第62話 イフリートと『ご主人様』
魔王が出て行くのを待っていたのか、それとも偶然そういうタイミングになったのか、魔王とヒューさんが外に出てから、フェリクシアは口を開いた。
「……我が眷属なる大精霊、イフリートよ。この場にその姿を、我らと同等の大きさで現し、我が主の命に従え」
フェリクシアが丁度俺の目の前辺りに展開した二重円の回転する魔法陣に、ハッキリした声を飛ばす。
魔法陣は次第に深い輝きを見せ、回転速度が上がっていく。回転がピークになると、魔法陣全体がフラッシュの様にまばゆく光った。
「お呼びにございますか、我が主」
「呼んだのは私だが膝を折るのはそちら向きだ、いい加減覚えろイフリート」
魔法陣の輝きが消えると、そこには変わらず真っ赤なボディに長髪の黒髪を後ろに一つ縛りしている大精霊、イフリートの姿があった。
フェリクシアの方を向いて召喚され、膝を付いていたのだが、即座にフェリクシアから指示が飛んで俺の方に向き直るイフリート。調教が厳しい。
「えーと、お久しぶり、イフリート。今日は俺にバフ掛けてもらう為に呼んでもらったんだ」
「バフ?」
どうもフェリクシアもそうだが、この世界ではバフとかデバフとかいう表現が無いらしい。
付与魔法とやらがあり、それらしい効果――野菜の鮮度見る目とか――もあるのに、言葉は無い。
ひょっとして別の言い方があったりするのかな。それにしちゃ、魔王文化にはバフって言葉があるらしいが。
「バフはつまり、魔法的な強化、かな? 乗せられるものなら効果はどんなものでも良いらしい、今回の条件は」
「バフというものを理解した。だがそのバフは、どのような目的で用いるのか。戦闘向けなのか、鍛冶などの生産に必要な熱を付与するのか」
「そこが実に何でも良いらしい。目的としては、『俺を盛ってくれ』と、ただそういう事になるかな。俺に能力が乗っかってるってところが大事っぽい」
「ふむ、承知した。シューッヘ様は、付与効果の相性問題と限界については、理解はおありか?」
付与効果の相性問題と限界?
んー……例えばアレか? 氷系の付与と炎系の付与を同時にすると、とんでもない消滅魔法を生んでしまうからヤバいとか。
ただ、そんなの想像の話でしかない。俺はイフリートの目を見据えて首を横に振った。
「端的に言葉で説明するのが、我には難しい。我が主、大変恐れ入るが、シューッヘ様にご説明を」
と、フェリクシアが頷いた。
「相性問題と言うのは、付与を複数重ねた場合に発生する、属性同士の相性だ。
極端な話、聖魔法と闇魔法の付与魔法を同時に受けると、それぞれがそれぞれの効果を減じてしまって、付与としての意味が無くなる。
イフリートは火属性と考えて良いだろうから、水と風、それから闇の系統の付与とは相性が良くない。同時付与は避けるべきだ。
一般論にはなるが、逆に相性が良いのは、土と光。それら以外の、聖魔法、密・疎・時空魔法とは、相互干渉しないとされている」
フェリクシアの話を聞いて最初に思ったのは、俺の属性、と勝手に思ってる『光』が、イフリートがくれそうなバフと良い方向に組めそうな事。
別に俺に光のバフが効いてるとか聞いた事もないけれど、いざ女神様の御力を使った時にバフがデバフに化けて足を引っ張るのは、個人的に嫌だ。
「もう……いないね、ふう。さっき、魔王が言い残してった事を聞くに、野菜の鮮度を見る目が上がるバフですら、俺に乗せたいらしい。ホントに何でも良いみたいで」
「待て。シューッヘ様、今、誰が言っていたと仰せに?」
「えっ? 魔王」
俺がそう口にすると、イフリートの赤みが少し引いた様に見えた。
いや気のせいなんだろうが。赤い肌なんだから、その色自体は変わりはしないはずだ。
「魔王陛下が……今、この近くに?」
「あれ? イフリートって、魔王と知り合いなの?」
俺の何気ない問いかけに、イフリートはその表情を強ばらせながら、ゆっくり頷いた。
「知り合いも何も。我をいにしえの遺跡より解放し、神の呪縛を解き放った尊き御方。そして、最初の主でもある」
なんと。
イフリートはこちら側の存在だと勝手に思っていたが、元々は魔族側の勢力だったのか。
俺はその事実に明らかに困惑してしまい、思わずフェリクシアを見た。
フェリクシアも初耳だったのだろう、俺ほどで無いにせよ驚いた顔をしていた。
「イフリート。今の主は私だが、元々の大主の様な相手がいたならば、そちらに膝を折るか?」
フェリクシアはいつの間にか腕組みをし、イフリートを見下ろす様に構えている。
手こそ腕組みで塞がっているが、少し殺気みたいな怖い雰囲気が漏れ出ているのが俺にでも分かる。返答次第ではイフリートの首が危なそうな……
「我が主。我はその時に仕える主人をただ一人、我が主としてお迎えする事にしている。故に、我が古き主に膝を折る事は無い」
「口ではそう言っているが、魔王の存在を聞いた時に明らかに血の気が引いていたぞ、イフリート。本当に私の側にいて良いのか?」
「我に二言は無い。主は一人、フェリクシア様ただお一人のみ。ただ……」
……ただ、なんだ?
