前世の記憶
目の前に現れた青年を前にした瞬間、イザベラ・エルヴァの全身の鳥肌が立つような衝撃が走ると、同時に、自分の前世を思い出し、ここが現実世界ではなく、とある乙女ゲームの世界であることに気付く。
青年は、柔らかな金髪。少し下がった目尻。
肌は色白で、陰ができるほど長い睫毛に縁取られたのは、青い瞳。
どこかおっとりとして、人の良さそうな笑みをたたえている。
仕立ての良さが一目見て分かる白いジャケットに、クリーム色のパンツ。
ジークベルト・クロイツ。
父の死により、二十五歳の若さで公爵家の当主となった。
一方の、イザベラ・エルヴァは燃えるような赤毛に、勝ち気そうに吊り目がちな瞳はエメラルドのよう。鼻筋はよく通り、今は髪よりも深い、ワインレッドのドレスに身を包んでいる。今年で二十歳。
社交界では知らぬ人間はいない、これまで何人もの貴族と婚約を結んでは先方に問題があると言い立てては婚約破棄を繰り返す傍若無人な悪女と名を馳せる、エルヴァ伯爵家の令嬢。
(……私は、目の前の男に殺される……!)
イザベラは前世、この世界をすでにゲームでプレイして、一通り知っていたからこそ、分かるのだ。
『プレアデスの聖霊と狂愛の華』。
それがこの乙女ゲームのタイトル。
田舎から出てきた貴族の血を引くヒロインと、癖の強い男性キャラクターたちが織りなす恋愛シミュレーションRPG。
ジークベルトは攻略キャラの一人。
虫も殺せないような、天使を彷彿とさせる善良そうな姿は偽りの顔。
その正体は、帝国に仇をなす他国の諜報員や謀反を起こさせようと暗躍する工作員、また国内の異分子を闇に紛れて抹殺する、帝国の猟犬。
ローリモス帝国の闇を具現化したような人物である。
「――それでは結婚式は一ヶ月後ということで」
にこりとジークベルトは言った。
「このたびは誠にありがとうございます。どうか、皇帝陛下によろしくお伝えくださりませ」
「はい。伝えておきます」
イザベラの左隣に座った初老の男、イザベラの父、フリードが立ち上がり、うやうやしく頭を下げる。
イザベラも倣うように頭を下げた。
イザベラは、ジークベルトの最初の妻。ゲーム中、ト書きで殺されたことが判明する、立ち絵さえないモブキャラクター。
彼の口から「妻は突然失踪してしまったんです」と語られるが、正体を知られてしまったがために始末されたということが後々、判明する。
「イザベラさん、あなたと夫婦になれる日を心待ちにしております。どうかそれまでにお体を労りください」
本性を知らなければ、彼にもう一つの顔があるなんて誰が気付くだろう。
「……ありがとうございます。公爵様」
「やめてください。これからジーク、と呼んで下さい。夫婦になるのですから」
「ジーク、様」
「私は呼び捨てでも構わないのですが」
「そ、それは……」
「ハハハ。ジーク様とイザベラは本当に魂の片割れ同士のようにお似合いですな!」
イザベラは父の後に続き屋敷を出て、馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出してしばらくして、フリードはそれまでのまじめ腐った真摯の仮面を脱ぎ捨てると、下卑た笑みを浮かべた。
「今日は我が家にとって最良の日だ。我が家はますます栄えることだろう。いいか、イザベラ。ろくな魔法も使えぬお前をこれまで育ててきてやったんだ。その恩に報いて、しっかり仕事をしろ」
「……分かっています。公爵家が握る国家機密を探ること、そして……跡継ぎを作ること、ですよね」
「そうだ。跡継ぎができれば、あの若造は用済みだ」
フリードはにたりと笑う。
こんな風に小間使いのように粗末に扱われるのは、イザベラが正妻の子どもではないからだ。
金と引き替えに、没落した侯爵家の娘を愛人にしたのだ。娘はフリードに嫌気が差し、イザベラが生まれると出奔。孤児院へ預けて行方を眩ませた。
赤ん坊の時以来、イザベラは母親を知らない。
イザベラは孤児院という誰も信じられないような殺伐とした世界で育ったが、しばらくして行方を捜し当てたフリードに引き取られた。
フリードと正妻の間には跡継ぎがいたが、政略結婚の駒として使える娘がいなかった。
フリードには役に立たなければいつでも孤児院へ送り返してやると脅されながら、育てられたのだ。
イザベラが多くの男性たちを誘惑し(体を許したことは一度もない)、浮き名を流しているのも全て父の命だ。
母親譲りの美貌で男を籠絡し、その家の情報を吸い上げ、適当な理由をつけて別れる。
必死だった。
務めを果たせなければ役立たずの烙印を押され、どんな目に遭わされるか分かったものではない。
世間で後ろ指を刺さる悪女というのは虚像。
実際は父親に捨てられまいと必死に生きる哀れな女に過ぎない。
(このタイミングで前世の記憶を思い出せたのは本当に運がいいわ!)
ジークベルトは前世の推しである。
虫も殺せないようなおっとりとした表の顔と、血潮にまみれた裏の顔のギャップが最高だったし、グッズだって買いあさった。
そのために、会社員としての日々を頑張っていたと言っても過言ではない。
しかし、いざ自分が殺される当事者となってしまったら話は別。
(今はとにかく生き残る方法を考えなきゃ)
結婚をやめたいなどと言えば、フリードにどんな目に遭わされるか分かったものではない。
逃げるのも不可能だ。
連れ戻されるだろうし、都市から一歩外に出れば野盗や魔物が存在するこの世界で無事に生き残れる自信がない。
イザベラは主人公ではない。
立ち絵さえなくセリフ上で語られるだけの存在。
魔法は使えるものの、魔力量がそもそも少ないイザベラが使えるのは、付与魔法がせいぜい。
付与魔法というのは物質に特性を与える補助魔法のこと。
たとえば剣に攻撃力強化を、盾に腐食耐性を付与したり、というもので、主に戦闘支援のために使われる。
(となると、ここはあれしかないわね!)
ゲーム知識を活かして何が何でも生き残るのだ。
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