第69話 初めての空の旅へようこそ
俺は今、ついさっき下から見上げていた馬車の中、しかも一番上座になろう奥の黒い皮のソファー席に、ぽつんと一人で座っている。
向かいには魔王……が座るはずなのだが、魔王の馬車であるのに執事などは同席しておらず、魔王自ら窓際で、2人分のグラスに飲み物を注いでいる。
「本当に果実水で良いのかい? この馬車に積んであるワインは、それはそれは貴重で、今日を逃がしたら一生味わえない程に価値があるものだよ?」
魔王が自らのであろうグラスに、重々しい赤ワインを注ぎ終え、こちらを振り向いて言った。
「良いんです。俺が酒を飲むと、魔族直領まで寝て過ごす羽目になるので」
そう。俺は酒に弱い。徐々に慣らしてはいて、屋敷では白ワインであればグラス2杯を気分良く飲める位にはなった。
だが魔王が持ち出したのは、赤だ。どうにもあの、苦みと言うかえぐさと言うか、あのザラザラした舌触りも含めて、赤は好きになれない。
稀少らしいし、気にはなる。が、相手は賓客。その賓客自ら振る舞うワインに不味いとは言えない。それだったら最初から飲まなきゃ良い。
「まぁ、変に真面目なところは君らしいと言えば君らしいね。寝ていきたければそれでも構わないのに」
「いえまぁ、せっかくの初めての空の旅なので、楽しみたいな、とも思ってまして」
馬車は今、空を駆けている。というか空を滑空と言って良い程なめらかに進んでいる。
魔王はこの馬車について、グラスが倒れたりしない程、だっけ? 揺れない事を自慢していた。
その自慢はまさに真実であった事を、俺はもうすっかり味わっている。
「ところで魔王様、この馬だったら自由に飛べそうなのに、敢えて俺達が切り開いてしまった森のルート上を通ってるのは、何か意味があるのですか」
離陸すら垂直離陸で始まった驚きの空の旅だったが、それ程高くない高度を、そこそこ程度の速度で飛んでいる。
地球時代、飛行機に乗った経験が無いから実感はないのだが、時速何百キロという飛行機の速度ではない。あくまで強靱馬より少し遅い馬車の速度で、空を走っている。
「今までそういう例は一度として無かったけれど、万が一墜落した時に、高度が高いと色々危ない。結界を張るから乗員を守る事は出来るけれど、衝撃はあるからね。馬車内の壊れやすい物は壊れてしまうだろう。
飛行ルートをこのようにしているのは、ともかくその方が走りやすいからだね。わざわざ方角を僕が随時エラキストンに指示して飛ばなくても、このまま真っ直ぐ森を出て西進する方向まで進めば、後はエラキストンが道を分かっている」
魔王から至極真っ当な答えが返ってきた。特別なことがあった訳では無く、普通の安全対策と普通の『最も簡単なルート』の採用だった。
「さあ、果実水だ。これはこれで、エラキストン達が魔王直領を出る時に僕の配下が急ぎ積載した、絞りたての果実で作った果実水だ。味は保証する」
「すいません俺、座ったっきりで」
「構わないさ。この馬車を使う時は、僕が客人の相手をする事を決めた時なんだ。もちろん相手にその価値がある事も認めた時、だよ?」
「何だかとても評価してもらっている様ですけど、俺、特に話が面白いとか役立つ情報があるとか、全然無いですよ? ガッカリしないで下さいよ?」
「ははっ、既にその語り口からして独特で僕には面白いんだ。さあ、乾杯と行こう。空路ではあるけれどそこそこ時間は掛かるから、肩の力は抜いてね」
魔王がワイングラスをスッと差し出してくるので、俺もそれに合わせて上品なガラスのグラスを少し持ち上げる。
「では、英雄の初めての空旅が楽しいものになる様に。乾杯」
「はい。乾杯」
魔王の方からグラスを寄せてくれて、俺のグラスの節に当てた。
そのまま魔王はクイッと一息でそのワインを飲み干して、ワインが入れてある棚に戻っていった。
俺も果実水を口に含んでみる。おおぉ、甘い。砂糖の甘みでは感じられない、爽やかな、そして砂糖並みの甘さだ。
あいや、異世界だから砂糖入りの果実ジュースは無いと勝手に思っていたが(今まで無かったし)、実は砂糖入りかも知れない。
砂糖のありなしに関わらず、このオレンジ系の爽やかさにハーブが入ってよりスッキリ、なところに、甘みが凄い。
「おお、若き英雄君の口には、その果実水は合ったようだね。良かった」
「これって、砂糖が入ってるんですか? 砂糖入りにしたって甘さがベトベトしなくて凄い美味しいです」
「砂糖は、魔族領ではあまり使われない調味料なんだ。大抵は果実の甘みで料理も菓子も作る。もちろん一部には砂糖をふんだんに使って甘みを出すものもあるけれどね」
魔王はそう言いながら、俺の前にあるテーブルに、果実水とワインのボトルを置いた。そして俺の正面になる、少し小ぶりのソファーに座った。
小ぶりと言っても、普通に人が座れば5人ほどは窮屈でなく座れるソファーだ。俺が座ってるのが規格外にデカいだけである。
「ところで魔王様、俺、とっとと馬車に乗っちゃって後ろ確認出来てないんですけど、みんな付いてきてるんですよね?」
「ああ、それはもちろん。僕自身が馬達と意識連携をしているから、どの程度の高度をどんな速度で、負荷はどのくらい掛かっているかも含め、全部把握出来ている」
