第三皇妃の帰郷
草原の、今は亡き国々の話である。
黒い塔と呼ばれる町の外れに、旅の一行が幕屋を張った。
一行は、貴人の輿を中心に、侍女が五人、執事が五人、執事長が一人。
それを三十名ばかりの兵士が取り囲む形で野営の陣となしている。
「主さまは、何ゆえに町に入られないのです」
若い兵士が上司に聞いた。
「あの方は、この町にはお入りにはならない。
月明かりの下の、あの崩れた塔が見えるか。
あの塔に詣でるために、主さまは参られた。
しかし、あの塔が崩れたゆえに、主様はこの町に入る事ができぬ。
お前たちは、くれぐれも主さまの守りを解いてはならぬ。
決して、解いてはならぬ」
老兵の頬の傷が、月光の青い光に黒く浮かぶ。
「何ゆえでございます」
「あの方が、皇帝陛下のお慈悲ゆえに生きておいでだから」
若者は、中央の、その壮麗な刺繍と縫い取りに彩られた幕屋を見た。
縫い取りの蔓草の影がが淡く浮かぶ。
幕屋の中では、小さな灯火がたった一つしか点されていないようだ。
道中にあっても、若い兵士ごとき身分では、垣間見ることを許されぬ貴人の影が、幕屋の布に浮かび上がる。
寝台の上に座したまま、ずっと動く気配がない。
「主さまの事をお聞かせください」
「聞いてはならぬ。
このように静寂の場所では。
主さまのお耳に入れば、主さまは心安からず思われることであろう」
草原の覇者シグルトが、覇権をめぐり戦乱の絶えぬ諸国を配下となし、帝国を宣して五年が過ぎた。
第三皇妃ムセリは病を得て、ひと目故国をと望み、皇帝シグルトはそれを許した。
帝国の建立より二年後のことである。
商都バラルガは、シェギラ族の立てた小国であったが、シグルトの征服により一夜にして灰燼に帰し、商都の藩王は一族とともに殺された。
そしてただ一人残った姫を、妾妃として召した。
それが今の第三皇妃ムセリ。
シグルトの生き残った者たちが、ようやく再興したのが、黒き塔の町である。
落城の後、妾妃として帝都に送られる途上で何度も死を望んだが、ムセリの身の上を案じた藩王妃の意向を汲んで恥を呑んで投降した文官に、幾度となく制止された。
このような身の上は、ムセリばかりではない。シグルトの軍勢の配下となり、残された者たちの恭順を得るための人質として、王子、王女、族長の子らが帝都に召された。
皇帝の本隊と共に、バラルガから帝都にいたる旅路を同行するが、妾妃として召したというのに、一向にムセリの野営の幕屋に訪れることも、また、皇帝の幕屋に連れて行かれる事もない。
夜毎、簪を研ぎ澄まし、復讐の時を待つというのに。
皇帝の本隊は、第一皇妃も同行していた。
第一皇妃は姫将軍と呼ばれ、皇帝の幼馴染で勇猛果敢な女戦士である。
「第一皇妃のわれが印を下さねば、いかに皇帝とて子猫一匹、寝所に呼ぶことはできぬ」
不安におびえるムセリの幕屋を覗いた折に、姫将軍はからからと笑い、そう云った。
「そなたの心は今、憎しみと怯えで一杯であろう。
そのような者を寝所に許せば、陛下は命がいくらあっても足りるまい。
もっとも、今は、ガラ族の酒注ぎ女に夢中ゆえ、そなたの事などさっぱり忘れておろうぞ」
姫将軍は、またからから笑った。
「陛下と我等が憎いであろう。
だが、そなたが自らを憐れみ、自害すれば、われは自らの軍勢を率い、都の他に残った村々はおろか、そなたの国の全てを、ねずみ一匹残さずに焼き滅ぼしてやろう。
そなたの命、よもや自分の物とは思わぬがよい」
そう言い放つ目の哀しみに、ムセリの心は怯えを残しつつも、惹かれるものを抑えきれなかった。
「もとより、そなたはまだ小娘。
今少し娘らしい色気を纏わねば、陛下は見向きもせぬわ。
われもそのような非道の手助けはせぬゆえ、当分はゆっくり休め」
今は亡き母親にも似た、慈愛に満ちた声だった。
「どうした。
何故泣く。
……ああ、われとした事が。
