魂の枷
椅子から転げたイザベラが床を転がる。
ジークベルトは抱き上げると、ベッドへ乱暴に放り出した。
飲ませたのは、睡眠薬。
わざわざイザベラと婚姻を結んだのは、伯爵家の秘密を探るため。
伯爵家は成り上がった家ながらその財力で大きな影響力を振るい、今や皇帝さえ脅かすような勢いだった。
皇帝としては伯爵家の勢いに歯止めをかけるべく、首根っこを押さえられるだけの秘密を知りたがった。
そのために多くの人間に探らせたが、ことごとく失敗した。
困った末に思いついたのがジークベルトとイザベラを結婚させること。
イザベラから伯爵家の重要な情報を探ることで、それで伯爵家の頭を押さえようと考えたのだ。
この結婚はあくまで仮初め。
そんな女と初夜を迎えるつもりは毛頭なかった。
それに、皇帝の命で今日も他国の諜報員を始末しなければならない。
それも今日は隣国にわざわざ渡らなければならなかった。
帰りは朝方になるかもしれない。
ジークベルトは呪文を口ずさめば、一瞬にして、美しく柔らかな金髪は透き通るような銀髪に、瞳は金色へ変わる。
瞳に関して言えば、ただ色が変わっただけではない。
瞳孔が獣のように縦に線を引いたものになっている。
ウルフアイ。
先祖代々受け継がれる血統の影響によるもので、この瞳で捉えた相手の僅かな筋肉の動きを見逃さないという特殊な力を持つ。
さっきまで浮かべていた笑みは、無表情というベールに覆い隠される。
これがジークベルトの本当の姿だ。
窓を開けると、吹き付ける少しひんやりした風にカーテンが膨らんだ。
ジークベルトは窓枠に足をかけると、跳躍し、夜の闇に消えた。
※
「う、うう……」
イザベラは目を開けるなり、自分の体をまさぐった。
(い、生きてる!)
手足はしっかりついている。
テーブルにあったはずのワインやグラスは片付けられていた。
(さすがに無防備すぎたわ)
正体はまだ分かっていないのだから殺される心配はないと油断した。
まさか初夜を過ごしたくないからと睡眠薬を飲まされるなんて。
なんと言い訳をするつもりだったのだろう。
窓の向こうは薄暗いが、東の空は朝焼けに白み始めている。
(ひとまず初日は無事に過ごせたわねっ)
頭はスッキリして二度寝という気分ではない。
夜着からドレッサーにあるドレスに着替え、ドアノブを握った瞬間、少し考える。
もし仮に、ジークベルトが仕事に行っていた場合、どうだろうか。
部屋を出た途端、鉢合わせという可能性を考える。
(でももう朝なんだし、大丈夫よね?)
ゲーム中、ジークベルトが仕事を終えて戻ってくるのは大抵真夜中で、朝方というのはなかった。
(問題なし!)
