あの夏のかくれんぼ
蝉の声にまぎれて、どこか遠くから女の子の声が聞こえた。
もう、いい、かい……
すこし舌足らずな、その幼い声を聞いた瞬間。心臓を冷たい手で鷲掴みされたように、息が詰まった。
──あれは僕が小学校に入った年だから、ちょうど十年前のことになる。
今日と同じ暑い夏の日、僕は隣家に住む幼なじみ、ひなのちゃんと二人でかくれんぼをしていた。
ひとつ年下の彼女は向日葵みたいな黄色のワンピースがお気に入りで、三つ編みの似合う笑顔の可愛い女の子だ。
「ゆうくん、あーそぼ」
夏休みの間、毎日のように家の玄関に呼びに来る彼女のことを僕は、しかたなく、最大限めんどくさそうにしながら遊んであげていた。
けれど正直に言えば、彼女が呼びに来るのを心待ちにしていたし、内心では毎日が楽しくてしょうがなかった。
今にして思えば、きっとあれが僕の「初恋」なのだろう。
よく二人で遊んだのは家の近所、僕が生まれるより前に廃業した工場跡だ。正面はチェーンと立札で厳重に立ち入りを拒んでいたけれど、裏手側の細い路地からはあっさり敷地に入り込めたんだ。
そこにはドラム缶や廃材が無造作に散乱し、何に使うかよくわかない大きな機械も、錆まみれの怪獣みたいに鎮座していた。
子供の遊び場としては明らかに危険で、そのぶん強烈な魅力を放つその場所が、僕ら二人の秘密基地だった。
「もういいかーい?」
語尾にすこしだけ催促が混じり始めた、何度目かの「もういいかい」を聞き流しながら、その日の僕は新たなる会心の隠れ場所を発見していた。コンテナと機械の合間にぴったり体を収めながら、空に向けて大きく合図の言葉を送る。
「もーいーよっ!」
すると早速、ひなのちゃんの声が返ってきた。
「きゃー! オバケがきたよ、たすけて!」
いつものやつだ。これに驚いて飛び出したら最後、彼女は満面の笑顔で僕を指さしながら言うのだ。
「ゆうくん、みーつけた!」
だから今度こそ、僕は絶対に騙されるものかと心に決めていた。ひなのちゃんが何を言っても、隠れ場所からは一歩も出ないぞ、と。
「──だれ?」
しかし、聞こえてきたひなのちゃんの声は、すこし雰囲気が違っていた。
「いやっ、こないで!」
声が震えていて、まさに迫真の演技だ。思わず心配になってしまう自分を、僕は必死で抑えつける。
「ゆうくん! たすけてゆうくん!」
そして、声はぴたりと途切れた。替わりに何かごそごそする音が聞こえていたけれど、それもやがて止んで、いくら待ってみてもひなのちゃんは探しに来なかった。
もしかして、飽きて帰ってしまったのかも。もしかしたら、本当になにかあったのかも。
僕は隠れ場所から顔だけ出して、ひなのちゃんが工場の外壁に顔を伏せ十まで数えていたあたりの様子を伺った。
そこに、明らかにひなのちゃん以外の人影が見えた。くすんだ色のパーカーを着て、フードを目深にかぶった大人の男。真夏なのに、だ。
この場所で僕ら以外の誰か、しかも大人を見たのははじめてだったから、反射的に怒られると感じて顔をひっこめた。もしかしたらひなのちゃんは、この大人に叱られていたのかも知れない。
ドキドキしつつもう一度顔を出して覗くと、男は裏路地の方に立ち去っていくところだった。息を殺してその背中を見送ってから、安堵して隠れ場所を出ると、ひなのちゃんの居た方に向かう。
近づくにつれ、男がいた足元あたりに、寝転んだ黄色いワンピース姿が見えてきた。
「ひなのちゃん?」
呼んでも、返事はなかった。
日に焼けたコンクリの上に大の字で青空を見上げ、彼女は死んでいた。
──あれから十年。
犯人は、いまだ捕まっていない。重要参考人として浮上した男は、行方をくらましそれきりだ。
そうして僕の耳には、あの日から彼女の「もういいかい」が幻聴のようにこびりついて離れない。それはふとした時、どこからとなく耳に這い入って、僕の心臓を冷たくきゅっと締めあげる。
でも、僕はそれに一度も答えることはできなかった。「もういいよ」と口にしたら、どうなるんだろう。ひなのちゃんが、あの世から僕をつかまえにやって来るんじゃないのか?
