第82話 酒の妖精談話からの、魔王との交渉
換気にもしばらく掛かった。気化成分が酒だけでは無いので、アリアの酩酊無効の効果も限定的だ。
第一、随分な数の樽酒のふたが開けっ放しで、アルコールが気化し放題であったのだから、換気に時間が掛かるのも当然だ。
大きなはめ殺しの窓の上にあった換気用の窓を全て開けて換気している。まだどこかアルコール臭いが、大分マシになった。
魔王は俺達の様子を見て楽しんでいた様にしか見えなかったが、改めて頼んだら、幸いにも解毒魔法を使ってくれた。
解毒、と言いつつ、新たな毒の成分も防ぐようで、解毒魔法以降は、あの腹の壺がガタガタと不自然に揺れ動く、独特の爆笑感も発生しなくなった。
「さて、粗方換気も済んだことだし、君もそろそろ席に着いてはどうかな?」
「あー勿体ねぇ。酒の妖精があんなに元気だったのに、もうすっかり抜けちまったよ」
「はは、何度でも言うけれど、酒の妖精なんて実在しないからね? 英雄が勘違いするから、辞めて欲しいな」
「ドワーフにとっちゃ酒の妖精は『いる』んだよ。これはあんたが魔王様だろうが、引き下がれねぇ」
苦笑い顔の魔王が、俺に視線を向けてきた。
部屋に入った団子状態のままだった俺達だが、酔いは醒めた。
酒の妖精云々は知らん。特にそういった浮いてる何かとかは、酔ってても見えなかった。
席。
言われてヒューさんの方を見ると、いつの間にか立ち上がり、ソファーの裏手に回って立っていた。
ヒューさんが、目配せをする。俺はそれを受けて、魔王・ドワーフマスターの対面になるソファーのど真ん中に、どっしりと腰を下ろした。
「……酒の妖精、と言うのは?」
俺はまずはハズレ玉を投げてみることにした。通商交渉なのか国境線交渉なのか、あるいはエルクレアのローリスによる併合なのか、議題は幾らでもある。
下手に最初から何か目的のある話を投げると、それに固着されて『得られるもの』を減らしてしまうのが怖かった。
「ほらみろ魔王! 英雄っつーのも、しっかり妖精のことを気に留めているぞ!」
「は、はは……シューッヘ、本当に与太話だから、信用しないようにね」
「おーぅ黙っとれ世界一の古年寄りが! 英雄! 酒の妖精はなっ、さっきしてあったように酒の樽をいくつも開けてお出迎えをするんだ。つまりだな……」
そこからしばしドワーフマスターの『妖精講義』は続いた。
それをしばらくの間、聞くがままにしていて、なんとなく掴めてきた。
酒の妖精、と言うのはどうも概念的なものらしく、ドワーフの目にもその姿が写ることは無いらしい。実存は結局魔王の言うとおり怪しい。
宴会にしろ酒席にしろ、ドワーフにとって「良い酒が飲める楽しい場面」には必ず酒の妖精がいる、ということになっているようだ。
ドワーフマスター曰くには、妖精が来た事を確認出来るのが、アルコール臭が極まって、感じられなくなった時。
それは単に鼻が麻痺しただけでは、と、思ったが言わなかった。これは文化の差違、あるいは宗教の話に近い。
そう感じたから、俺はあくまで頷くまでに留め、言葉を差し挟まなかった。
この手の話題、下手なツッコミは、要らぬ衝突を生む。
だから聞くだけだ。
「とても貴重なお話しを伺えて、ありがたく思います。ドワーフの皆様が、酒の妖精さん達と共にありますように」
「おおっ! 良い事言ってくれるじゃねえか! やっぱ手を組むならアレか、魔族じゃなくて妖精をよく分かってくれる、元々手を組んでた人間様の方が良いか?」
「おっとそれは聞き逃せない事を言ってくれるね。シューッヘ、君のことは、恐らく外交的には無能力だろうと思っていたけれど、基礎的な素養はあるようだ」
魔王が口の端を上げ、少し悪そうな目をする。
なるほど、この美青年ビジュアル、ちょっと悪よりに振るのも、かなり様になる。若き魔王様って、何だか格好いいな。
「いえいえ、俺なんて……ひたすらヒューさんにおんぶにだっこですからね。先だってのオーフェン外交も、運に任せて乗り越えた様なものですし。なにせ」
と、言い終えてそのまま敢えて息を大きく吸い、十分に間を溜めてから、
「オーフェンにはサキュバスが『もう』いたり、魔族アンデッドの魔導師隊がいたり。全く魔族を知らなかった俺にとっては、見識を広げる好機でしたから」
と、少しフレンドリー感を下げて言い切った。
だが俺の軽い挑発なぞ、やはりまるで効き目は無い様で、魔王はその眉一つ動きは無かった。
「腐臭部隊のごく一部が、僕の命令も無いのに勝手に動いた話は聞いている。その強襲目的地だったようだね。不運な話だ」
腐臭部隊。あの"湿ったアンデッド"の部隊の事なんだろうな。
ごく一部、と少し強めに言ってきてる辺りに、正規の侵攻では無い事を言いたいのだと感じる。
「幸いにも俺がいた事で、部隊長のアッサス将軍含め、全滅に出来ましたが。オーフェンだけだったら、その『ごく一部』にすら敗退し、王都を腐臭で染められるところでした」
「まぁ、腐臭部隊は少数でも多数でも、戦い方を色々に出来る部隊だからね。魔族軍内でも比較的上位の部隊だから」
「なるほど。俺の直接・間接の仲間が総力を挙げても殲滅出来なかったのは、精鋭だった、ということですか」
「そうだね。ただどうもそのアッサスという人間を内側から奪ったか、あるいは寄生して掴んだのか知らないけれど、その腐臭部隊は未だに1体も本地に戻らない。
と言っても、オーフェン再襲撃の報もまるで聞かない。勝手に動いた者達の頭になった個体が、君の手によって殲滅された事で、意志決定に問題が生じているのかも知れない」
相変わらず長いセリフを流れる様に話す魔王だが、馬車の中での雑談とは密度が違う。一言一句が大切だ。
魔王サイドも、その腐臭部隊の新たな動きは把握をしていない、という呈にしたいと言うことか。あるいは、『頭』を粉砕した俺を責めてもいるのか?
