第1話:月長石のレクイエム
帝都ヴィルンヘルムを濡らす十月の雨は、夜の帳が下りる頃、冷たい霧へと姿を変えていた。
時代遅れの瓦斯灯が吐き出す頼りない光が、その湿った大気に滲んでは、濡れた石畳にぼんやりとした光の円を映し出す。
「……お花はいかがですか? 最後の一本、ですの」
裏路地の軒下で、小さな花売りの少女が、か細い声で最後の客を探していた。
みすぼらしい籠の中には、今日の雨で花弁が少し傷んでしまった、健気な白い薔薇が一輪だけ残っている。
寒さを紛わすように、少女は最近街で流行っているという民謡をハミングしようとした。
だが、何度やっても、その旋律は途中で奇妙に淀み、心地よいはずの音階が、まるで呪いのように喉に絡みつく。
「あれ…? まただ…」
最近、うまく歌えない。
街の楽団の演奏も、辻音楽師の奏でるアコーディオンも、どこか不快に軋んで聴こえる。そのせいか、街行く人々の顔も、以前より険しくなった気がした。
その時だった。
彼女が雨宿りする軒のすぐ先、重厚な扉の向こうから、一瞬だけ、何かが溢れ出た。
人のものではない、空間そのものが軋むような禍々しい不協和音。
そして、それをかき消す、絹を裂くような女の悲鳴。
少女は恐怖に顔を青ざめさせ、花かごを抱きしめてその場から逃げ去った。
***
そして、静寂が戻った扉の奥。
秘密サロン『月長石』の中では、その惨劇が始まろうとしていた。
深紅のベルベットで覆われた壁は、無数の客が吐き出した紫煙を吸って黒ずんでいる。
そこかしこで揺らめく蝋燭の炎が、高価なグラスに注がれた葡萄酒を宝石のように照らし出し、甘ったるいアヘンの香りが気怠く空間を満たしていた。
その中で、一際目を引く男がいた。
黒檀の艶を持つ髪に、陶器のように白い肌。
夜の闇をそのまま切り取ったかのような黒いフロックコートを纏ったその青年は、他の客たちのように酒を飲むでもなく、女を侍らすでもなく、ただ静かにサロンの隅に置かれた一台のアップライトピアノに指を這わせていた。
誰も彼に話しかけはしない。誰も彼の名を知らない。
人々はただ畏敬と少しの恐怖を込めて、彼をこう呼んだ――『黒衣のピアニスト《ノワール・ピアニスト》』、カイン、と。
先ほどの悲鳴の主、アトウッド子爵は床に崩れ落ち、その背後では、彼に寄り添っていた踊り子の影が、ありえないほどに長く、禍々しく揺らめいていた。
「素晴らしい…なんと素晴らしい魂の叫びだ」
踊り子の口から発せられたのは、空間を歪ませる不協和音。
瞳は爛々と赤く輝き、爪は黒く鋭く伸びていた。下級悪魔の顕現。
護衛の騎士たちは、その魔性の音波に動きを封じられ、金縛りにあったかのように立ち尽くしている。
誰もが絶望に顔をこわばらせた、その瞬間。
静寂を破ったのは、ピアノの一音だった。
凛、と響いたその音は、まるで凍てついた銀の針。
悪魔の動きが、ぴたりと止まる。
カインはゆっくりと立ち上がり、悪魔へと歩みを進める。
「興が乗った。一曲、奏でてやろう」
「何だ、貴様は……?」
「――鎮魂歌を、だ」
カインが指を鳴らす。
彼の背後の空間が黒く淀み、まるで棺が開くかのように、漆黒のグランドピアノが重厚な姿を現した。
そのあまりの荘厳さに、怯える貴族たちが息を呑むのが見えた。
彼は流れるような動作で椅子に腰かけ、鍵盤に指を置いた。
その瞬間、彼の纏う空気が変わる。先ほどまでの気怠げな青年は消え、背筋はしなやかな鞭のように張り詰め、両肩は僅かに落とされ、全身が完璧にバランスの取れた「構え」をとっていた。
カインの右手の小指が、鍵盤の最も高い位置にある一音を、軽く、しかし鋭く叩いた。
チィン!
