第65話 エリクサーとマギ・エリクサーと魔王
「ああ、英雄。まもなくここに馬が来る」
俺に向いて振り返った魔王の顔に、一筋の汗が流れていた。
絶対的な程の力を持つ魔王ですら、一汗かく程の作業なのか。ヒューさんが心配だ。
「魔王様、御前ですが失礼。ヒューさんっ」
俺は魔王のすぐ横をすり抜けて、膝を付いているヒューさんの元に駆け寄った。
ヒューさんは汗だくだ。顔色も悪く、青ざめている。ただ呼吸は乱れていないし、こちらをすぐに見返すだけの反応も出来ている。
「シューッヘ様、ご心配をお掛けし、心苦しゅうございます」
「いやいやそんなの良いから! 何が必要? エリクサー? それとも、マギ・エリクサーの方?」
俺も膝を付いてしゃがみ、ヒューさんの肩に触れる。と、何か知らないが酷く寒気のするゾクッとした感覚が背筋を這った。
「シューッヘ様。今わたしは闇魔法の影響下にございます。わたしに触れると、ご体調を崩されます」
言われて俺はただコクコクと頷いて、一度は触れていた手をヒューさんから離す。
「ヒューさん、自力で立てそう? ここにエリクサー類、両方とも持ってくるね」
「ありがとうございます。シューッヘ様のお心に甘えさせて頂きます」
俺は翻って、力強く地面を蹴った。1歩で狙い通り馬車の入口まで飛べた。
「フェリクシア! ヒューさんの消耗が激しい、エリクサー、両方持って付いてきて!」
「かしこまった、直ちに用意する」
馬車から答えが返ってくる。程なくして、箱を両手にぶら下げたフェリクシアが馬車からポーンと飛び出してきた。
「やはりあのヒュー殿であっても、魔王の補助は重かったか」
「そうみたいだった。あの魔王が、汗かいてたんだ。ヒューさんもよっぽどなはずだよ」
俺がフェリクシアでも付いてこられる様にと小走りに抑えたら、フェリクシアの方が素早くヒューンと行ってしまう。
急いで俺も足裏に力を入れて地面を蹴って、ヒューさんのすぐ後ろまで飛び込む。そこにフェリクシアがすぐ着いた。
「ヒューさん、エリクサー持ってきたから。フェリクシア、ヒューさんに、両方とも」
「分かった。今準備をする」
立てて置かれた、上に取っ手の付いた箱は、前面の板が上にスライドして開くような作りになっていた。
片方の中からは、丸底フラスコっぽいビンに透明な液体。体力のエリクサーの方だ。
「[柔軟抱擁結界]」
ビンを引き出し切る前に、フェリクシアは空いた手で結界を宣言した。
ビンの周りに、ふわふわした綿あめの様な、それでいて透明感のあるモヤの様な、そんな結界が生じビンを包んでいる。
ちょっと動いて箱を正面から見てみると、家で使ったのとは違い引っかけの付いたガラス棒が、箱の中に掛けられていた。
フェリクシアはテキパキと棒を取って光に透かし見たり、左手で結界を調整しながらビンのコルク栓? を取ったり。手際が相変わらず良い。
「ヒュー殿。口を開けて上を向いて頂けるか」
ヒューさんは黙って頷いて、池の鯉の様に上を向いて口を開いた。
フェリクシアがガラス棒をビンに入れ、ゆっくり引き上げる。スーッと滑る様な動きでガラス棒をヒューさんの口の上まで運び、最後に左手でトンとガラス棒に触れた。
透明な『一滴』が、ヒューさんの口の中に落ちた。
「飲み込まれよ。すぐマギ・エリクサーの方も行うので、また口を開いていてくれ」
栓の開いたビンの上にガラス棒を戻したフェリクシアが、またそこで柔軟抱擁結界を使う。
今度はガラス棒に使うようだ。ガラス棒の、フェリクシアが持っているところから先端に向けて、ゆっくり結界が進んでいき、小さな液体がポトンとビンの中に落ちた。
本当に一滴も無駄にしないんだな……フェリクシアに声を掛けたかったが、多分フェリクシアもかなり緊張も集中もしているだろうから、ただ見るだけに留めた。
ふたを閉め箱に再び収められてからは、また同じ様な流れでマギ・エリクサーがヒューさん口の中に落とされた。一瞬ヒューさんの顔にピクッと力が入ったのが見て取れた。
うん。自然そうなる位に、マギ・エリクサーは苦い。
これでヒューさんは、体力・魔法力の両面でもって全快のはずだ。
「ヒューさん。体調の方はどうですか」
「シューッヘ様。陛下から賜ったと伺いましたエリクサー2種、このわたしにまで用いて頂き、言葉もございません」
「いやそれは全然。ヒューさんこそ俺がこっちに来た時に、一ビン丸々使って俺の命を救ってくれたじゃないですか。それに比べれば全然。体調は?」
「既に効果が出た様で、先ほどまでの悪心も消え、大変スッキリしております。魔力の方も、最近感じたことのない程の充実を感じます」
「良かった、エリクサー類、両方ともしっかり効いてくれたみたいだ」
俺の口から思わず安堵の息が漏れる。
あのヒューさんが、あそこまで追い込まれるのだから、相当な消耗だったはずだ。
「エリクサー、それにマギ・エリクサーか。今回の文明の最大発明、僕も初めて見る」
魔王が、独り言よりは大きく、けれど会話するには小さな声で言った。
その魔王の方に向いてみると、フェリクシアの膝前に並べて置いてある、既に木の落とし扉が閉じた箱にじっと視線を向けていた。
「魔王様でも、エリクサーの類は見た事がないんですか? 魔族領の方がよっぽど進んでそうだから、人間の領地にあるものなら何でもあるかと思ってたんですが」
「うん……その考えは、確かに概ね合っている。実際僕ら魔族が『支配』という形で人間文明に関わっている時のものは全て、僕たちも持っている。けれど」
魔王がちょっと顔をうつむかせ、目を見開いて箱を見つめる。まさに熱視線だ。
「エリクサーは、僕が英雄に打ち負かされ、再び魔王位に座すまでの間に『いつの間にか』作られるようになったものだ。だから僕も知らないんだよ」
これまでのような軽い調子の口調ではない、静かで重いトーンの声音。
……これ、エリクサーよこせとか言われる流れか?
