第11話 すべては錯覚
「……うーん。なんか、いつもより雰囲気が違う気はするけど……」
ハルキは首を傾げながら、廊下を歩いた。
最初こそ、あの不自然な静けさに神経を尖らせていたものの、
結局、何も起こらない。
黒板も、机も、時計も、
奇妙なほど“大人しい”。
(……気のせいだった、か?)
人は、異変が起こらなければ、
それを異変だと認め続けることができない。
ハルキの肩から、力が抜けていく。
「……はは」
自嘲気味に笑った。
(俺、ちょっとビビりすぎかもな)
残るのは、あと一か所。
新聞部の部室。
(部室を回れば……今日は、最後だな)
そう思うと、胸の奥に、
かすかな安心感が灯った。
部室の前に立つ。
ドアノブに手をかけた、そのとき。
中から、かすかな物音がした。
ハルキは、動きを止めた。
(……誰か、いる?)
こんな時間に。
しかも、施錠されているはずの部室に。
「……誰だ!!」
声が、思ったよりも強く響いた。
返事は、すぐに返ってきた。
「……おや」
聞き慣れた声。
ドアが、内側から開く。
「そんなに構えなくてもいいだろう」
立っていたのは――
新聞部の部長だった。
いつもの制服。
いつもの、真面目で落ち着いた表情。
「……部長?」
思わず、名前を呼んだ。
「こんな時間に、どうしたんだ?」
部長は、何でもないことのように言う。
「部室に忘れ物をしてね」
胸が、少しだけ軽くなる。
(……なんだ、驚かせるなよ)
そう思った、次の瞬間。
違和感が、形を持った。
部長の“影”が、
室内の明かりと、微妙に噛み合っていない。
一拍、遅れて動く。
いや――
動いているのは、影の方だけだ。
「……橘」
部長が、静かに名前を呼ぶ。
「君、今夜、校内を回っていただろう」
ハルキの背筋が、凍りついた。
「……どうして、それを」
部長は、薄く笑った。
それは、
いつもの“優等生の微笑み”ではなかった。
「観察していたからだよ」
次の瞬間、
部室の扉が、ひとりでに閉まった。
――ガチャリ。
鍵が、かかる音。
空気が、変わる。
インクの匂いに混じって、
甘く、重い――
知らない世界の“気配”が、流れ込んできた。
「安心した顔をしていたね」
部長は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「何も起きない、と」
一歩、近づく。
「だが、それは違う」
「“起きていなかった”のではない」
影が、壁を這うように広がる。
「――僕が、抑えていたんだ」
ハルキは、後ずさった。
喉が、ひくりと鳴る。
「……部長、何を」
「自己紹介が必要だな」
部長は、眼鏡を外した。
その瞳は、
人間のものとは、微妙に色が違っていた。
「私は、異世界より来た魔法使い。君たちの世界では、新聞部長を演じていたにすぎない」
演じていた。
――その言葉が、妙に冷たい。
「そ、そんなだって部長は...」
ハルキは言葉に詰まった。
(....思い出せない。部長の名前は何だ…。)
喉の奥が、からりと乾いた。
部室の前に立つハルキの視界が、わずかに歪む。
(名前だけじゃない……クラスも、何一つ、思い出せない!)
長く笑い、言葉を交わし、当たり前のようにそこにいたはずの人物。
それは、最初から存在しなかったのだ。
確かに、一緒に過ごしたはずだったのに。
それはハルキの錯覚で、魔法によってつくられたものだったのだ。
「橘春樹」
名前を呼ばれる。
「君が“選ばれたものだったんだね」
ハルキの心臓が、強く跳ねる。
「選ばれた人間がこの学校にいるのは分かっていたが、君だと特定するのは本当に難しかった。誰かが、君の存在を隠そうとしてるみたいだ」
「この世界で育ちすぎる前に、君を消す必要があった」
消す。
それは、
人に向ける言葉ではなかった。
「……俺を、殺すつもりか」
部長は、否定しなかった。
「そうだよ。悪く思わないでくれ」
影が、床から立ち上がる。
部室の壁に貼られた新聞が、
一斉に、ざわりと揺れた。
「安心するといい」
部長は、穏やかに言う。
「痛みは、一瞬だ」
そのとき。
ハルキの肩の奥で、
忘れかけていた“気配”が、
強く、強く――蠢いた。
『ごめん、ハルキ。遅くなった!』
声にならない声。
「...カラス!!」
黒い羽音が、
部室の天井で、低く鳴った。




