第44話 逃げられていなかった逃避行
馬車はいつもよりゆっくりと、森の中の一本道をひたすら駆けていく。
外と御者台は恐らく焦げ臭いんだろうが、もう窓はぴっちり閉めてあり、客車内の空気は問題無い。
ただいつもと違い、馬車は少し揺れている。うっかりすると転びそうな程に、揺れている。
敵からの逃避行の真っ只中で、この程度の揺れで済んでいるのはまだマシな方か。
問題はその敵の行方だ。客車内から後方を確認する、簡単な手段は無い。
窓を開け首を出せば、前後は多少見える。首を木で打ち付けない程度には、しっかり森を削ってある。
問題は視野。後部連結の貨物車が邪魔になり、肝心の真後ろが見えない。
「さて……敵さんはどう出るか。森に切り開かれた一本道、その入口に古代魔法の罠。追ってくるかな」
俺は誰に言うでもなく呟いた。その呟きを、フェリクシアが拾う。
「森に入る直前ですら、後方に迫る相手はいなかった。フライス殿を疑うつもりは無いが、そこまで近接していたか、正直疑問だ」
「馬車の後方って、遮る物が何も無かったもんね。あの見通しだったら、かなりの距離でも見えるはずなんだけど……」
「うむ。馬車後方をくまなく見ていたが、敵兵どころか馬が蹴上げる砂埃さえ見られなかった」
「まさか『見えない敵』みたいな事は、さすがに無いだろうしなぁ……」
敵の正体がイマイチ分からない。急速接近する敵であれば、歩兵・騎兵・魔導兵と兵種を問わず、土埃くらいはどうしても上がる。
それ以外の……魔族原種に近い姿で、獣のように軽快に接近したとしても、抜群の見通しのせいで必ずフェリクシアに見えていたはずだ。
だが現実に、見えた敵というのはいない。
けれど、風の精霊は怯えているとフライスさんは言った。
精霊を怯えさせた相手は何だ? ナグルザム卿が直接・単騎で出陣でもしてきたか? それこそ空高い所とか。
ナグルザム卿の様な魔族の大魔導師であれば、フライの魔法くらい使えても不思議はない。古代の浮遊魔法だ。
あの魔法はコントロールがとても難しいが、もしそれであれば、土埃も無く急速に接近することは可能だ。
騎兵などの馬を警戒し、地面と水平な遠方を睨んでいたフェリクシアが、上空から接近していた相手を見逃した可能性は、ある。
仮にそうだとしたら……今の状況も決して安全とは言えない。
仮に敵が頭の上にいたと考えて、上空からの攻撃を阻止するか。
「古代魔法[魔法追従]。[可視光透過結界 俺の頭上5メートルの位置に、直径10メートルで展開]」
「む? 頭上に結界を?」
フェリクシアが片眉を寄せて首を少し傾げ、俺が天井に掲げた腕を見ている。
「前にも後ろにも、敵がいない。見えない敵でもない。としたら、上空かな、って」
「それは考えなかったな。言われれば、相手は種の多様な魔族。鳥形の魔族がいてもおかしくはない」
そうか。ナグルザム卿が魔法でもってすっ飛んでくる事をイメージしていたが、鳥の魔族が普通に飛んでくる可能性もある訳か。
「ただご主人様、結界魔法は基本的に展開したその場から動かない。先に唱えた古代魔法がそれを解消するのか?」
「うん。魔法追従は、その直後に使う魔法を、移動する自分と常に同じ動きで追従させる」
元々は、エルクレアまでの過酷な砂漠渡航の際に、環境調整魔法『アジャスト』を、常に俺を真ん中にして展開しようと思って覚えた魔法だ。
戦時で使うことは全く想定していなかったが、女神様の結界と合わせて使うと、『決して破れない・ズレない盾』を装備する様な事も出来る。
「一応、安全な範囲の光だけは通す結界にしておいたから、敵が上空にいたらそれも見える。向こうからも見えるんだけどね」
「そうか」
フェリクシアは納得したようで、頷きながら客車の前の方へと歩いて行く。
客車の一番前まで進んで、御者台につながる小窓を2度ノックし、開いた。
「フライス殿。前方・後方共に敵の心配はまず無い。問題は上空なのだが、その場所から上空に何かいるか、確認出来るか?」
「只今確認いたします。……ぬっ?! フェリクシア様、人らしき姿が、かなり高い所に浮かんでいます!」
「いたか。ご主人様の読み通りだ。ご主人様、人型の何かが上空にいる。上を陣取られるのは、戦術上良くない。馬車を停めて撃退すべきだ」
振り向いたフェリクシアが、正体不明の何かとの交戦を主張した。
撃退、か。最も大変なパターンで、ナグルザム卿の直接出陣かな。それ以外なら、敵にすらなるまい。
このメンバーなら、魔法の打ち合いで負けるとは思えないが、相手は魔王の片腕。油断は出来ない。
俺はヒューさん、アリアに目配せをする。それぞれ頷き、臨戦態勢と言わんばかりの険しい表情に変わった。
未だ開いている小窓に向けて、俺は大きな声を出した。
「馬車を速やかに減速し、停車! 上空の敵に対処します!」
「かしこまりました! 急速減速、衝撃にご注意下さい!」
フライスさんが応えるや、すぐに減速Gが強く掛かる。