そなたの国を討ち滅ぼした先陣の刃であるわれが恐ろしいのも無理はないな。
もう行く。
まだ陛下のお召しはないと、その事を告げに来ただけだから」
ムセリは席を立った姫将軍に、今しばらく居て欲しいと声をかけた自分に驚いた。
「さようか、そなたが許すなら。
われは男ばかりの中におるゆえ、女同士の蕭条とした語らいもたまには良いと思う。
まだ世間話とはゆかぬであろうがな」
結い上げた皇妃の髪には、皇妃の位を示す小さな冠が留めてある。薄く上品な打ち掛けを羽織り、中には草原の民の好んで着る立ち襟の装束を、織り模様の絹で仕立てたものを付けている。
普段は鎧か、男と同じような戦場の装束のままの姫将軍が、略式ながらも皇妃の装束をもってムセリの許に来たのだから、ムセリは帝国の宮廷の位のある者として尊重されているという事なのだろう。
「アーレンディラ皇妃様。
この憐れなる姫の幕屋に、わざわざのお運びの上、丁重なるお心遣いを賜り感謝致します」
ムセリは、躾の良い良家の子女にふさわしく姿勢を正し、低頭した。
滅ぼされた民と家族の事を思えば、とても頭など下げられぬ。
だが、姫将軍のその厳粛さと慈悲の同居する不思議な佇まいは、人の世の憎しみを超越して、ムセリの前に在った。
「心の痛みが消えぬ間は、われとそなたの二人の時は頭を下げずともよい。
公の席にては、立場をわきまえてもらわねばならぬが」
ムセリと、姫将軍の間に在るものの正体が分からずにいたが、ムセリは姫将軍に対して礼を欠く気持ちにはなれない。
「ならば、こうしよう。
ここに居るのは、昔のわれと今のわれ。
そなたはわれなのだから、自分自身に気など遣うな」
その言葉の優しさが、ムセリの心に深く染みた。
「陛下の事について、話しておかねばならぬ。
陛下は元々は、ただの牧童。
家畜を追い、星の天幕の下で眠るを生業とする、毛虫一匹殺せぬ優しい男。
その優しいが故に、剣を取らねばならなかった」
そして、姫将軍は語りはじめた。
始まりの日の出来事を。
「……われは遊牧の民の娘であった。
そう、そなたぐらいの頃に、われは一族の、あまり要領の良くない牧童のシグの手伝いに、ともに家畜を追う旅に出た。
もう子供ではなく娘に近いのだから、幕屋に籠もって女の仕事を覚えなければならない年頃だったが、われはこのとおりお転婆でな、まだるっこい織物など、とても覚える気にはならなかった。
シグとともに星を数え、家畜を数え、幾日旅したことかな。
行き会った年上の牧童に、南の草原は戦のおこる気配だから行くなと云われた。
だが、夏草の時期を過ぎていたから、南の草原に行かねば充分に草を与えることができない。
恐がりなシグは渋ったが、われはたらふく三日ほど草を喰わせて、急いて戻れば大丈夫だろうと無理を云った。
シグは途上、なんども帰ろうとしたが、われが、もっと良い草のある場所をと、どんどん群れを南に向けた。
そんな日々の事。
シグは迷った家畜を探しに行き、陽が西に傾きはじめても戻らなかった。
われはシグが迷わぬようにと、火をおこしてシグを待っていた。
遙か遠くに、大きな火事の煙が見えていて、それは戦火と思われた。
シグにも見えていれば、逃げた家畜などうち捨てて、帰路につくためじきに戻るはずだった。
待ちくたびれたわれは、いつの間にかうとうとしてしまってな」
姫将軍は、そこで一旦語りを止めた。
幕屋の外で控えた侍女を呼び入れ、酒を持ってこさせた。
「これからの話には、われもすこし勇気がいる。
古い話だが、その古い傷は今も癒えぬ」
姫将軍は酒を煽り、そしてムセリにも果実の砂糖漬けから作った温かい飲み物を差し出した。
その取り繕わぬ物腰と細々とした気配りには、鬼神のごとく怖れられる者と同じとは思えなかった。
「続けてよいか。
眠くなったら、横になるがよい。
そなたは私、咎めはせぬ」
夜の風の音が、ひゅうと聞こえた。
