第10話 い が ぐ り
アリアさんはウィッグを着けている。俺はその事実をすっかり忘れていた。
アリアさんのウィッグに不自然な点はまるで無かった。だから、どれだけ近付いても、一緒に寝ても、気付かなかった。
本当は気付いて欲しかった? それとも、あくまで気付かない振りをしていて欲しかった?
俺が今更どうこう言うのは、地雷を踏む行為なんだろうか。それとも、アリアさんの「我慢」を解放する行為なのか……
「あ、あれ?! シューッヘ君どうしたの、なんか突然目線が暗いよ?!」
「いや、その……」
「ご主人様。もし奥様に直接言いづらかったら、私が間に入るか? 役立つと保証は出来ないが、悩み込むよりは良いと思うが」
「そ、そうして欲しい」
俺がそう言うと、フェリクシアさんはアリアさんに目を向けた。アリアさんは少し不安げな様子で、頷いた。
「少し物理的にも距離を取ろう」
と、俺はフェリクシアさんに手を引かれて、目標の木からルートを外れ、近くの腰高の草が生えている所まで移動した。
「何がご主人様をそんなに怯えた目にさせているか知らないが、奥様に秘密にして欲しい事でも何でも聞くし、秘密は勿論守る。何でも言ってみて欲しい」
「その……実はアリアさん……」
俺は、アリアさんのウィッグについて話した。あの剃髪があったからこそアリアさんの覚悟もよく分かったし、剃髪からウィッグの流れはある意味必然だ。
けれど、女性としてウィッグでいる事はどう感じているのか。恥ずかしいのか、面倒なのか、それとも何とも思っていないのか。分からない、と。
また、あの屋敷で事実婚の夫婦になって以来、随分近くにアリアさんがいるが、俺はアリアさんのウィッグを全く忘れていた。シャワーの時も、そうだ。
そう言えばシャワーの時は、一緒に入る時でも、大体俺の髪も身体も洗ってくれて、涼んでてー、と俺が外に出てから自分で洗っていた。
それはひょっとして、ウィッグである事を隠したかった、と言うか、ウィッグ下の頭髪不揃いの状態を見せたくなかったとか……
俺はフェリクシアさんに、ともかく沸いてきてしまった心の澱を、思い浮かぶ限り全部話した。
フェリクシアさんは、真剣な眼差しで、俺の腰抜けな悩みも聞いていてくれた。
途中で一言も遮る事もなく、それでいて呆れる様な表情も無い。時折頷き、考える様な視線もして聞いてくれた。だから俺も安心して全てを話せた。
「と……俺が唐突に思い出して悩んじゃったのは、そういう事。デリケートな話題だけど、避け続けて良いものかも分からなくて」
俺の肩は既に自然とがっくり落ちていた。目線も地面しか捉えていない。溜息も自然と沸いてきて漏れる。
フェリクシアさんは、ふーむ、と一言言った後で、話し出した。
「確かにデリケートな話題ではある。女性の髪の毛には美の神が宿る、なんて迷信もある位だ。ローリスの女性は髪をあまり切りたがらないのも確かだ。
けれど、ご主人様から伺うに、奥様のアリア殿が髪を下ろされたのは、シューッヘ殿への忠誠を誓うため。となれば、剃髪後の髪の状態の話題は、
決してお二人の間であれば『禁忌』では無いと思う。もちろん唐突にその話題をされれば、奥様とて一瞬は戸惑われる事、まず間違いない。
ご主人様がどのようにお考えになるかにもよるが、辛辣な言い方をすれば、髪を下ろしたのはご主人様の為に、であるのだから、
他の誰でも無くご主人様が心を掛けてあげるのは、決して嫌な事にはならないと思う。もちろん言い様はあるぞ? その位は御自身の妻、何とか考えてくれ。
敢えて私から言うならば、あまりびくびく怯えながら聞くよりは、少しさっぱりと、当時の決意への感謝も思いつつ声がけするのが良いのではと、そう思う。
まあ……私の言葉が役に立ったかは分からないし、実践する・しないはご主人様の自由であるから、参考程度にしてくれると助かる」
フェリクシアさんはいつも通りの淡々とした調子で話してくれた。もしもフェリクシアさんが、批判めいた色合いを乗せて話してきたりしたら、きっと俺は酷く凹んでいただろう。
