第3話:白亜の騎士団
王立歌劇場は、帝都ヴィルンヘルムの夜に、巨大な白亜の宮殿として鎮座していた。
しかし、その扉が固く閉ざされ、全ての窓が闇に沈んだ今、その姿は壮麗さよりも、死んだ巨人の骸のような不気味さを漂わせていた。
黒衣のピアニスト――カインは、正面の扉ではなく、舞台裏に繋がる楽団員用の通用口の錠を、一本の細い金属棒で音もなく開けた。
内部に滑り込むと、ひんやりとした静寂が彼を迎える。
客席のビロード張りの椅子は眠れる獣の群れのように静まり返り、天井からは巨大な水晶と真鍮の蜘蛛を思わせるシャンデリアが吊り下がっていた。
高窓から差し込む月光が、舞台の上に一筋のスポットライトを落とし、空気中を舞う無数の埃をきらめかせている。
彼は目を閉じ、意識を集中させた。
聴こえる。
この静寂の奥底で、何かが鳴っている。
それはヴァレリウスが言っていた「世界の不協和音」とは質の違う、もっと個人的で、もっと濃密な悲しみの旋律。
彼はその音の源を辿り、舞台の袖から、プリマドンナだけが使うことを許された、豪奢な化粧室へとたどり着いた。
部屋の中央、化粧台の上に置かれた螺鈿細工のオルゴール。
それこそが、この歌劇場の狂乱の源だった。
彼が近づいた瞬間、オルゴールはひとりでに蓋を開き、甲高い、しかしどこまでも美しいソプラノの歌声が響き渡った。
――愛した人はもういない。私の声も、この想いも、届くことはない――
歌声と共に、半透明の女性の姿が化粧台の鏡から滲み出す。
かつてこの舞台で喝采を浴びた歌姫の亡霊。その瞳から流れる涙は、触れるもの全ての正気を奪う呪いの雫だった。
カインが、亡霊を鎮めるための旋律を指先で紡ごうとした、その時。
「そこまでだ、異端者!」
鋭い声と共に、化粧室の扉が乱暴に開け放かれた。
飛び込んできたのは、白亜の生地に銀糸の刺繍が施された、気品ある制服を纏った一団。
帝都の秩序を守る音の番人――「王立聖奏騎士団」だった。
先頭に立つ長身の青年は、指揮棒のように構えたサーベルの切っ先を、真っ直ぐにカインへと向けた。
白銀の髪に、冷たい鋼のごとき青い瞳。彼の名はアルブレヒト。
アルブレヒトは、暗がりの中に立つ黒衣の男の姿を認め、目を見開いた。
「その立ち姿…その魔力にも似た音の響き…。まさか、貴様は! 生きているとはな、カインッ!」
憎悪と驚愕に満ちた声で、アルブレヒトはかつてのライバルの名を叫んだ。
その後ろにいた、栗色の髪を持つ女性騎士――セラフィーナは、その名を耳にして、か細く息を呑む。
「……カイン……」
絞り出すような彼女の声に、カインは初めて表情を動かした。
ほんのわずかに眉を寄せ、まるで忌々しいものでも見るかのように、かつての仲間たちに目を向ける。
「その名で俺を呼ぶな。騎士団の犬が」
「何だと!?」
激昂するアルブレヒトがサーベルを構え直す。
「問答は無用だ! その怪異は我々が浄化する。お前はここで捕縛させてもらう、反逆者!」
アルブレヒトの号令一下、騎士団員たちは流麗な動きで陣形を組む。
ヴァイオリンとチェロが厳格な和音を奏でて、空間に聖なる結界を構築し始めた。
それはバッハのコラールのように、緻密で、力強く、揺るぎない秩序の壁。
だが、歌姫の亡霊が発する悲しみの歌声は、その秩序の壁に無数のヒビを入れた。
それは理論や形式では抑えきれない、純粋な感情の奔流だった。騎士たちの顔に苦悶の色が浮かぶ。
カインは、彼らの未熟な演奏に、やれやれとため息をついた。
彼は騎士団を無視し、目の前の亡霊へと向き直る。そして、その場で漆黒のグランドピアノを召喚した。
「馬鹿な! 奴と戦う気か!?」
アルブレヒトの怒声が飛ぶ。
だが、カインが奏で始めたのは、攻撃的なプレストではなかった。