凍てついた鈴を鳴らすような、硬質な音が生まれる。
その音は、生まれた瞬間に一条の銀色の光の針となり、カインと悪魔との間に広がる、退廃的なサロンの空間を一直線に貫いた。
それは煙草の紫煙を切り裂き、怯える貴婦人の頬を数センチのところですり抜け、蝋燭の炎を激しく揺らしながら飛翔する。
悪魔は、その殺気にも似た音の飛来に、ようやく危険を察知した。
騎士に向かって振り下ろそうとしていた爪を止め、咄嗟に顔を横に逸らす。
銀色の光針は悪魔の頬をかすめ、背後の大理石の飾り柱に、音もなく突き刺さった。
抵抗なく柱の根元まで深々と突き刺さった光針は、その役目を終えたかのように霧散する。
数秒の静寂。
悪魔が、かすめた頬に触れ、そこに青い蛍光色の血が滲んでいるのを見て、驚愕に目を見開いた、その直後。
背後の柱が、まるでバターのように滑らかな断面を見せながら、ズレるようにゆっくりと、しかし轟音を立てて床へ激突した。
不思議なことに、切り裂かれた大理-石は悲鳴を上げる貴族たちを器用に避け、空間を縫うようにして倒れていく。
「――ッ!」
自らが、柱と同じ運命を辿っていた可能性を悟り、悪魔は初めてカインを「敵」と認識した。
床を蹴り、天井のシャンデリアへと跳躍して距離を取ろうとする。
だが、カインの左手は既に動いていた。
低い嬰ハ音の和音が、地を這うように重々しく奏でられる。
それは指先だけの動きではない。腰を僅かに浮かせ、上半身の体重そのものを乗せた、重戦車の突撃にも似た打鍵だ。
生まれた重低音は、ピアノの足元から、黒い影の波紋となって床全体に広がり、悪魔が着地しようとする地点へと絨毯の上を滑っていく。
シャンデリアから飛び降りた悪魔の足が、床に触れる寸前、その影の波紋が追いついた。
波紋は意思を持つかのように盛り上がり、無数の黒い音の触手となって悪魔の両足に絡みつく。
悪魔は体勢を崩し、無様に床へと膝をついた。
「終わりだ」
カインが呟く。
好機と見た彼は、両の手を鍵盤の上で踊らせ始めた。それは嵐のようなプレスト。
彼の全身から生み出された力が、指先という一点に収束し、無数の音の刃となって空間へと解き放たれる。
身動きの取れない悪魔に向かって、輝く刃の群れが、まるで嵐の中の雨粒のように、空間の全てを埋め尽くして殺到する。
一発、二発、と刃がその身を穿つたびに、悪魔の身体が黒い粒子となって剥がれ落ちていく。
悪魔は苦悶の絶叫を上げるが、それはもはやカインの奏でる圧倒的な旋律の前に、意味をなさないただの雑音だった。
やがて、カインが全てを終わらせる最後の一音を――全身全霊の力を込めた終止符の和音を叩きつけると、それは一際大きな光の奔流となり、悪魔をその影ごと、完全に消滅させた。
演奏が終わる。サロンに訪れたのは、墓場のような静寂。
カインは召喚したピアノを影の中へと霧散させると、呆然とする貴族たちを一瞥もせず、カウンターへ向かった。
そして銀貨を数枚置くと、消え去った悪魔を侮蔑するように、誰に言うでもなく呟いた。
「……悲鳴だけとは芸がない。踊り子を名乗るなら、カスタネットの一つでも鳴らしてみせろというのに」
その言葉の真意を理解できる者は、誰一人いなかった。
カインは再び冷たい雨上がりの闇の中へと姿を消す。
残されたのは、綺麗にスライスされた大理石の残骸と、彼のピアノが奏でた、神々しくもどこか悲しい旋律の余韻だけだった。