あくまでフェリクシアさんが思うアドバイス、という感じで伝えてくれたからこそ、俺の中でも得心がいく感覚があった。
切り出し方は難しいけれど、そう、そうなんだよ、俺の為に剃髪してくれたんだよな。
いきなり「ありがとう」では、実際の言葉遣いとしては変だけれど、本来の気持ちとしては、そこだ。
アリアさんが剃髪までして、目に見える形で覚悟を示してくれたからこそ、俺はアリアさんをどこまででも受け入れる、という覚悟を持てた。
あの剃髪は俺とアリアさんにとっては決定的なターニングポイントだったのに、その点にまだ俺は向き合ってはいない状態、と思える。
「……フェリクシアさん、ありがとう。まだ少し整理が付かないけど、とても参考になった。本当に、ありがとう」
「ご主人様のお役に立てたならば、幸いだ。さぁ、奥様がお待ちだ、とっとと立木の所まで行って、シートを広げて休憩としよう!」
フェリクシアさんが珍しくニコッと笑顔(と力強い握りこぶし)で、俺に言った。
俺も、概ねの覚悟は決まった。迷いが無くなるとこれだけ足取りは軽くなるんだな、サクサクと歩いてアリアさんの下に戻った。
「お帰り、シューッヘ君」
「ただいま、アリアさん。後で少し、二人で話したいんだけど、良い?」
「もちろんよ!」
「その為にはまず休憩場所に辿り着くのが先決だ。少し駆け足で行くぞ、着いてこられるかな?」
ニヤリ、とするフェリクシアさん。パッと駆け出し……たのだが、まるで本気を出していない。手をパタパタ広げながら、跳ねるように飛んで歩いている。
あのフェリクシアさんがこんな陽気な事をするんだな。寧ろそれの方に、俺はちょっとしたショックを受けた。悪いショックではないんだが……うん、ショックだ。
俺とアリアさんも小走りな感じで走る。片手にはリモージの瓶。今一度コルク栓を押してキツく締め直した。
と言うか、駆け出してみて分かったんだが、何だかステップがとても軽い。なんか、極端な話トランポリンの上を跳ねて進んでいる様な感覚だ。
少し気合いを入れるとアリアさんを置いてけぼりにしてしまいそうなので、あくまで足の回転はゆっくり、アリアさん合わせにしているが……
ワイバーンブーツの『飛翔』魔法は、ちょっと走る程度から効果が出る模様だ。これ全力疾走したら、どれ位のブーストが掛かるんだろうな。
「アリアさん、ちょっと先行って良い? 靴の性能試したいんだ」
「良いわよ、全力でね!」
俺は頷き、足下にぐっと力を籠めて全力で地を蹴った。
その瞬間であった。
俺は地面から少しだけ斜め上の角度で「素っ飛んだ」。矢でも射た様な軌道で、そして相当なスピードで、木に向けて飛んだ。
木が、みるみる迫ってくる。いやしかしこれ、止まれないんだが。どうする、どう……そうだ靴で止めよう。
俺は空中で身体を半ひねりして足を持ち上げ、木を蹴って止まる格好に構えた。まるでカンフーか少林寺拳法映画だ。
そして木に、足が当たったその瞬間、ドンと衝撃が来るかと思ってたら、来ない。マシュマロでも踏み潰したようにむにゅううっと木の直前で減速して、木にタッと足が当たった。
慌ててその足で木を押し蹴りして、木の近くに着地した。いやこれ心臓に悪いな、靴で着地すれば安全なのが分かったのは収穫だが、人間ロケットになるとは思っていなかった。
と、そこに俄然本気のダッシュで、マジな顔をしたフェリクシアさんが駆けてきた。見事にフェリクシアさんまでも追い越していた。
「ご主人様! 大丈夫か?! 怪我はしていないか!!」
「あ、うん、なんとか。靴で木を蹴れなかったら、多分大けがしてたと思うけど、上手く蹴れたから、大丈夫」
「シューッヘ君ーーっ!」
向こうの方からアリアさんも駆けてくる。ゆっくり……という訳では無く、アレが普通の「走り」だ。俺のはロケット。フェリクシアさんのは馬並み。
「し、シューッヘ君、はぁ、はぁ、だ、大丈夫だった? はぁ、す、凄い速度で、と、飛んでったけど、はぁ」
「アリアさんごめん、心配掛けちゃったね。走らせもしちゃって……取りあえずこの靴、とんでもない代物だってのはよく分かった。迂闊に走れん」