それは、ショパンのノクターンを思わせる、静かで、優しく、そしてどこまでも物悲しい旋律。
彼の指が鍵盤に触れるたび、その音色は亡霊の魂を縛り付ける「不協和音の檻」の錠前へと、そっと差し込まれる鍵のようだった。
歌姫の亡霊の歌声から、次第に呪詛の棘が抜けていく。
そして、カインの瞳に、彼女の記憶が奔流となって流れ込んできた。
***
場面が転換する。
カインの意識は、薄暗い化粧室から、数年前の、光に満ちた王立歌劇場の舞台袖へと飛んでいた。
目の前には、プリマドンナとして喝采を浴びる、生前の彼女――歌姫エレアナの姿がある。
カインの奏でるピアノの旋律が、彼女の幸せな日々の背景音楽となって優しく流れる。
だが、旋律が不意に陰り、悲痛なラルゴへと変わる。
呪いによって声を失い、恋人に別れを告げられたと誤解した彼女は、雪の降る夜、歌劇場の屋上から、最後の歌にならないアリアを口ずさみながら、その身を投げる。
カインのピアノは、彼女の最後の絶叫と、地に叩きつけられる衝撃を、悲痛な和音で奏でた。
しかし、その情景は終わらない。
まるで傷のついたレコードのように、悲劇の瞬間が、再び巻き戻され、再生される。
雪の舞う屋上。身を投げる寸前の、震えるエレアナ。
だが、今度は何かが違った。
彼女の背後に、ゆっくりと歩み寄る一つの人影。
それは、彼女が愛したテノール歌手ではなかった。黒衣を纏った、カインその人だった。
しかし、この記憶の世界で、彼は黒衣のピアニストではなかった。彼は、彼女が待ち望んで叶わなかった、《《救い》》そのものの具現だった。
カインの奏でるピアノの旋律が、悲痛な嘆きから、温かく、すべてを包み込むような愛の調べへと変わる。
記憶の中のカインは、歌にならないアリアを口ずさむエレアナを、背後からやさしく、壊れ物を扱うかのように抱きしめた。
そして、彼女の耳元で、恋人が本当は伝えたかったであろう言葉を、代わりに囁く。
「――君の歌声は、誰よりも美しい。たとえ声が出なくなろうと、その魂の響きが、俺には聴こえる」
「もう、一人ではない」
その言葉は、カイン自身の魂の叫びのようでもあった。
雪は、いつしか光の粒子へと変わり、二人を祝福するようにきらめきながら舞い落ちる。
エレアナは、腕の中でゆっくりと振り返り、カインの姿に恋人の面影を重ね、物語の中で初めて、心からの安堵の微笑みを浮かべた。
***
現実の化粧室へと、意識が戻る。
目の前の亡霊は、もはや苦悶の表情を浮かべてはいなかった。
カインの瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちる。それは彼自身の涙か、それとも救われたエレアナの魂の涙か。
化粧台の鏡に、生前の恋人の姿が映し出される。
彼は悲しげに、しかし愛おしげに、エレアナへと手を差し伸べていた。
エレアナの亡霊は、自らの魂を救ってくれたカインへと深く一礼すると、恋人の手を取り、満ち足りた表情で、光の粒子となって静かに消えていった。
呪いの源だったオルゴールに、パキリ、と最後の亀裂が入り、完全に沈黙した。
騎士団は、そのあまりにも荘厳で、慈愛に満ちた「悪魔祓い」を前に、言葉を失い立ち尽くしていた。
「……セラフィーナ、今の彼の演奏は…」
「はい…。まるで、失われた魂と対話するような…。私たちの『聖典譜』にはない旋律でした…」
セラフィーナが、何かを確かめるように彼に駆け寄ろうとする。
「待ちなさい、カイン!」
しかし、黒衣のピアニストは彼女に背を向けたまま、冷たく言い放った。
「死者には静寂を。そして、過去にもな」
その言葉だけを残し、彼は再び影の中へと溶けるように姿を消す。
残されたのは、沈黙する騎士団と、呪いが解けた歌劇場に満ちる、月の光だけだった。