第62話 半透明の女神様 ウロボロスの瞳の諸注意を伝えて下さる。
女神様のワンピースは、確かに俺が切り裂いたはずだった。胸元にも、赤い血が滲んでいたはず。
だが今目の前に現れた女神様の衣服は、全く乱れていなかった。血の跡も無い。
『幾ら存在を下げてたからって、地上の民に傷を付けられるなんて、どれ位ぶりかしら』
女神様はそう仰った。幸いと言って良いのか、その表情は厳しいものでは無かった。
ただ楽観できる程の柔和な表情と言う訳でも無く、感情はほとんど読み取れない。
「め、女神様……あの、お身体は、大丈夫でしたか」
俺は何を言って良いのか分からず、ともかく女神様の身体に傷を付けた事についてまず詫びる事にした。
俺の言葉に女神様は、ひょっとそのお手を御自身の肩に当てられ、小首を傾げられながら仰った。
『大丈夫に見える?』
「その、俺が付けてしまった傷は無い様に見えます。それ以外は……その、女神様が透けて見えるのは、よく分かりません」
直視していて良いのか分からず、俺は視線を切った。俺の足下には、分厚いふわふわ結界に包まれた、さなぎのアリアがいる。
俺以外のメンバーは、共に狭い穴の中で膝を折っていた。女神様が、二人にも見えている。つまり、そのお言葉も聞こえる状態な訳だ。
『まさかブラックホールを仕掛けてくるなんてね。私の想定を遙かに超える荒技よ、幾ら私でも重力の異常値には逆らえない』
「お言葉ですが……逆らえない、と仰せの割には、衣服も正常ですし、半透明ではありますが御姿もありますが……」
『何で半透明か、あんた分かる? これ、肉体じゃないのよ、精神体。要は意識を中核に魔法で構成した、偽の身体よ』
淡々と仰るそのお言葉に、俺はどう返答すれば良いのか更に分からないでいた。
そうですか、も違う気がするし、大変でしたね、は当事者の自分を引き離し過ぎだ。
ただ、何も言わないのも宜しくは無いと思ったので、勇気を持って一言差し込んでみた。
「災難でしたね」
『その災難を巻き起こしたのは誰だと思ってんのよ全く……身体を構成し直すのには、神力をかなり使うし』
「その……お身体って、ブラックホールで失われたんですか? 構成し直すって、作り直しって事ですよね」
『ええ、作り直しよ、あんたのせいでね。元の身体は完全に分解されたわ。取りあえず、薬酒、よこしなさい。人には勿体ない酒よ、あれは』
と、女神様が唐突に薬酒をご所望になられた。
俺はフェリクシアに目を向ける、すぐ頷いて動き出してくれた。
「女神様、飲んで行かれますか? それとも、お持ち帰りに?」
『飲んでくわ。マナが濃いこの屋敷の中の方が、身体の再構成には有利に働くしね』
そう話している内に、もう女神様の左足元に薬酒の酒瓶が静かに置かれる。置いたフェリクシアは数歩下がった所でまた跪いている。
『ありがと、フェリクシアちゃん。折角国王からもらったあんた達には悪いけれど、この姿のままだとマトモに力が出せないから、全部頂くわよ』
「はい、俺が飲んでも苦いばっかりですし、体調回復だったらエリクサーもまだあるんで、どうぞ」
『そう。じゃ遠慮無く全部頂くわね。本当に助かるわ、良い薬酒は神の力を補うのよ』
そう仰って瓶を持ち上げられ、蓋を外してそのままラッパ飲みなさった。一升瓶のラッパ飲み、豪快である。
しかも、息継ぎが無い。グビグビと喉を鳴らし、ずっと飲み続けている。半透明のお身体故に、液体が喉を通るのが見える。
と、不思議な事に、飲み進められるに従って、女神様のお身体の透明度が減り、向こうが透けては見えないくらいになった。
およそ半分を飲まれた時点で、女神様が酒瓶から口を離された。
『ぷはっ。ホント良い酒ねこれ。事態が事態じゃなかったら、1年間位掛けてゆっくり味わいたい位だわ』
「あれ? 玉座の間でお捧げしたのは、もう飲んじゃいました?」
『あー……美味しくて、つい全部いっちゃったわ。追加で漬けさせるにしても、時間掛かるだろうしなぁ……』
