特別編
夕暮れの森は、昼の明るさをまだ少しだけ残していた。
7歳の少女は、足音を潜めながら木々の間を駆け抜けた。母親の寝顔を確認し、怒られないように──その思いを胸に、彼女は森へ向かう。
「マリーン、今日は少し遅いね」
木漏れ日の中で、シルヴァの声が響く。まだ幼い、少し気弱な男の子の声だった。
少女は答えた。
「おかあさまの様子を見ていたの。森に行っているのが知られたら怒られてしまうから」
「ええっ、じゃああまり森へは来れなくなるの…?」
「そんなことないわ!お母様の目が離れたら、遊びに来るつもりよ。さあ、遊びましょう!」
二人は笑い、木々の間を駆け回った。時間を忘れ、日差しの中で無邪気に戯れる。だが、夕方が近づき、森の影が伸びると、背後から足音が近づいた。
大人達がマリーンを取り囲うように近づいてきた。
マリーンはその顔に見覚えがあった。
母の営む店で談笑していた男達。
けれど今、その目はまるで別の生き物のように濁っていた。
マリーンは息を呑む。
胸の奥で何かがちぎれる音がした。
何かが起きている――けれど、それが何なのか、分からなかった。
シルヴァが前に出る。
「マリーン、逃げて」
その声がかすれると同時に、ざらついた手が7歳の少女の細い腕を掴んだ。
世界が揺れる。
叫びも風も、全部遠くで聞こえるようだった。
ただ、森の奥で鳥が一羽、鋭く鳴いた。
「マリーン!」
シルヴァが叫び、10歳の小さな体からは想像もつかない力で男たちに立ち向かう。だが、大人の男達の前ではあまりにも無力だった。
マリーンは瞬間、助けを呼ぶことを考えた。しかし母親に森にいたことがバレれば…その恐怖が足を止めさせた。
暴れるシルヴァ。男達に押さえつけられ、口元に押し付けられた赤い瓶のなかの液体に溺れる少年の悲鳴。
「――やめて!シルヴァー!」
マリーンの叫びは誰にも届かなかった。
やがて、男達がマリーンへと向かってくる。彼らの足元には動かなくなったシルヴァがいた。
マリーンは胸を押さえ、声も出せず、涙だけが頬を伝う。
彼の小さな身体が、もう二度と動かない現実。心の中で何度も叫ぶ──「助けてあげられなかった……!」
森を抜け、マリーンは必死に家に戻ると、母親の姿はなかった。
もはや誰のものかも分からない体液でべたべたになった体を必死に動かし、森へ向かった。しかしそこには、動けなくなったはずのシルヴァの姿もなく、風がざわめく木々の間に、彼の存在が溶け込んでいた。魂は森の一部となり、二度と手の届かない場所へと消えたのだ。
あの日の出来事は、マリーンの胸に深く刻まれた。
助けられなかった後悔、理不尽な怒り、そして胸に芽生えた復讐心──
彼女は決意する。
もう誰も、自分が愛した者を奪うことは許さない、と。
そして年月が流れ、マリーンは男たちを誘い、甘い香りと美貌で虜にする。
しかしその代償は──彼女の手で、容赦なく奪われていく。
――あの日の森の記憶は、マリーンの中で決して消えることなく、後の運命を形作ったのだった。