イザベラは扉を開けて、廊下に出る。
途端、「は……」と乾いた笑いをこぼれ、己の不運を呪った。
二十メートルほど先に、ジークベルトの姿があったのだ。
黒い服に身を包み、髪色は銀髪。そう、金色ではない。
つまり、彼は今、仕事から帰ってきたばかり、なのだ。
ジークベルトがおもむろに振り返った。
その端正な顔立ちはもちろん、服のそこかしこに返り血が飛んでいる。
狼を思わせる瞳が、イザベラを射る。
「!」
朝日は闇を払拭するにはまだ乏しかった。
きっと、ゲーム中のイザベラもこんな不運に遭遇して、命を終えたに違いない。
足音もなく、ジークベルトが跳び、無言で肉迫してくる。
二十メートルという距離が一瞬で縮まる。
黒い革手袋に包まれた右手にはいつの間にか、短剣が握られていた。
「枷よ……!!」
頭が冴え渡っていたお陰で、とてもスムーズに言えた。
イザベラとジークベルトの間に、光輝く魂の枷が出現する。
「っ!?」
その目映さに、ジークベルトは顔を庇った。
光が収束すると、イザベラたちの間にあった枷は消え去る。
「……今のはなんだ?」
多少の警戒を滲ませ、ジークベルトが言った。
魂の奥の奥まで見透かされるようなウルフアイ。
一瞬でも気を抜いたら最後、卒倒して倒れてしまいそう。
なけなしの勇気をかき集めた。
こんなところで死んでたまるか。
「私の命綱です」
「は?」
イザベラは右手を差し出す。
「短剣を貸してくれませんか。意味を教えて上げます」
「……」
「私がその短剣であなたを殺せると思いますか?」
彼は初夜で見せてくれた笑顔などおくびにもださず、乱暴に短剣を床へ放り出した。
イザベラは猛獣と相対したような気分になりながら、ジークベルトから一度も目を反らすことなくそろりと右足を伸ばし、短剣を自分の元へ引き寄せると、軽く屈んで短剣を取った。
ジークベルトは、イザベラの一挙手一投足を見逃すまいと見つめ続ける。
(今頃、彼の頭の中で私は膾斬りにされてるでしょうね。……それにしても、これ、本当に短剣? 重たい……っ)
イザベラはずしりと手首にかかる重たさに驚きつつ、刃先を右手の人差し指にあてると、そっと引く。
ぴくり、とジークベルトの右眉が小さく反応する。
そう、彼にも痛みが伝わったのだろう。
イザベラは今傷つけたばかりの指を見せた。
傷からはうっすらと血が滲んでいた。
ジークベルトもまた右手の人差し指を見せる。
同じように人差し指に傷がつき、血が滲んでいた。
「何の手品だ」
「魂の枷というアイテムの効果、です」
魂の枷のデメリットとは、魂の枷で結びついた主人公かキャラクターがダメージを受けると、本来攻撃を受けていないもう一人の方にもダメージが及ぶというものである。
現実世界ではダメージが数値化されることはないからどうなるのだろうと思ったが、こんな形で表現されるらしい。
「私を殺せば、あ、あなたも死にます……っ」
次の瞬間、ジークベルトは口元を緩めた。
「そのようだな」
「枷を解除するにはどうしたらいい?」
「教えません」
「じゃあ、別の質問だ。どうして俺の髪色や目、血まみれなのを見ても、驚かない? どこで俺を知った? 伯爵もこのことを知っているのか?」
「どうして本当のあなたを知っているからは教えません。最高機密ですから」
この世界はゲームの世界なんですと説明したところで、馬鹿にされているとしか思えないだろう。
「最高機密」
ジークベルトはウルフアイを細めた。
まるで野生の獣が哀れな獲物を追い込むように、少しずつ距離を詰めてくる。
「それから、父はこのことを知りません」
「それを信じろと?」
「あの父がこのことを知って、利用しないと思いますか? 心配しなくても私はただ死にたくないだけです。このことを誰かに広めたりするつもりは毛頭ありませんから」
「まあ、言ったところで誰も信じないだろうが」
それはそうだ。
今のジークベルトと、猫を被った彼はあまりにもかけ離れすぎている。
「っ!」
はっとした。
いつの間にか、すぐ目の前にジークベルトがいた。
(いつの間に!?)
予備動作も何も見えなかった。
彼は王者の笑みを浮かべ、イザベラの右手を取ると、傷ついた右手の人差し指を撫でた。
ぴく、と両肩が跳ねる。
気付くと、傷跡は跡形もなく消えていた。
確か、ジークベルトは簡単な治癒魔法が使えたはず。
「楽しい結婚生活になりそうだな」
噎せ返るような濃厚な血の臭いも何も彼の存在感の前には、意味がなかった。
ジークベルトは背中を見せると歩き去り、角を折れて見えなくなった。
瞬間、安堵の息をこぼし、イザベラは壁に寄りかかった。
満身創痍。
でもこれで本当の意味で延命に成功。
(良かったぁ~!)
泣きたくなるほど嬉しかった。
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