その辺りのテンションまでは俺にはとても読めないが、とりあえずオーフェン襲撃部隊の殲滅について、俺が責任を問われる流れではない。
「では、サキュバスの方はどうなんですか? 本人、いえ人では無いのですが……そのサキュバスから色々聞いていますが」
「ああ、あの娘は僕も覚えている。凄く喧嘩早い性格の子でね。しかも主戦論者だ。
君単騎でならば良いよ、と僕としては無理を言って諦めさせようとしたつもりだったんだけれど、寧ろ乗り気にさせてしまった。あれには僕も少し困ったね」
「因みに覚えていらっしゃるのは印象程度のお話しですか、やはり。膨大な魔族を率いる方にとっては、一人ひとりなんて……でしょうか」
「いや、僕は戦地に送り出す者については、必ず個体名を記憶に刻んでいる。リコリシュット・サリアクシュナ。ここから北東に50クーレアにある、ミスミ村に住んでいた、下級サキュバス」
マジか。兵士なんて使い捨て、隠密任務なら切り捨ててるんだろうと思っていた俺の方が浅はかだった。
サリアクシュナさんのファーストネームは、俺も女神様が名指しで仰った1回しか聞いていない。更にどこに住んでるかまでは、俺は全く聞いてすらいない。
魔王は……嘘偽りなく、戦地に送り出す者達全てを、記憶しているのか。
「試すような事を言いましてすいませんでした、魔王様。因みに、さすがにその後のサリアクシュナさんの事は、ご存じではないですよね」
「僕自身で確かめた事であれば、彼女が王の愛妾に収まったのをこの目で見ている。よく塔の高層階でティータイムを楽しんでいたよ」
マジか再び。塔の高層階って言ったら、多分あの会談場のことだろうと思う。それを『この目で見ている』と?
「魔王様は……人間の国にも、たまに行かれたりするんですか……?」
ちょっと怯んでる自分を感じながらも、好奇心の方がわずかに勝った。
「まぁ、たまにね。今はメイドさんが持ってる君の腰の剣も、そういうたまたまの時に出来上がった傑作だったから、僕がこっそりローリスの宝物庫に置いてきたんだし」
国境なき魔王。てか、規格外過ぎだそれは。
魔王が本気で人間たちを攻めに来たら、たとえ単騎ですら、オーフェンだろうがローリスだろうが、はたまた俺であったとしても、ワンパンで沈む絵図しか浮かばない。
何の成果を持ち帰れば良いのか。
もし選べるのであれば、不可侵条約、通商条約……なによりも優先は安全か。
つまり戦争と商売の天秤ならば、戦争回避……か?
だがこの交渉のテンションであれば、わざわざ不可侵は言わなくても実現出来そうだし……
「相変わらず君は、驚いたら驚いた顔はするし、不審に思えば不審げな動きを返すね。外交にはあまり向いていないと思うよ、悪いけれど」
ウグッ。余裕たっぷりの魔王から、外交は向かないと断言されてしまった。
多分俺の表情を見るだけでも、もう相当な情報が魔王に流れて行ってるのだろう。
となれば、これ以上俺が小さな頭でウダウダと考えていてもあまり意味はない。作戦を大幅に切り替えていこう。
「魔王様。いきなりの提案をします」
「ふむ。君がその覚悟を決めた様な真剣な表情で言う『いきなり』が、何だか大した事が無さそうな気もするけれど、まぁ聞こう」
魔王は少しだけ笑みを浮かべ、出来の悪い子供を見る様な優しい視線で両手で頬杖をした。
俺は、頭の中にある最も大胆なカードを切る決意をし、大きく息を吸った。
「ローリス・魔族領間で、往来自由・貿易自由・軍事同盟関係・共通法の制定を含めた、連邦制を築きませんか?」
何とかつまずかずに言い終えた俺は、思わず短く熱い息を一息吐いた。