隙間から入った風で、灯火が煽られ、幕に映る影が揺らめいた。
「われは娘だというのに、隙ばかりでな。
その日も、遠くに戦場が見えるというのに、昼間の安堵からか、ついうとうととしてしまった。
ふと気がつけば、いずこより出てきた兵士らに囲まれて、われはそのうちの一人に組み敷かれておった。
あとは、詳しく語らぬでもわかるであろう。
われは、いくたりの者に慰みとなったか、覚えてもおらぬ。
ただ、とても痛く、苦しかった」
多くの言葉を費やさぬことが、その心と身体の傷の深さを知らしめた。
「泣いて叫んでも無駄だった。
あきらめて、ただ喉の奥から出てくる声を殺すこともできず、痛みの時が過ぎれば良いと、ただそれだけを願っていた。
気も失っておったのだろう。
突然、顔に血のかたまりが落ちてきた。
われを組み敷いていた者が倒れた。
シグが、われの上の男の首を刎ねていた。
取り囲んだ男どもが、さぁあっと引いていった。
そして男らはシグのほうに向かっていこうとしたが、置いておいたはずの武器もなく、乱れた装束では動きも取れず、次々とシグに切られていった。
シグはとても臆病だったが、臆病だったからこそ、一人で牧童を務めねばならぬので、剣の技だけは磨いておった。
むろん、人に振るうのは初めてのことであったろう。だが、われを思う一途な思いに、剣の神が答えたのか、大地の母が助けたのか、その時のシグは、まるで別の少年のようだった。
しかし、所詮は子供。
相手は本物の兵なのだから、戦いはじきにわれの居る場所から遠く引き離されて、われは兵士らの隠し陣まで連れてゆかれた。
この身はぼろくずになるまで手ひどく扱われ、もう役にたたぬと判れば陣の隅にうち捨てられた。
脚の間はいうに及ばず、胸も腰も傷つけられて、血も止まらぬので身体も寒く冷えていった。われは、もう死ぬのだと思った。
死ぬのだと思ったとき、暗がりで優しい腕に抱かれた。
シグは泣いて、われを抱きしめた。
そしてそのまま、我を抱き、馬にまたがり陣を離れた。
その馬の行き先から、怒濤のように騎馬が来る。
火矢を放ちながら行く騎馬兵の群れの中を、シグはわれをしっかりと抱き、泣きながら遡っていった」
いつの間にかムセリは、飲み物の冷めるのもわすれ、姫将軍の話を一心に聞いていた。
「シグはわれを助けるために、敵の将に隠し陣の場所を教えた。
それがハルグート族の長、今は第二皇妃の父であるジュラ将軍。
シグは、死にかけたわれを医師に診せるためジュラ将軍の軍に志願し、将軍はシグの功績を認め、正規の騎馬兵として取り立てた。
あれには、戦の才があったのだろう。
臆病ゆえに、用心深く策を練る。
だから、面白いように出世していった。
われは聞いた。
なぜ臆病者が、戦うのだと。
臆病だから、戦をなくすのだと返してきた。
国と国との境が無くなり、軍規を厳しくして略奪を戒め、われのような娘を二人と出したくないと。
ならば、王になるしかないではないか、と私は問うた。
王では足らぬと、シグは答えた。
われは、もうその時には傷は癒えていたが、女として役には立たない者となっていた。
だから男になって、シグを助けた。
臆病者が剣を、自ら振るわぬでもよいように。
そして、シグは、シグルトと名を改めた」
姫将軍は、話しながら盃を重ねたが、少しも酔った気配がない。
「だから、陛下もわれも、小娘を寝所に召したりなどはせぬし、許しもせぬ。
容姿を磨き、才を磨け。
陛下の御心にかなう日がきたら、われは皇妃の号を与え、そなたを寝所に送り出そう。
皇妃の故国は、誉れの地である。
他の地よりも遇されるべき地となろうゆえ、この度のことはひとまず許せ」
突然にその事に触れられて、ムセリの心は我に返った。
「かようにお優しい方々が、なぜ我が国を滅ぼしましたか」
ムセリはあまりに率直に、その事を口にした。
「帝国は恐ろしいものでなければならぬ。
