第三夜 陰
当たり前だけど今朝の日記は更新されていなかった。
「楽しみだったけどこれが普通か」
少し落胆しつつ、口の不快さを感じ、うがいをしようと洗面台の前に行った。鏡の下に置いてあるカレンダーで今日が土曜日であることを確認した。昨日の映画、面白かったなと独り言を発しながら軽く寝癖をとく。「痛!」途端に左手首の痛みを感じた。それはツンとした痛み。痛みの正体を確認しようと袖を下におろすもそこには傷や赤みなど何もなく、ただただツンとした痛みがあるだけだった。
「何だろう」
捲くった袖を戻して前を見る。フェイントをかけるようにもう一度確認するも、皮膚には異常がなく、ツンとした痛みがあるだけだった。
いつもの生活スペースに戻り、紅茶を入れる。ちなみに紅茶はアッサムを入れた。
容器を温め、茶葉をパックに入れて容器に入れる、お湯を注ぎ、出来た渋いオレンジ色の紅茶をマグカップに移している時、あの日記のことを思い出した。それは、過去のうちの知らない夜の私のこと。いや、違う。そもそもあれは私なのだろうか、私が書いたものなのだろうかという考えが溢れる。大学がある忙しい日々、あまり考えないようにしていたことが、溢れる。気づくとぼたぼたと床に滴る水の音でマグカップから紅茶が溢れていることに気が付いた。
私は床にこぼれた紅茶を拭きながらさっきの続きを長々と考える。そう、私は家に帰ってきて、ずっといるものだと思っていた、でも、それは間違いであって、私は家に帰っていなくて誰かが私を装い、日記を書いて置いている、何でそんなことをと思ったが、その考えは一旦保留した、そう、そんなこともあるのではないかと思った。でもだとしたら、私の記憶は何で無いのか。そうだ、強いストレスでも記憶はなくなると聞く、もしかして私には数日にわたり、強いストレスがかかっているのではないか、もしかしたら自宅ではないどこかへ連れ去られているのではないか、でも何のために。でもなんで、と考えたところで頭が痛くなり考えるのをやめた。
今日は色んな所が痛くなる。と言っても頭と左手首だけ。
「あー、なんだかだるいなぁ」
何も食べないまま紅茶だけを体に流し込む。
気づくと時計の針は正午を回っていた。
***
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目を開けると部屋が月明りで満ちていた。私は布団の中に居て、横には同じ布団の中で友達が寝ていた。状況を把握できないまま、頭と左手首の痛さが脳を刺し、夢うつつの私は朝、同じ場所を確認したにもかかわらず左手首に目を凝らした。そこには何本もの痛々しい切り傷があって、かさぶたの上には何本も赤黒い線が引かれていた。これが何なのかと考える間もなくのどの渇きが脳を刺し、コップを取ろうと机に手を伸ばす、すると何かにぶつかり、机の上でカン、カタンと何かが倒れる音がした、よく見ると薬の小瓶のようなものだった。友達はその音では起きず、小さな呼吸音をたてながら眠っていた。
私は、立ち上がり、机の上から取ったコップを手に持ち、冷蔵庫へ向かった。
自分の背丈よりも小さな冷蔵庫を開けっぱなしにしたまま、私はコップに麦茶を注ぎ飲み干した。冷蔵庫を開けっ放しにしたことで、冷気が外にこぼれ、真っ暗闇でも自分の身体の輪郭を明確にさせた。冷気と同時にこぼれた冷蔵庫の柔らかな光は私の体を照らした。その時、真っ暗な空間でオレンジ色に照らされた私の体は裸であるということに、私は気が付いた。
戸惑う私。足元には冷気が水の流れのようにこぼれる。刹那、思い出した。
少し前、私は流れる川の真ん中で立っていた。
日記が始まる日の前の前、私は川に向かったのだ。生きるのが嫌になって。なんで忘れていたのだろうか。あーそうだ、あの瓶ごみのことも思い出した。この左手首のリスカ跡も、うだうだ暗いことを考えていた日々も、すべて、すべて思い出した。どうして忘れていたのだろうか。あー嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、将来を考えたくない、何も持っていない自分が辛い、生きるのが苦しい。目の前のキッチンには包丁がある、痛いだろう、痛いのだろう、でも、でも、それで、この苦しさから逃れられるのなら、と私は口角を上げた。
嫌な考えはベタベタと粘っこく、頭の上の方から次々と出てくる。グポグポと音をたてながら全身を一度覆うとそれは、なかなか体から離れなくなるということを私は知っていた。
***
月明りが満ちた部屋の中、独り言を発し、時々笑う女。ドサリと鈍い音がすると裸体の女はしばらく動かなくなった。