そう言うとまた、酒瓶をグイッと持ち上げてラッパ飲みなさる。薬酒はどんどん減っていき、ついには無くなった。
『ふはっ。ホント良い酒ね。今なら少しは……』
少しは、なんだろう、と考えている間に、女神様の身体がほのかに光り出した。
最初はお身体それ自体が服と共に発光している感じだったが、次第に光の粒子が女神様のお身体の周りを飛び交う様になった。
次第に眩しくて直視が難しくなっていく。既に女神様は街灯以上に眩く輝かれている。俺は手でひさしを作り、目を保護した。
光はある時に頂点を迎え、その後次第に収まっていった。手のひさしを外して拝見すると、そのお身体に透明さは無くなっていた。
『うん、薬酒のお陰で、身体の再構成が出来たわ。ここまでは期待してなかったんだけど、さすがね』
「女神様は、元通りですか?」
『ええ。神の実存は元々意識体の方にこそ比重があるから、肉体は"あれば良い"程度のものよ』
俺は文字通り胸をなで下ろした。幾ら疑似戦闘の最中だったからと言って、女神様のお身体を破壊するのは、やり過ぎだ。
ほっとすると、別の事が気になってくるもののようだ。俺は足下にあるさなぎを見て、女神様に言った。
「女神様、アリアがさなぎになりました。ヒューさんの言うには、再誕生する、らしいんですが……」
『ウロボロスの瞳ね。古代魔道具の中でも、とびきり曰く付きの代物、ヒューあんたよく手に入れたわね』
「はっ。シューッヘ様のご結婚祝いに相応しい品物をと、王宮の秘宝室にて選定致しました」
『ますますあんたがよく分からないわ。ローリスの秘宝室に自由に出入りして、自由に思ったままの物を持ってこられる。どれだけの地位よ一体』
「はは……わたしはあくまで、元職の元老院の長でございます。多少、陛下からお気に召して頂いている、その辺りでしょうか」
『多少、ね。まぁ良いわ。ウロボロスの瞳でさなぎになった人間は、わずか数日で生まれ直しをするわ。ただ……ヒュー、あんたウロボロスの瞳の副作用は、分かっててアリアちゃんに渡したの?』
「副作用、にございますか? 申し訳ございません、伝承にのみ残る魔道具故、細かい事は存じておりません」
ヒューさんが渋い顔で頭を下げる。
『まぁ……そうなるわよね。何せ1万年以上前の、魔導全盛期に狩ったウロボロスから作った魔道具。1万年も正確な伝承が残ってる方が不気味だわ。
まず最初に言っておくわ。ウロボロスの瞳での再誕生では、少し記憶や認知に混乱を来す事が多いわ。それをフォローするのは、シューッヘの役ね。
それから、再誕生直後は、人にも寄るけど言葉で呼び掛けても上手く通じない事があるわ。自分の安全も守れないし、排泄や食事も自分では出来ない事があるから、介護が必要。
ただそれはそこまで長い期間続かなくて、続いてせいぜい2週間くらい。それ位すれば、日常生活に復帰出来るくらいに回復するわ。優しく接してあげてね』
女神様が微笑みをたたえられながらご説明を下さった。要は、2週間は全然本調子じゃないし、介護レベルでのケアが必要、と。
21歳のアリアを介護する、って考えた事すら無かったが、アリアは一度死んだんだ。それを考えれば、介護ケアなんてどうって事ない。
『それと……ヒューに聞きたいんだけど、秘宝室でのウロボロスの瞳の扱いって、普通に置いてあったの? まさかとは思うけど』
女神様が視線をヒューさんに向けて問うた。ヒューさんは軽く身体ごとお辞儀をし、答えた。
「古代結界魔法で、多重に、厳重な封印が掛けられておりました」
ヒューさんの答えに、女神様がふうっと息を吐かれる。
『そうよね。よく封印解除出来たものね……ウロボロスの瞳が厳重に管理されてたのは、何も生死を超える品物だからってだけじゃないの。知ってる?』
視線はヒューさんに向いたまま。ヒューさんは顔を上げ、女神様と視線を合わせると、ゆっくり首を横に2度振った。
『はぁ、知らないのね。古代結界で封じる程の"意味"がある、って考えなかったの?』
