<第4話>三年前の、ある夏の日
七月七日、日曜日の朝――。
体力錬成と朝市での食料調達を兼ねたジョギングの帰り道。
いつものように走り抜けようとした森林公園のベンチで、彼女は不機嫌そうに缶ビールを飲んでいた。
俺が彼女を見たのは、その時が初めてだった。
最初は気にならなかったが、どうしても気になってしまい俺は足を止めた。
彼女はなぜかとても気を引く存在で、自然に視線が向いてしまった。
彼女は細い指で三五〇mlの缶ビールを開けると、まるで水でも飲むかのように一息で飲み干し、足下に空き缶を無造作に転がす。
それでも全く酔えないのか――手元のレジ袋から新しい缶を取り出しては、もの凄い勢いで飲み干していく。
そんな様子を眺めながら、俺は彼女に目を奪われていた。
微風に揺れる紅い長髪と、端正な顔立ちと思わせる輪郭。
ラフに着た大きめなTシャツでは隠せないほどに大きな胸。
惜しげもなく晒した白い素肌と、すらりとした長い足に似合うホットパンツ。
その上、腰のくびれは折れそうなほど細い。
ミラーシェードのスポーツサングラスで見えない目元。
女優のように強く醸し出されるミステリアスな雰囲気。
絶対に美人だろうなと思わせる、そんな存在感を纏う女性。
不機嫌そうに酒を呷る姿は、ただのヤケ酒にしか見えない。
ふと、我に返った。
不躾に赤の他人を注視しすぎた。
これで不審者呼ばわりされて、警察でも呼ばれては堪らない。
朝市で買った格安のトマトが入ったビニール袋も持ったまま。
これは今日の夕飯の一品だ。
遺族年金で暮らす俺にとって、ジョギングの帰り道に朝市に立ち寄るのは、ちょっとした気分転換の意味合いもあった。
やがて全て飲み干した彼女は、手首のスナップだけで空高く空き缶を投げた。
近くにゴミ箱はなく、目で追い続けると三〇メートル以上は離れているところにゴミ箱があった。
届くわけない――と思った直後。
緩やかな放物線を描いた空き缶は、定められていたように吸い込まれ、乾いた音をカラカラと立てた。
彼女が足下の空き缶を続けて投げると、それらは全てゴミ箱に収まった。
それを素直に凄ぇな。と思って、俺は彼女に見とれてた。
――投げ終わった直後、不意に彼女は俺の視線に気付いたようにこちらを向いた。
サングラスに阻まれて、その瞳は見えない。
だけど間違いなく、お互いの視線は深く絡み合っていた。
俺は、なぜか視線が逸らせなかった。
彼女も、なぜか逸らさなかった。
彼女は弾かれたように立ち上がり、戸惑っている俺の目の前へ向かって来た。
よくよく見れば、近付いてくる彼女は二十歳を超えているかどうか。
目の前に来た彼女は不意に手を伸ばしてきたが、それは俺に触れる直前で止まった。
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉とともその手は引き戻され、俺たちの間には静寂が訪れた。
「どうかしましたか?」
思い切って声を掛けたが返事はない。
無視されたかと思ったが、やがて彼女は無言でサングラスを外した。
彼女の澄み切った眼差しが俺を射貫く。
手を伸ばせば届く距離で、改めて彼女の顔を見た。
眉目秀麗な顔立ちは凜々しさを纏い、切れ長で輝くような瞳は内に秘めたる情熱を感じさせた。モデルのような小顔で高い等身と白磁のような肌、桜色の形の良い唇。ロングの紅い髪はストレートで、絹のように艶やかに朝日を浴びて輝いている。
綺麗だ。と、ただ、そう思った。
やがて彼女は意を決したように口を開いた。
「君の……そのトマト、私に一つ頂戴」
「……はい?」
我ながら恥ずかしいほどの間抜けな声が出た。
一瞬、何を言っているのか本当に理解できない。
――何を言っているんだ、この人は?
呆然とする俺を余所に、彼女は改めてお願いを口にした。
「そのトマト、一つ貰ってもいい?」
「えっと……あ……ど、どうぞ……」
初夏の早朝の公園。
買ったばかりのトマトを強請られる俺。
意味が分からない。
普段なら間違いなく断った。
絶対に断った。
だけど、この時の俺は――今にも泣き出しそうなほどに涙を浮かべていた彼女を見て、断る気にはなれなかった。
無意味に見栄を張って、買ったトマトの中で一番いいものを手渡すと――。
俺の右手はトマトごと、柔らかな両手に包まれていた。
「――ぁ、えッ!?」
戸惑う俺を気にもせず、彼女の淡い桜色の綺麗な唇が動く。
「ありがとう――」
「……ど、どういたしまして」
彼女の声を、鈴が鳴るような綺麗な音だと思った。
何秒経っただろうか――。
やがて彼女は俺から離れたが、途中その頬からは一筋の涙がこぼれ落ちた。
大事そうに――とても大切そうに、両手でトマトを持った彼女は小さな声で俺に囁いた。
「それじゃあ、また一年後――」
――それが、全ての合図だった。
風を切る音とともに、彼女を中心にして突如生まれた突風。
細いくびれに突如出現した大きな赤い翼。
その翼が大きく羽ばたく。
ふわりと宙に浮いた彼女は空高く舞い上がると、一瞬で見えなくなるほどの速さで飛んでいった。
「あの女性、戦乙女だったんだ――」
彼女が消えた、蒼い空を眺めながら呆然と呟く。
いつの間にか零れ落ちた涙には、暫く経ってから気が付いた。