「……ああ……助かったよ…ありがとう…」
ハルキの喉が、詰まる。
「よかった……本当に……」
そのとき。
空気が、ぴしりと鳴った。
校舎の屋根の上。
いつの間にか、部長――異世界の魔法使いが、立っていた。
月明かりを背に、
その影が、地面に長く落ちる。
「……逃げ切ったつもりかい?」
声は、穏やかだった。おかしくて仕方がないというように。
だが。
その視線が、
回復したカラスを捉えた瞬間。
わずかに、目を見張る。
「……驚いた。回復魔法か」
カラスが、静かに立ち上がる。
「……さっきより、随分調子がよくなったよ」
その言葉と共に青白い魔力が集まり始める。
羽の形を模した紋章が、空中に浮かび上がった。
魔法使いは、目を細めた。
「……まさか……」
一拍。
「―お前、クロウリッジ、か」
その名を聞いた瞬間、夜の空気が、はっきりと揺れた。
カラスの纏う空気がぴりつく。
「…俺に追い込まれるとは…随分と、弱くなったな」
部長は幻滅したように言う。
カラスは、嘴の端を吊り上げる。
「紋章で俺だと分かるなんて、随分とファンなんだね」
そして、翼を広げた。
戦いは、まだ続く。