「英雄、交渉だ。回答は僕の馬が来るまでに。あと5分もないだろう。この秘薬霊薬のいずれか片方を、僕に譲ってくれないか」
やはりか。と、すかさず、
「魔王様、老体が口を挟む事をどうかお許しください。シューッヘ様」
ヒューさんが正しく跪き直して俺を強い視線で見た。
「エリクサー、マギ・エリクサー共に、人間世界の秘宝でございます。仮に魔族にその製法が奪われたならば、取り返しが付きませぬ」
「いやぁヒュー、そこまで警戒するのは分かるけれど、僕は単に、個人的研究の具材としてこれが欲しいって、ただそれだけだよ。複製しない事を約束しても良い」
「シューッヘ様……よくよくお考えの上、ご聡明なご判断を望みまする」
魔王があっけらかんと、けれど少しだけ冷たさのある視線でヒューさんを見て言った。
ヒューさんもそれにしっかり気付いて、なんだろうな。それ以上俺にどうこう言うでなく言葉を収めた。
やれやれ困ったな、エリクサーにマギ・エリクサー。金銭的価値が高いのは散々聞いているが、人間の秘宝、か。
仮に魔族の手に渡ってこれがコピーされた場合。しかも量産された場合かな、一番マズいのは。
例えば戦いになった時に、司令官が実質不死身になりかねない。ただでさえアンデッドなんてルール違反がいるのが魔族だ。それが無限に復活されたら、公平な戦いになんぞならない。
個人的研究の具材ってか。それをマトモに信じるのは、さすがにバカってもんだよな。
けれど、この魔王と話していると、何だかそのバカ話もあながち本当の様にすら思える。不思議なものだ、これが人徳とかそういうものなのか?
冷静に損得勘定をするとして、天秤の片側にどちらかのエリクサー。もう片側には何を乗せる?
「魔王様、仮にこのいずれか片方をお渡しするとして、こちらが受けられる恩恵はなんでしょう。交渉であるならば、対等な条件が必要です」
俺は精一杯冷静さを意識しながら言った。俺の言葉に、魔王の視線が幾らか煌めいた様にすら見えた。
「そうだね、ならローリスと魔族領との相互不可侵条約、通商条約に加え、向こう百年は最低、ローリスからの輸入品への関税を免除する。どうだろう?」
落ち着け俺。ここからは一言の間違い、1文字の違いですら、ニュアンスですら間違えば、それだけで不利になる。
「シューッヘ様!」
「ヒューさん。ここは俺に任せて欲しい。ヒューさんの望む回答にはならないかも知れないけれど」
魔王の誘いに応えた俺に、ヒューさんが慌てた様子で大きな声を上げた。分かっている、リスクが凄まじいのは、俺も分かる。
けれど、これはある意味で、千載一遇、という奴なのだろうと俺は思う。本来なら魔王に当てる駒なら陛下しか格が合わないが、それ以下の俺が今回のトップ会談の片側だ。
陛下がご会談されるとなれば、セッティングだけで数年掛かり、かつ凄まじい護衛の入った物々しい会談場で、冷え冷えとした空気の中行われることだろう。
が、今は状況はホットだ。魔王は既に条件を提示していて、更に引き出せる余地すらありそうで、俺の側は単にYESかNOかの二択。複雑性は無い。
とは言っても……
「恐れながら魔王様、ローリスは魔族支配の時代を経験したせいもあり、まともな輸出物が無いと言われています。
関税免除は、ありがたいと思える日は来るかも知れませんが、少なくとも今は。もちろんそれはあって欲しいですが、それで飲んだとしたならば、本国の偉い人達に俺が渋い顔をされます」
取りあえず各個撃破・引き出せるところまで引き出そう。