そんな考えに取り憑かれ、どうしても恐ろしくてその言葉を口に出すことはできなかった。
もういい、かい
また、聞こえた。ただ、今日のそれはいつもと何かが違っていた。学校で補講を受けている間じゅう、断続的にずっと聞こえ続けていたから。
しかも、友人と別れ家路をひとり歩くうちにそれはすこしずつ明瞭さを増して、例の裏路地の入り口前を通りかかるころには、はっきりと僕の鼓膜を揺さぶっていた。
あの日以来、僕はいちどもその道に足を踏み入れたことはない。それどころか、前を通るときは必ず下を向いて、路地の奥、工場跡の方だけは絶対に見ないようにしていた。
──だけど。
もういぃ、かい
これまでで一番はっきり聞こえた。僕の足はそこ──路地の入口の前で、止まっていた。
もぉいぃ……かぁい……
間違いなく、道の奥から聞こえていた。恐怖なのか好奇心なのか罪悪感なのか、もうよくわからないぐちゃぐちゃの感情に突き動かされ、足元に落としていた視線をゆっくりと、そちらに向けていった。
路地のひび割れたアスファルトからは、ところどころ雑草が伸びている。事件のせいもあって、その細い道沿いには空き地と廃屋しかない。真昼なのになぜだかうす暗く見えるその道の先、そうちょうどあの工場の裏あたり。
──そこに入っていく人影が見えた。
背の高いパーカー姿と、そいつに手を引かれた小さな女の子。一瞬でよく見えなかったけれど、少女の背には三編みが揺れていた気もする。
あいつだ。あの男だ。間違いないとあの日の僕が必死に叫んでいた。
警察に連絡しようと取り出したスマホは、震える手から転げ落ちて、側溝の格子蓋の隙間に吸い込まれていった。周りに人通りはないし、下手に騒いで刺激してしまうのもまずい気がする。急がなきゃいけないのに、どうする、どうする、どうする。
脳裏には、あの日の天を見上げたまま動かないひなのちゃんの姿が浮かぶ。──駄目だ! それは絶対に繰り返させない!
次の瞬間。僕は裏路地に飛び込んでいた。
──なつかしい工場裏の敷地には、事件の後に「立入禁止」の札をぶら下げた有刺鉄線が張り巡らされたけど、とっくに錆びてちぎれて意味をなしていない。
僕は足元に転がっていた細い鉄パイプを拾い上げる。昔、よく剣に見立てて振り回していたものだ。
もう いい かい
声を頼りに奥へ進むと、すぐに男の後ろ姿が見えた。ちょうどあの日、僕が隠れ場所から見たのと同じあたりだ。そしてゆっくり近付いていくと、男の向こうには、工場の外壁に顔を伏せている小さな女の子の背中が見えてきた。
「もう、いい、かーい」
ずっと聞こえていたのは、彼女の声だった。黄色いワンピースと、三つ編みの。
「──ひなのちゃん」
驚きのあまり、思わず声が漏れた。聞いて男が振り返る。
「なんだ、おまえか」
パーカーのフードで顔はよく見えない。ただ口元をゆがめて、男は言った。
「なんだっけな、たしか……そうだ、ゆうくんだ。大きくなったな? また、見せて欲しいのか」
は? なにをいってるんだこいつは。こいつは、なにを、いって、るんだ。
………なにを……いって……
ああ……そうだ、思い出した。あの日の僕は、ずっと見ていたんだ。
こいつがひなのちゃんにした酷いことの一部始終を、隠れ場所から顔だけ出して僕は見ていた。こいつはその視線に気付いていたけど、ひなのちゃんがどんなに僕の名を呼んでも、僕はただ見ているだけだったから、そのままいやらしく笑いながらそれを続けた。