「わたしの稚拙な考えでは、命をつなぎ止める希有な道具故に、と思っておりましたが、違いますか」
『違うわね。確かに命をつなぎ止める、実際には死んだ者を再生させる反則級の魔道具ではあるんだけど、"続き"があるのよそれ』
女神様は『続き』という言葉にはっきり重みを乗せて仰った。さすがに気になる。
「女神様、その『続き』って何があるんですか? 単に生き返るだけじゃない、と?」
『ええ、違うわ。魔神獣ウロボロスの魔力を受けて再誕生するんだから、新たな身体は元々の身体と違う、桁外れの魔力を保持するわ。
桁外れ具合は、復活する人間の素質にもよるけれど……軽く1,000倍は、確実に行くわね。魔法事故が起きないようにしないとね』
1,000倍、と聞いてもイマイチピンと来なかった俺だが、ヒューさんが目をひんむいて口をカッと開いている辺り、相当なんだろうと感じた。
「せ、1,000倍にございますか?! それは、本当に、誠でございますか?!」
『ええ。今までウロボロスの瞳で蘇った人間は4人見たけれど、最大で9,600倍だったかしらね。元の素質によるから、差は大きいわよ』
「ヒューさん、1,000倍の魔力になる、って、具体的に何が変わるんですか? 魔法攻撃が1,000倍の威力に、とか?」
「シューッヘ様、1,000倍の魔力があれば、シューッヘ様のお得意である古代魔法も含め、あらゆる魔法が力押しで行使可能です。しかもその威力は、1人で国を滅ぼせるだけの威力になります」
……アリアが、そんなとんでもない魔導師に? 何だかイマイチぴんと来ない。
ただ、女神様がウソや大げさを仰る事は無いだろうから、掛け値無しに「1,000倍」なんだろう、最低でも。
となると……うかつに魔法を使わせない様にしないと行けないかも知れない。軽い魔法のつもりが1,000倍の威力では、本人すら想定外の事故が起こる。
「あの、女神様。1,000倍の威力はあまりに危険なので、女神様の御力で封印するとかって出来ないですか?」
俺はここでも女神様に頼ってみる事にした。魔力を抑制する魔法なんて知らないし、1,000倍を1,000分の1する事など、人が出来る事ではないだろうし。
『魔力の封印自体は、出来なくは無いわ。けれど、魔族領に押し入るのであれば、1,000倍の力があったら寧ろ心強いんじゃない?』
「いえそう仰いますが女神様、俺としては出来れば魔族とは平和的に交渉したいんです。いやでも……確かに仰る通り、いざという時を考えると、1,000倍も欲しい、かも……」
『だったら、私の神グレードの魔法で、魔力を封印してあげる。あんたの短剣の反魔法が、神の魔法すら無効化するのは理解したわよね? つまり、そういう事』
「はっ! なるほど、常は封印をしておいて、いざとなったら俺が反魔法でその抑制魔法を破壊してしまえば……」
『そう。アリアちゃんは天下無双の最凶魔導師に化けるわ。1,000倍でも十分に破滅的だから、封印を解くのは本当に必要な時だけにしなさいね』
「あ、ありがとうございます女神様!!」
『あーそれと、さなぎを柔軟抱擁結界で包んでると、中が息出来なくて死んじゃうわよ? 涼しくて日の当たらない所にそのまま安置して、毎日声でも掛けてあげなさい』
言われて、急いで俺はさなぎを床の穴から持ち上げた。すぐフェリクシアが柔軟抱擁結界を解除してくれる。ごとん、とさなぎが床に落ちる。
「女神様、このさなぎ、簡単に割れたりはしませんか? 逆に、中からも出られないとか……」
『あんた心配性ねぇ。ウロボロスの外皮と同じ硬度だから、外からはミスリル鋼の剣でも傷つかないわよ。でも内側からは簡単に蹴破れるの。便利よね』
女神様のお言葉を聞いて安心した俺は、取りあえずリビングの端にさなぎを持っていった。
さすがアリアが一人分入ってるだけあってそれなりに重かったが、持てない程では無かった。
リビングの隅にさなぎを置いて、俺は額の汗を腕で拭った。