退路を作ったつもりが、寧ろ移動出来る幅に制限のある不利な状況を作ってしまった。
上空の敵と、結界を挟んで対峙している間は安全かも知れないが、事実上前後にしか移動できないのはかなりマズい。
減速Gが止み、馬車が停車した。俺が扉へ向かうと、フェリクシアが内側のノブを操作して鍵を開け、扉を開放した。
俺は止まること無くそのまま地面に飛んで、すぐに上空に目をやった。朝の光に照らされている人型の何か。確かに居た。
見る限り、相当高い位置を陣取っている。朝日で完全に白飛び状態で、辛うじて見える程度だが、どうやら腕を組んで空中に仁王立ちしている。
相当な自信があるのか、それとも見物を決め込んでいるのか。あの位置から魔法を撃たれていたら、結界無しでは危なかった。
そうしている内に、仲間達も次々馬車から飛び出てきた。俺と同じく、一様に空を眺める。
「相手の位置が高すぎて、表情はおろか服装もよく分からないな……」
そこへ持ってきて、朝日がその人物の真横を照らす様に煌々と輝いている。非常に見えづらい。
「どうされる、ご主人様。こちらから魔法で先制するか?」
「いや、それは控えたい。あくまで相手に敵意があることが確認出来ない限り、こちらからの攻撃は避けたい」
少なくとも、今俺達は全員、俺を中心に10メートルの可視光透過結界の下にいる。
敵がどんなに早い魔法攻撃を仕掛けてきても、この範囲は絶対的な安全圏だ。
「では、どうされる。相手は、声も届くか分からない程の高度に静止している。更に言えば、街道からずっと追尾されていた可能性も高い。
それらの状況から敵意を認め、奥様の魔法かイフリートを呼ぶか、いずれにせよ強力な一撃をもって迎え撃つべきと考えるが」
フェリクシアが再び、先制攻撃による交戦開始を主張する。
だがここは、俺の理想論を優先させてもらう。俺は決めたんだ。理想の実現こそ俺の生きる道。
だから、たとえフェリクシアの、俺達に今存在するリスクを考えてくれての発言であっても、先制攻撃はしない。
「ううん、フェリクシア。先制攻撃はしない。相手は少なくとも、浮遊魔法を使っているから、魔族だろう。浮遊魔法は人間の手の打ちに無い古代魔法だから」
「浮遊魔法か。私も本で読んだ限りだが、基礎数が重すぎて発動すら厳しい。私が使えないのなら、ご主人様や奥様の様な例外は除けば、人間は浮遊魔法を使えない。つまり即ち、魔族である、という事か」
「そういう事。相手が魔族だと分かっている以上、警戒は必要だけれど、先制をしたら俺達パーティーは魔族との友好関係を築く事が出来なくなると、俺は思う。だから俺は、対話路線で行こうと考えてる」
とは言え、対話するにしてもこの位置関係のままでは文字通りお話しにならない。
相手に降りてきてもらうか、俺がフライで相手の高さまで至るか……
と、悩んでいると、ちょっとした動きがあった。上空の相手が髪の毛をかき上げたのか、銀色の、腰までありそうな長髪が広がりを見せた。
朝日に輝くそれはとても美しく、キラキラと輝いている様にさえ見えた。
「シューッヘ、どうするの? 戦わないなら、話し合いよね。相手に降りてきてくれる様に言う?」
一瞬目を奪われたが、アリアの声に正気付く。
「あっと……うーん、俺が相手の方へ行くのと相手に来てもらうのと。どっちが良いと思う?」
俺の横に来たアリアの問いに、俺は正直に迷いを言葉にした。
「あの魔族も、きっと凄い魔導師よね。ナグルザム卿とは背格好が違うし」
「そうだね、ナグルザム卿は腰が曲がった、もっと身長の低い人だった。上空のあの人は、背も結構あるし長髪だし」
俺自身が見えてて分かる範囲での、浮いてる相手の特徴を並べる。
逆に言うと、相手について分かっている事は、その程度しかないとも言える。
「シューッヘ様、フライの魔法はどの程度ご自由になりますか?」
「えっ? そうだなぁ……普通にああいう感じで浮いて止まる事も出来るし、魔力の掛け方次第では、高速で飛んでく事も出来ます」
「そうしましたら、シューッヘ様にはご負担かと思いますが、シューッヘ様が単騎にて敵の高度まで浮上、そこで相手の目的や素性をお調べになるのが良いかと」
ヒューさんは冷静な口調でそう言った。
俺がフライで上に上がる事は、特に負担でもなんでもない。ただ、交渉みたいな事になった時、上手く行くかは……正直不安しかない。
「フライで飛んで、相手に降りてきてもらいます? それともあくまで上空で?」
「上空の方が良いかと。至近に迫った際に馬や物資を狙い撃ちにされますと、森深くにいる今、生存自体が困難になり得ます」
なるほど。懐に飛び込んだら暴れた、みたいな事になると、人だけでなく馬も食料も『的』になってしまう訳か。
頭の上の結界が俺を追従してるから、これだけは位置固定の普通の結界に張り直して、それから飛ぶか。
フライの魔法は練習程度には使っていたが、まさか飛びながら誰かと話す事になるとは、正直思いも寄らなかった。