経過はどうあれ、休憩の目的地であった『立木の下』に、みんな集まった。アリアさんもフェリクシアさんも、駆けた後で顔は真っ赤だ。
しかし、ああも凄まじい吹っ飛び方をしても、リモージの瓶を落とさないだけの冷静さが俺の中にあるのな。俺としてはそれは以外だった。
フェリクシアさんがシートを広げて、ティーセットバックからカップとポットとボトルを出して、屋外ティーパーティーの始まり。
相変わらずアリアさんは温かい紅茶、俺は冷たい紅茶。フェリクシアさんはいつもと同じくアリアさんに出したポットの残りを飲んでいる。
「フェリクシアさん、飲みたいお茶、淹れていいんだよ? 茶葉代がそんなに高いって事はないでしょ?」
「まぁそうなんだが……メイドが自分のために、新たに茶葉をポットに入れるというのに抵抗があってな。私はこだわりはないから大丈夫だぞ」
「そう? それなら良いんだけど……」
「今日の1回目休憩のお菓子はスコーンだ。ジャムはあるが、良い小麦を使っているので、お勧めはまずそのまま食べて欲しい」
そう言ってフェリクシアさんが皿にそれぞれ2つ、イギリス発祥のスコーンにしか見えないお菓子を俺達に取り分けてくれた。
「どれどれ~、んっ、小麦の香りが香ばしくて、芳醇ね」
一口ほお張ったアリアさんが言う。
「そうか、良かった。スコーンは単純だからこそ、ごまかしがあまり利かないお菓子だからな。素材が命でもある」
俺もかぶりついてみる。日本で食べた事のあるスコーン同様、バラバラと細かく破片が砕けて落ちる。
もぐもぐもぐ。うん、美味しい小麦の香りだ。高級食パンとはまた違う方向の香りを感じる。砂糖が入ってるからかな?
「美味いね。地球にもほぼこれと同じお菓子があったけど、こんな当たりには出会えなかったなぁ」
「そのチキュウではあまり材料を厳選しなかったのかも知れないな。水と小麦、それだけで随分違うんだ」
なるほど。俺もスイーツ命みたいな人間では無かったので、食べたスコーンは『こだわりのない』単なるスコーンだったんだろう。
とか素焼きのままを推してるフェリクシアさんでも、スッとさりげなくジャムの小瓶を3つもそこに添える辺り、出来るメイドさんだとつくづく感じる。
その出来るメイドさんに、サポートしてもらったウィッグ問題。
そろそろ、切り出さないと、休憩時間も終わってしまう。が、頑張ろう。
「あ、あの、さ、アリアさん。スコーン食べてからで良いんだけど、少し二人で……」
「私が退席すれば良いだけの話だ。お菓子をゆっくり食べながら、肩の力を抜いて気軽に話すと良い。私はちょっと進行方向の斥候に行ってくる、20分ほどで戻る」
俺が「あっ」と言いかけた時には、既にフェリクシアさんは立ち上がって背中を向けて歩いて行っていた。
「フェリク、素早いわねぇ。ああでないと軍人さんは務まらないのかしら」
「ど、どうだろうね。平の軍人とフェリクシアさん比べるのは、ちょっと軍人さん全体が可哀想な気すらするけど」
俺は息を一つ、ふーっと吐いて、喉の渇きを感じたので冷茶を一口飲んで。それからアリアさんの方に向いた。
「アリアさん。俺、アリアさんの事で凄く重大な事を、ずっと忘れてたんだ。だからまず謝りたい」
「ん? 凄く重大な事? なんだろ、あんまり思い当たる節がないけど……」
「その……アリアさんが、あの日剃髪をして以来、ずっとウィッグを着けてる、って事……」
「あー何そんなこと?! シューッヘ君が気に病む事は全然無いよ、元々はあたしが信頼を傷つけたのが発端なんだし」
「発端はそうかも知れない。けれど、俺と一つ屋根の下に住む様になって、一緒にベッドに入ったりした時も、つい髪の匂い嗅いだり、髪がツヤツヤだねとか……ごめん、思い出してたら俺自身が辛くなってきた」
「やっぱりまだちょっと不安定だねシューッヘ君。ストレス抱えすぎだよ、ウィッグ、シューッヘ君が好きじゃないなら、取るよ? まだツクツンツンだけど」
「い、いや! そう言う事じゃなくて、ウィッグって着けてると暑いって聞くし、それなのに何の気遣いもして無くて、それどころかすっかり忘れてて、俺……」