刃向かえば、皆死ぬものと心得よと。
怖れが先に立てば、戦などするまえに、和議がかなうであろう。
そなたと故国の民には、まことに悪い事をした。
だが、国と国との境をなくすには、仕方のない事だから」
姫将軍の、深い悲しみのまなざしの意味を知った。
そしてお互いの間にあった、見えないものの意味も察した。
それでも自らの民が犠牲になった事には釈然とできず、ムセリは頭を垂れた自分を責めた。
やがてムセリは花開き、第三皇妃として皇帝の寝所に侍る時を迎えた。
姫将軍より贈られた品々の豪奢さは、第一皇妃こそふさわしく思えた。
あの日、姫将軍とムセリの間にあったもの。
昔のわれと、ムセリを呼んだ。ムセリは姫将軍の身代わりとして、皇帝の寝所に侍るのだと。
それは、姫将軍にとっては、娘としての自らと、シグの婚儀であった。
閨の帳の内側で、皇帝はムセリをか弱いひな鳥のように扱った。
話に聞く初夜の痛みをムセリは覚悟していたが、時を惜しまずゆっくりと開かれたつぼみは、ほんの暫しの時を耐えればよかった。やがて突き上げる悦びの波がはるかに勝り、ムセリを飲み込み、天高くへと押し上げた。
その日から、ムセリは心に修羅を抱えた。
皇妃となる前は、皇帝と、姫将軍に敬意と友愛をもっていた。
一方、二人に頭を下げる自らに対して、亡き父母と、滅ぼされた民に恥じねばならなかった。
皇妃となって以後は、その矛盾する心にさらなる矛盾が生まれた。
皇妃として、皇帝に丁重に慈しまれればそうされるほど、その慈しみの先が別にある事が悲しく、そして母のように優しい姫将軍に対しては、身代わりではない女として皇帝の寵を受けたい自分が申し訳なかった。
そしてムセリは心を病んだ。
病んで伏して後も、皇帝と姫将軍の優しさは変わらなかった。
やや加減が良い時に、姫将軍が印を押し皇帝の寝所へと召しの遣いを出しても、辞退の書を持ち帰らせた。
そのようにしても、本心では皇帝が恋しく、そして恋しく思う心が裏切りとも思え、そしてその二人の間で思いを一杯にしている自分の姿を、地の底より訪れる、亡き故国の者たちが責めているようか気がして怖かった。
ある日、ムセリはひとつ決意をした。
皇帝に、故国が今一度見たいと奏上した。
そして、第三皇妃ムセリは、今、黒き塔の町のすぐそばに居る。
「主さまは、まだお休みにならないのですか」
「地の底の、悲しい声を聞いておられるのだろう」
老兵と、若い兵士の、淡々とした問答はまだ続いている。
蕭々とした風の音を聞いたような気がした。
それより暫しの時間が過ぎた。
若い兵士はうとうとと居眠りをはじめ、老兵はたき火に木っ端をくべた。
ぼうっと燃え上がる炎に照らされ、白い影が二人の横を過ぎて行った。
だが、二人は気づかなかった。
あまりに静かに、その影が過ぎて行ったから。
明け方、女官が主の幕屋を覗いた。
部屋の片隅では、不寝番のはずの少女が眠るのみで、第三皇妃の姿はない。
野営の陣はにわかに騒がしくなった。
そして主が見つかったのは、陽が高く昇った頃だった。
黒い塔のその場所で、皇妃の装束は剥ぎ取られ、焼け残った梁に吊され揺れていた。
辱められた痕が残るその胸に淫婦の札を貼られ、髪を切られ、もうどこにも貴人の面影は無い。
生き残りの民に、国を滅ぼされた恨みを忘れた女として裁かれた、哀れな姿であった。
思い迷い自害すれば、細々と生き残った者たちまで滅ぼすと、姫将軍が宣したゆえの、ムセリの選択であった。
「われは、云うたぞ。
そなたが自らを憐れみ、自害すれば、われは自らの軍勢を率い、都の他に残った村々はおろか、そなたの国の全てを、ねずみ一匹残さずに焼き滅ぼしてやろう、と」
姫将軍は疾風のごとくに草原を駆け、ただちに黒い塔の町を焼き払った。
ムセリごと、跡形もなく。
そして二度焼かれた黒き塔とその町は、流砂の波に飲み込まれ、埋もれてしまった。