「それは凄い。うーん……でもやっぱり、魔王様には失礼ですけどちょっと不安です。あれだけの量を運んで、雑にならないかとか……」
俺はエラキストンの馬車、つまり今俺が今こうして乗っているその馬車の準備が出来た、と魔王に言われて、そのまま馬車に押し込まれてしまった。
だから、もう一体の馬、メギストンが引いてるはずの、強靱馬4匹を含む大量の『荷物』が上手く運べているのか、全く確認出来ていない。
魔王がこれだけ堂々と言うんだからよっぽど大丈夫なはずだ、と心に言い聞かせるのだが、やはり不安感が出てしまって、言葉にまで溢れてしまう。
「何なら実際に見てみるかい? メギストンは今この馬車の真後ろ、100レム程度を走行中だが、少し横に移動させれば窓から見える」
「あの、その……魔王様の馬の力を疑うようで申し訳ないんですけど、お願い出来ますか……?」
言うと、魔王はクスッと笑い眉を少し寄せて苦笑いの表情になった。そのままスッと目をつぶって、何やら口の中で言葉を唱えている。
再び魔王は目を開くと、そのままソファーから立ち上がった。
「そちらの窓から見える角度になる様に指示をしたから、実際に見てみると良い。見れば不安も無くなるだろう」
「あ、ありがとうございます。それじゃ、失礼して……」
俺もソファーから立ち上がり、魔王が指差した窓の近くに寄った。
普通にスライドで開けられそうな窓だったので、中央の錠前をくるんと回して、窓の端に手を掛けて開ける。
と、思ったよりかなり強い風が中に吹き込んできた。それもそうか、強靱馬で駆けてた時は風の精霊の働きがあったが、今は普通に空飛んでるだけだ。
「あれ? 君、その窓開けられたの?」
「へっ? あっと、あの、開けちゃダメでしたか」
「いやそうじゃなくて、その種類の窓枠は人間の領地では使われていないはずだと思っていたんだけれど」
「え? 窓枠?」
言われて、ちょっと下がって窓枠自体に目をやる。
何の変哲もない、いわゆるアルミサッシの窓枠……あっ!
「……確かにローリスでもオーフェンでも、使ってなかったですね。ただ俺の転生前の世界では、このタイプのがよくあったんです」
「ふむ、異世界の産物と似通ったのか。窓という単機能の物だから、使い勝手を考えるとどれも同じ様な進化をするものなのかな」
顎に手をやり少し考え込む様な表情を浮かべる魔王。
いや、そっちはいいや。まずは仲間達が安全に付いてきてるのか、確かめないと。
俺は風の強さを肌で感じながらも首を窓から押し出した。
すると、確かにこの馬車の斜め後ろに、空飛んでる馬が1体と、その後ろにでっかくて黒い『塊』が付いてきてる。
黒い塊はあたかも地面の上を走っている様に水平が保たれていて、揺れてる様子も無い。わずかに光を通す様で、よく見るとうっすらと、俺が乗っていた馬車の輪郭が見えた。
塊はとにかく大きい。馬車と荷馬車、それから馬と御者台をそのまま四角く囲った様な高さ大きさだ。
まとめて運ぶんだ……1体で全重量を運ぶメギストンの力。正直とんでもないな。
窓を閉め、錠をかう。風が止んで、再び静かな馬車内となる。
「ありがうございます、魔王様。まさか全部まとめて運べてるとは思いもしませんでした」
振り返って言ったが、返答は無かった。さっきから変わらず深く考えに入り込んでしまっている表情で、固まっている。
「あの、魔王様……?」
再度呼び掛けるも、やはり反応が無い。馬車の主がこれでは、このまま席に戻るのも何だか心地よくない。
俺は静かに魔王に近づき、開いてるが何も見て無さそうな目の前に、チラチラと手を振った。
「んっ、ああすまない、つい考え込んでしまった。後続車の確認は、もう良いのかい?」
「はいお陰様で。まさか馬車から馬まで全部囲って、その囲いごと運ぶとは思ってもみませんでした。凄い力ですね、メギストン」
「メギストンが本気で掛かれば、城程度の重さがあっても引きずる位は出来るよ。だからあの程度は余裕さ」
魔王が言いながら席に戻るので、俺もその後ろを付いて歩いて席へと進んだ。
「今この馬車は、君達が切り開いたルートを真っ直ぐ北上している。そのまま進んで、結界師の壁を越えてしばらく進むと」
「結界師の壁? ……って、俺達が向きを変えて進んだ所にあった、あの奇妙な建築のことですか?」
「そう。人間世界でどう呼ばれているかは知らないけれど僕らはそう呼んでる。アレは比較的新しく作られた物で、エルクレアの最後の抵抗の跡地だね。
因みに何故僕達が『結界師の壁』と呼ぶかと言うと、最近の結界師はルナレーイとの同盟時代と比べ質が落ちてしまって、空間に厚い結界が張れなくなってしまってね。
何かを守る結界であれば十分に張れたからなんだろう、あんな不格好な建物を建てたんだろうと思う。もっとも、殆ど実戦で使われる事もなくエルクレア首脳部との和平が成立してしまったんだけどもそれでもあの建物は」
あっちゃ、そうだった忘れてた。
この魔王、超話し好きだった。ここからずっとこの独壇場の長話の相手だわこれ。
俺は何とも早計なことを。俺もダダこねてでもあっちの馬車で運んでもらうべきだった……。
魔王の「壁談義」をBGMに、静かな馬車は揺れもせずに空を駆けていた。




