第63話 唯一無二の賜りものに抱く思い
フェリクシアは、唐突に背中から一番長いナイフを取り出し、露を払う様にヒュンと音を立てて一度振った。
「ではご主人様、イフリートを連れ戻しに行ってくる」
「ああ。イフリートは、フェリクシアのものだ。昔の関係を切り飛ばしちゃえ!」
「ふふ、ご主人様がそこまで気合いを入れて下さるとは。ではな」
フェリクシアは右手のナイフを下げた位置で構えたまま、開きっぱなしになっていた扉から出て行った。
「……フェリク、ナイフ持ってったけど、どうするんだろ。イフリートを斬るのかなぁ」
「どうなんだろ。多分気合い入れた的な感じだと、俺は思ったんだけど」
「あのナイフ、凄い切れ味だから、うそっこで切り付けても腕が飛んでもおかしくないから、あたしちょっと心配」
「なんなら、覗き見してみる? いざ本当に斬りかかる様だったら、俺がイフリートに結界張る事も出来るし」
アリアはパッと俺の方に目線を向けて来た。結界でイフリートの『いざ』を守る、という案がヒットしたらしい。
とは言え、フェリクシアが本気で斬りかかったら、俺の結界はまず間に合わずにイフリートの腕なり首なり飛ぶだろうが、アリアには言えない。
俺は立ち上がって、馬車の出口に向かう。アリアもすぐ横に付いてくる。
出口から顔を出すと、そこまで遠くない距離に、魔王とイフリート、そしてフェリクシアがいた。
フェリクシアはナイフの切っ先をイフリートの眼前に向けて、何やら言葉を出している。
そのイフリートは、と見ると、今は魔王に背を向け、フェリクシアに正面向いて、片手を胸の前で横に構え、軽く頭を下げている。
切っ先鋭いナイフを向けられても動揺している様には見えない。フェリクシアの言葉はここまでは届かない。
と、背中を向けて立っていた魔王が不意に振り向いて、二人に声を掛けている様に見えた。
二人の視線は、一度は魔王の方を向いたが、すぐにまた二人が視線を交える状態に戻る。
緊迫した空気は感じるが、声も聞こえないし動きも殆どないから、何もしようが無い。
「ねぇ、シューッヘ。フェリク、あのまま斬り付ける気は無いみたいね」
「ん? 読心?」
「うん、イフリートの忠誠心を試したいみたい、方法考えてる」
馬車の中から首を出しながら言葉を交えた瞬間だった。
フェリクシアが一歩大きく飛び込んで、奥にいた魔王に向けて上段からナイフを振り下ろした。な、何! 何故魔王を?!
フェリクシアの一撃は、さも自然な様子で上げた魔王の手、2本の指でピタリと止められた。
真剣白刃取りなんて、和風ファンタジーだと思っていたが……魔王は豪速で降り掛かるナイフを、わずか指2本で止めてしまった。
魔王は、斬りかかられても尚表情がまるで崩れず、ニコニコしている。ナイフを指で押さえ込んだまま、フェリクシアに向けて口を開いている。
フェリクシアは、次の瞬間、ナイフを軌道逆戻しの様に引いて、背中に収めた。その後すぐ、魔王に真っ直ぐ向いて頭を深々と、ほぼ直角に下げた。
これは一体、何が起こっているんだろう……
「フェリクは、昔の主だった魔王に斬りかかったら、イフリートはそれを守ると思ってた。けれどイフリートは動かなかった」
「イフリートが魔王を守らず、もう主従関係に無い事を確認した感じ?」
「そんな感じかな。その過程で魔王に斬りかかった事を、今は何だか凄く難しい言葉で魔王に詫びてる」
「斬りかかられた魔王はどういう反応?」
「ごめんそっちは、見ようとすると……」
「ごめんアリア、俺の配慮が足りなかった」
そうだった、魔王の心を読もうとすると、酷い幻覚? を見せられるらしい。
あらゆる属性の魔法に耐性がある、と言っていた魔王だから、読心術魔法にも独特な耐性があるのだろう。
ここから見える範囲での魔王の表情は相変わらずの笑顔だ。
もっと近付けば細かい違いも分かると思うが、今ここで乱入するのは得策ではない。
フェリクシアが直角お辞儀を続けていたが、ふと更に柔和で優しそうな笑顔をフェリクシアに向けてから、馬車から離れる方向に歩き出した。
魔王と行動を共にしているヒューさんは、通り過ぎりにフェリクシアの顔をまじまじ見る様に顔を寄せたが、魔王の後を付いて歩いて行った。
二人がその場からいなくなると、フェリクシアはここからでも見える程に一度肩で息をしてから、こちらに振り返った。
いつもの様にスタスタと歩いてくる。そしてその後ろ、3歩くらい下がった位置に、イフリートが付き従っていた。
「フェリクシア、魔王に斬り掛かるのは、さすがにちょっと……」
「済まないご主人様。どうにもイフリートの言葉が口先ばかりに感じられてしまい、勢いで実力行使に出てしまった。わずか指先だけで、私の斬撃は止められてしまったが」
「我が主。主がもし魔王との決戦を望むのであれば、このイフリート、存在が消えるまで戦い続ける事を改めて誓う」