口ごもる様に言葉を止めたイフリートは、言葉を選んでいるのか、はたまた決断しかねているのか、黙り込んだ上に明らかに迷っている表情を見せた。
大精霊も、あんな微妙な、複雑で悩ましげな表情をするんだな。それだけ微妙な感情も、大精霊にはあるって事なんだろう。
対してフェリクシアは、うん、やっぱり、今のイフリートの言葉を信じていないな。
腕組みしてる様に見えたが、手のひらが浮いてる。
瞬時の一手で、背中のミスリルナイフがイフリートの首を刈り取る……そんなポジション。
「どうしたイフリート。言いたい事があるのならばハッキリと口にしろ。これは命令だ」
「か、かしこまりました。我が主をないがしろにするつもりは決して無い事を前置いた上で、我が主に頼みたい事が一つだけある」
俺はフェリクシアの反応を待った。だがそのフェリクシアは、『構えずの構え』のまま、イフリートを気圧している。
「わ、我が主。お怒りを被るのを覚悟で申し上げる。ご無礼ながら、最初の主たる魔王陛下に、挨拶をさせてもらいたい」
「挨拶か。そのまま魔族側に寝返るのか? そのつもりならそのつもりで、ただ正直に言え」
「寝返るなど。我は精霊、嘘は好まぬ。お疑いであれば、我が主も共々にでも構わない」
「私は私でやるべきことがある。行きたいのなら勝手にすれば良い。外でヒュー殿というご老人と共にいるはずだ」
フェリクシアの声の表情が冷たい。
やっぱり、自分に属しているはずのイフリートが他者に、しかも昔の主人に気持ちが向いている、というのは、不愉快なのかな。
イフリートは膝を折った体勢から更に深くフェリクシアに礼をして、立ち上がった。相変わらずフェリクシアと同じくらいの、少し小柄な大精霊。
出て行くイフリートを目で追って、それから俺はフェリクシアに向いた。
「ねぇフェリクシア、良かったの? 寝返る・寝返らないより、その、フェリクシアのイフリート、だよね? フェリクシアの中では」
俺が言うと、フェリクシアは少し視線を落とした。
「イフリートは、私が女神様より賜った大精霊だ。だが、その存在自体を賜った訳ではない。あくまで呼び出すこと、それから、主である事。それだけだ」
フェリクシアの言葉に、俺はすぐには二の句が継げなかった。
フェリクシアは、強がっている。俺にすらそれがハッキリ分かる程、フェリクシアの視線は悲しげな色をしていた。
俺が言葉を紡げないでいると、俺の横で立っているアリアが少し前に出た。
「フェリク、いつもそんな大人な対応ばっかりしなくて、良いんだよ?」
「奥様、それはどういう意味だ。私は別に、大人な対応など……」
「それ自体も大人の対応しようとしてるよ。もっと自分に正直になって、ワガママになって、周り困らせても良いんだよ! 自分を殺して生きてちゃ、苦しいよ?!」
アリアが言うと妙に説得力がある。悪い意味では無く、アリアは気持ちに正直に生きるタイプの子だ。
そんなアリアでも、ギルド勤務時代はきっと、大人な対応ばかりしていたんだろう。だからその苦しさをよく知っている。
「奥様、ご心配痛み入る。私はあくまでメイドで、私が個人的な気持ちを持つ事は好ましくない」
「誰が決めたのそんなこと?! フェリクはフェリクよ、あたしたちの仲間で、同じシューッヘって人と結ばれてる、一人の人間だよ!」
「奥様はそう言ってくださるが、魔法師団にいた時も私はあくまで陰のような存在で、目立つことは苦手だった。表に出ない生き方の方が、私の性に合っているんだ」
フェリクシアは薄らとだが、微笑みを見せた。ぎこちなく、如何にも作った様な微笑みだった。
「フェリクっ、嘘吐くならもっと上手く吐こうよ! フェリクのホントの気持ち、絶対そこにないの、丸わかりだよ!」
「そ、そうなのか……? う、ううむ……」
間髪入れないアリアのツッコミで、フェリクシアは唸ったまま黙り込んでしまう。
俺が何か言って決め手になるとも思えないが、フェリクシアも俺の妻。俺も言うべきは言おう。
「俺がもしフェリクシアのことを、表に出したくない様に思っていたなら、俺はフェリクシアを妻になんてしなかったよ。俺は、完璧なメイドさんだけれどちょっと天然入ってるフェリクシアが好きなんだ。いつもの、フェリクシアが」
俺の言葉は、フェリクシアの気持ちに届いたようだ。俺が言い終えたと同じ様なタイミングで、フェリクシアが耳まで真っ赤になる。
「だから俺は、フェリクシアがしたい事を自由にすれば良いと思う。これは夫として、メイドの主人としての命令でもある。と、ここまで言わないと動いてくれないよね? フェリクシアって子は」
「ご主人様……私はご主人様、あなたが、私の特性を理解しその上で包み込んでくれるのがとても……嬉しい」
言葉の最後はうつむいて言うのでギリギリ聞き取れた範囲だったが、照れと嬉しさとが混じった言葉だったのはハッキリ分かった。
「フェリクシア。もしイフリートが魔王のところにいるのが気に喰わないなら、俺も一緒に殴り込みに行こうか?」
「いや、ご主人様のそのお気持ちだけで十分だ。これは私の問題。私が片を付けなければいけない話だ」
再び話し出したフェリクシアの言葉は、さっきまでの照れた声では無かった。
いつもよりももっと落ち着いていて、腰が据わった様な、重みのある声。決意の声とでも言えそうな程だ。




