ミントの香り
ジークベルトはいつものように仕事をこなす。
噎せ返るような血の香りを纏い、隠蔽魔法、認識妨害魔法など全身に張り巡らせ、闇夜に溶け込むように屋根伝いを進む。
今日の標的は、国内の流通経路の爆破を、商人と進めた他国の工作員。
簡単に済んだ。どれほど護衛に守られていようが、そんなものは何の意味もない。
人間である以上、殺せないものはない。
だからもう数秒前には標的のことは完全に意識の外に追い出した。
考えるのは、イザベラのことだけ。
フリードからイザベラに宛てられた手紙、イザベラからフリードへ宛てられた手紙を見る限り、それらしい秘密は見当たらない。
イザベラは、伯爵と会うような素振りはない。
普段からしていることと言えば、商品作りだ。
保湿クリームに絆創膏という怪我を治療する道具、他にも遮音カーテンなど色々と商品作りに励んでいる。
どれもこれもかなりの売り上げを記録し、社交界にもじわじわと愛用者が増えているらしい。
制作者は名前だけの架空の人物を立てていた。
サンチェスがそれについて尋ねたところによると、フリードに知られたくないかららしい。
フリードが知れば、必ず嘴を突っ込んでくるから、と。
金の流れに怪しい所がないかも調査をしているが、何も見つからない。
利益の六割は公爵家に、四割は自分の取り分として蓄えていた。
そう、特別な贅沢をすることなく蓄えているのだ。
唯一怪しいと言えるのは、偽魔石事件のことを伝えに、イザベラの部屋へ侵入した時に書いていた、あのメモ書き。
ジークベルトは暗号解読魔法を使えるにもかかわらず、あのメモ書きの内容ばかりは知ることができなかった。
おそらく世に出回っていない伯爵家に伝わる暗号文なのだろう。
あれさえ解読できれば、伯爵家の秘密を握れるはずだが。
とある住宅の屋根に着地し、次の屋根へ飛び移ろうとしたその時、屋根裏部屋の窓にジークベルトの顔が反射する。
『やっぱり綺麗……』
唐突に、イザベラの声がよみがえった。
誰もが怖れる猟犬の眼。
皇帝でさえ、直視しようとしない。
だが、あの女は綺麗と言って、じっと見つめてきた。
感覚がずれているのか、終わっているのか。
魔道具があるとはいえ、猟犬なんかと一緒の部屋で眠りたがるのだから、尋常ではない。
『……暗殺者でも、本当に、推せる……』
意味が分からないことを口走ってもいた。
(おせる? どういう意味だ?)
酔っていたから大した意味もないのかもしれないが。
屋敷が見えてくる。
まるで猫が地面に着地するように音もなくバルコニーに降り立つ。
当然ながら室内は暗い。
部屋に入る。
ギシリ、とベッドが軋むと同時に、イザベラと目が合った。
※
イザベラは真夜中に目覚めた。
ジークベルトの姿はなく、シーツに触れるとひんやりと冷たかった。
(仕事なのね)
よく晴れた明るい夜だった。
青白い月明かりがとても綺麗だな、とぼんやり見ていると、不意にそれが遮られる。
黒いシルエットがバルコニーにあった。
シルエットが部屋に入ってくる。
かすかな血の臭気。
「……おかえりなさい」
シルエットの主が、ぴく、と反応した。
「なぜ起きてる」
「起きてた訳じゃないんです。たまたま目が覚めて」
「だったら寝ろ。まだ朝まである」
ジークベルトは淡々と言った。
「仕事を、果たされていたのですか?」
「ああ」
イザベラは布団から抜け出すと、ジークベルトは怪訝そうに眉を顰めた。
「何をしている」
「お着替えを手伝います」
「必要ない。馴れてる」
「でも一人でするのは大変、ですよね」
「必要ない」
「早く終われば、それだけ早く眠れますから。それに、ちょうど試作品も試したくて」
イザベラはサイドテーブルに置いていた陶器の器を見せる。
「また新商品か」
「そうです」
「お前くらいだろうな。付与魔法でそんなことをしようと思うのは」
確かにその通りだろう。
誰もが付与魔法は戦闘のために使う。
おまけに付与できる効果も大して強い訳ではないから、支援魔法の中でもないよりマシくらいの位置づけ。
「この器ですが、保温能力を付与しているんです。寒い日には温かいお湯を、暑い日にはきんきんに冷えた水を、この器で保管しておくと、温くなったりすることがないんです。どうですか、優れものではありません?」
イザベラはタオルと、お湯を出すための器を用意する。
器にポットの中身を出すと、湯気が立った。
タオルをお湯に浸けて、よく絞った。
「貸せ。あとは自分でやる」
「顔についた血は拭うのは自分でやると残ったりしますよ」
「返り血だぞ。気持ち悪くないのか?」
「抵抗がないと言えば嘘になりますが、猟犬の妻としてはこれくらいお手伝いさせてください」
イザベラはにこりと微笑めば、ますます怪訝そうな顔になってしまった。
確かに、こんなのを好きでやるのは不可解だろう。
しかしヒロインと出会う前に、少しでもいいからジークベルトに寄り添いたい。
モブキャラにだってそれくらいの贅沢は許されてもいいのではないだろうか。
「えっと」
「無理はやめろ」
「違います。背が届かなくって。ベッドに座ってもらえると丁度いいかもしれません」
ジークベルトは百八十センチを越えている。一方、イザベラは百五十四センチ。
背伸びをしても厳しい。
はぁ、と溜息をつかれながらも、ジークベルトは座ってくれた。
礼を言って、顔に飛び散った血をしっかりと拭っていく。
「服はどうするんですか?」
「捨てる。洗濯でもこれだけの返り血になると落ちないからな」
「確かにそうですね」
(本当に綺麗な顔)
月明かりを浴び、長い睫毛で頬に青白い影が落ちている。
ウルフアイはまるで満月のように輝く。
見とれるあまり、手がお留守にならないように集中するのが大変だ。
「……ミントの匂いがするな」
「男性用の保湿クリームを試していたんです。これなら甘ったるくないし、甘い香りが苦手な女性や男性でも、抵抗がないかと思いまして。どうです?」
「さあな。俺に聞くな」
イザベラはにこりと微笑む。
「これで完了ですっ」
ジークベルトは乾いた血で汚れた服の上下を脱いだかと思えば、下着姿になり、汚れた服をベッド下の衣装ケースに詰め込んだ。
そして当たり前のようにシャツを脱ぐ。
「っ!!」
はっとして顔を背ける。
「そうしてすぐに裸になるのはやめてください……っ」
顔が熱くなってしまう。
「裸じゃない。穿いてるだろ」
「そういうのはへりくつですし、穿いていると言っても下着じゃないですか」
「返り血は見られるくせに、裸は恥ずかしがるのか。基準がおかしくないか?」
「放っておいてくださいっ」
そりゃ厚い胸板も、シックスパックの腹筋も、隆起した腹斜筋もどれもこれもディスプレイ越しに食い入るように見ていたけど、リアルでそんなことはできない。
男性に対する耐性がない自分が、恥ずかしい。
ジークベルトはがさごそとベッドの中に潜り込んだ。
「これで満足か?」
「ありがとうございます」
「お前も、さっさと眠れ」
「そうします。あのポットはどうですか? 売れそうじゃありませんか?」
「……使用人どもが喜びそうだ」
ジークベルトは目を閉じる。
イザベラも「おやすみなさい」と声をかけ、ベッドに入る。
「ああ」
そう小さく声が返ってきた。
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