「いやあのねイフリート? 魔王は敵じゃないし、敵に回すつもりも無い。フェリクシアへの忠誠は良いんだけれど、魔王をダシに使わないでくれ」
「ダシ? に使う? それはどういう言葉であろうか」
あれ、ダシに使う、は通らないのか。女神様翻訳の力が落ちてるのかなぁ。
「別話で悪いんだけどフェリクシア、ローリスにしろ他の国にしろ、ダシを取る、って事は一般的にする?」
「しないな。この世界で一般的な『スープを作る工程』は、ご主人様から教えて頂いたダシ取りと似たようなものだが、ダシ、とも言わないし、表現として『ダシに使う』という言葉も無い」
「アレ? フェリクシアも『ダシに使う』は分からない感じ?」
フェリクシアの表情が、眉が、少しだけ困ってたのに気付けた。
「ああ。魔王を鍋で煮立てる話では無いのだろうから、何のことかはよく分からない」
女神様翻訳、万能だと思っていたけれど、文化差がある箇所だと格段に機能が落ちるな。
今は幸い、緊張しなきゃいけない相手、魔王も女神様もここにいないし、ヒューさんすらいないのでこんな雑談も出来る。
けれど何かの時に俺が慣用句的表現をつい使って、それが原因でミスコミュニケーションが起こる、というのは避けたいな。
「ダシに使う、って言葉、俺の使い方だと、誰かを利用して何かを達成しようとしたりする、って意味で使う。ダシ扱いされるのが利用される人、ね」
「料理用語が変わったところに転用されているのだな。まぁ所詮言葉など、その程度の重さのものだと私も思うが」
イフリートの謝罪や誓いの『言葉』を意識してるんだろうな、フェリクシアの言葉にどことなくトゲを感じる。
「フェリクシア、イフリートの『言葉』、信じてあげたら? 実際目の前で以前の主人が斬り掛かられても、俺には微動だにしていなかった様に見えたよ」
「うむ……私もよく分からないのだが、頭では、イフリートに罪はなくその言葉を信じるべきだと、そう分かっているんだ。だがどうにも、納得が出来ない」
ん、つまりアレか。理性的にはもうイフリートを信頼していても、感情とか気持ちの面で整理が付いていかない、と。
俺もそういうのは疎いからなぁ……女性の心の機微を理解出来る程、俺は女心への理解度が高くない。
「ねぇアリア、もしアリアだったらどうする? 頭では分かってても気持ちが付いていかない時とか」
「えっ? そうねぇ、やっぱり場合によるんだけど……フェリクシアの場合だったら、そのままでも良いのかなって」
「そのまま? イフリートを信頼出来ないままで?」
「信頼とはちょっと違うかな。フェリクが嫌がりそうだから細かくは言わないけど、気持ちの整理が付かないなら、無理に付けなくても良いってあたしは思うよ」
気持ちの整理が付かないならそのまんまでも? そういうものなのか?
俺は割と物事白黒付けがちな性格だと自分では思っているので、なんかこう、保留する、みたいなのはちょっと落ち着かない。
「フェリクシアとしてはどうなの? イフリートの事は許せない、みたいな感じなの?」
「許せない……少し違うな。私もいい言葉が見当たらずに気持ちが表せられず、困っている」
「シューッヘ、この話題まだ続けたいの? フェリクにあんまり良い話題じゃないと思うんだけど……」
「そ、そう? じゃあこの話題は辞め」
「いや。私もこのモヤモヤと言うか、自分の気持ちであるのに理解出来ないことの方が正直気分が良くない。奥様、手を煩わせて悪いのだが、私の心を覗いてくれないか? 奥様はどうも答えが分かっている様に感じる。奥様が私の心で見たものと、今考えておられる事と。私に教えて欲しい」
フェリクシアは至って真面目な口調でそう言った。フェリクシアにとっても、イフリートへの感情が上手く処理出来ないのは、気分が良くないらしい。
言われたアリアは、ちょっと軽い溜息の様に息を吐いて、一番近かったヒューさんが座っていたソファーに腰掛けた。
「じゃあ、見るわよ」
「ああ。頼む」
そう言って、『休め』の姿勢で構えているフェリクシアに、アリアが視線を向けた。
その表情。全く気乗りしていないのがよく分かる、渋い顔をしている。眉間にうっすらシワを寄せ、ダルそうに少し顎を上げて、フェリクシアを見ている。
「フェリク、あなたの心の中にある、一番モヤモヤしたのは、端的に言えば独占欲よ。イフリートを独り占めにしたい気持ちね」
「なっ、わ、私は別に、そんなことを考えたことは、これまでも一度も……」
「だから意識では分かってすらいないのよ。だけど、心の奥にはしっかりある。女神様から頂いた、『私だけのイフリート』。そんな、誇りと独占欲とが混じった鎖、イフリートを縛りたいってうごめく鎖が、フェリクの心の中で動いているわ」
「独占欲……」
フェリクシアは、そう呟いて自らの口元に手をやると、うつむき加減に沈黙した。