「んー、じゃ、良い機会だから取っちゃおう! そうすれば、シューッヘ君の悩みの原因がなくなるし!」
と、唐突にアリアさんは自分の髪の毛を左右からガシッと掴んだ。
そのままグリグリと左右に捻りながら、上へと引っ張る。俺のオロオロする内心をよそに、アリアさんのウィッグは次第に剥がれていって……取れた。
アリアさんの地毛は、思ったより生えてきていた。少し救いだった。でも、髪型で言えばベリーショートより短い。ここまで短い髪型の名前は知らない。
「どう? いがぐりヘアー」
「そ、その……なんて言えば良いのか……俺のせいで」
「シューッヘ君、『俺のせいで』は禁止しまーす。あたしはあたしの意志で、剃髪を決めたの。だから、それはあたし自身の意志。そう言えば、尊重してくれる?」
「う、うん……」
俺の納得しきっていない様子を見てか、アリアさんは口元ニコッとキープのまま立ち上がり、胸に手をポンと当てた。
「シューッヘ君は、何も悪い事なんてしてないわ。あたしも、別に自分への罰のつもりで剃ってもらった訳じゃないの。
本当に、一生修道院でも仕方ない、酷い裏切りをあなたに対してしたなって思った。けじめ、かな。罰って言うより。それを形にしただけ。
あたしは元々髪に命賭けてる方ではないけど、そりゃ確かに最初ちょっとだけ抵抗はあったわ。けれど、シューッヘ君が私から受けた裏切りに比べれば、そんなの……
だからあの時、シューッヘ君があたしの事を受け入れてくれた事だけで、それで十分なの。それ以上に、ウィッグが不快とか汗ばむとか、些細な事なのよ」
アリアさんはふふっと、微笑ましい物を見ている様に小さく笑った。
「ウィッグ、今のは意外と性能良くて、あんまり蒸れないし、ヘルメットよりは暑くもないのよ。風も通るし、固定もしっかりしてて飛ぶ心配も無いの。
だから、生えそろうまでウィッグでいよーって思ってたけど、シューッヘ君が気にするんだったら、あたしその方が嫌だから、ウィッグ辞めるわ」
「で、でも、アリアさんそのヘアスタイルって、その……誰かから、陰口とか言われたりしない? 俺、それ言ってる人間許せる自信無いよ……」
「んー、いがぐりヘアーもあたし意外と好きよ? 頭の形がダイレクトに出るじゃない? あたし頭の形には自信あるからっ!」
「俺、どう言えば良いのか」
「何言っても、言わなくても、良いよ。あたしはあなたが好き。あなたは、いがぐりなあたしはもしかすると嫌いかも知れないけど、そのうち生えてくるし」
「いっ、いがぐりでも大丈夫ですっ」
「じゃ、問題ないじゃない? あなたが問題無くて、あたしも問題無い。そしたら、他人が何言っててもあたし気にしないもん。シューッヘ君も、気にしないでね?」
「……うん。」
「あー外でウィッグ取ると気持ち良いわねぇー、風がこんなにも地肌に気持ち良いって感覚、初めて味わうわ。シューッヘ君のおかげ、ありがと!」
「う、うん。その……いがぐりでも俺のアリアさんへの気持ちは変わらないから! その髪型のままでも良いから!」
「あはは、さすがにもう少しは伸ばしたいかなぁ。ボーイッシュって言えるくらいなのも、良いかも知れないわね。さっ、シューッヘ君」
と、アリアさんは自分の皿のスコーンに、小瓶からジャムを垂らして、俺の口元へと寄せてきた。
「はい、あーん」
俺は突然の事にちょっと面食らったが、そのスコーンにかじりついた。
「ちょっとした事で悩み込んじゃう、あたしの可愛いシューッヘ君。深く悩んじゃう前に、あたしなりフェリクなりに言うんだよ?
悩みを一人で抱え込んで、あなたがずっと苦しむ事ほど、あたしも苦しい事無いもん。悩むなら、私も入れて? 一緒に悩も?」
優しい笑顔のいがぐり頭なアリアさんが、俺に慈愛のまなざしでそう言った。
俺はもう言葉も無くて、ただ繰り返し頷くしかなかった。何度か頷いているうちに、俺の目からは涙が溢れた。
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