やがて、ひなのちゃんは何も言わなくなって──そして、男は立ち去って行った。
でも僕は、そのことを誰にも話せなかった。怖くて、後ろめたくて、自分が許せなくて、いつしか自分自身を守るために、記憶まで都合よく書き換えてしまっていた。
──僕はあの夏の日からずっと、隠れたままだったんだ。
「う……あ、あぁああァッ!」
気付くと僕は獣みたいに声を上げながら、鉄パイプを振りかざして男に襲いかかっていた。それは男の頭に直撃すると、半ばからぽっきり折れて地面に転がる。僕の剣は、とっくに錆びて朽ちていた。
「なんだよ。痛いじゃないか、ゆうくん」
そう言いながら男は、ゆらりと僕に体当たりしてきた。よろけて尻もちをついた僕を、見下ろしてあのときみたいにいやらしく笑う。その手には、刃の赤いナイフが握られていた。
「……あ……」
脇腹の辺りに、生ぬるいなにかの液体が溢れる感触。同時に激しい痛みが襲ってきて、確かめようと触れた手のひらは、ナイフと同じ赤に染まっていた。
「もう、いい、かい」
意識が朦朧としていく中で、ひなのちゃんの声だけがはっきりと聞こえた。
──ああ、そうか。これが僕の罰か。
「もういいよ……ひなのちゃん……」
僕の言葉を合図に、男の背後のひなのちゃんがゆっくりとこちらを振り向く。スローモーションな動きに伴って、彼女の小さな体はむくむくと大きくなっていく。愛らしい少女の見た目のままで、彼女は見上げるほどの巨体になっていた。
みーつーけーたー
重低音の声が空気を震わせる。
大きすぎて顔はよく見えなかったけど、口元は楽しそうに笑ってくれてたから、僕も嬉しくなった。笑い返したかったけど力が入らなくて、上手くできたかわからない。
「あ? 何を──」
異様な気配を感じたのだろう、振り向いたパーカー男の顔面を、彼女は巨大な右手でむんずと掴んで、そのまま熟れたトマトみたいにグチャリと握り潰していた。
──同時に、僕の意識は暗転した。
目覚めると、病院のベッドだった。横合いから、知った顔の看護士さんが覗き込んでくる。市内の総合病院──つまりここに勤務している僕の叔母さん。母の妹にあたるひとだ。
「姉さんたち、もうそろそろ来るよ」
窓の外は、真っ暗だった。
あの男は、他にも複数の事件の重要参考人として手配されながら、用心深く逃れ続けてきたという。
倒壊してきた機械の下敷きで顔を半ば潰されながら、奇跡的に即死を免れてしばらく生きつづけ、苦しみぬいて、僕が目覚める少し前に死んだそうだ。
奇跡的と言えば僕の方も、あと少しでも応急処置が遅れたら命が危うかったらしい。
「たまたま通りかかったひとが救急車を呼んでくれたから、助かったんだよ」
「……え……あんな場所で……?」
叔母さんの言葉に違和感を覚える。あの路地を通る人なんか居ないはずだ。そして、僕なんか助けなくて良かったのに、という気持ちも膨らんでいく。
「それが不思議な話でね、あんたと同じ年ぐらいの女の子が、路地の入口から必死に『たすけて!』って叫んでたんだって」
「え……」
「通報してくれた人は、その子を追いかけてあんたを見つけたみたい。でもその子、いつの間にか居なくなってたらしいの。探して、お礼しなくちゃね」
胸が、ざわつく。
「近所の子とかに心当たりない? 黄色いワンピースに三つ編みの似合う、すごく可愛い子だったみたいよ」
そのとき、耳もとで女の子の声が聞こえた。いつもより、すこし大人びた声が。
「ゆうくん。もう、いいよ」
──僕は、声をあげて泣いた。