終話:私の選ぶ道
まったくもって意識してのことではありませんでした。
気がつけば私は右手を拳の形に握りしめていて。そして、さらにはお義姉さまの頬に突き出していて。
えーと、はい。
時間がゆっくり流れているような感覚がありますが……私、もしかしてお義姉さまをグーで殴りつけましたかね?
呆然としている間に、きらめくものが視界に入りました。
崩れ落ちるお義姉さまを背景に、宙に浮いているものがあります。それは間違いなく懐中時計でした。私の大切な……多分、命よりも大切な懐中時計。朝宮さまの下さった懐中時計。
グーが開かれます。あとは、私に似合わず華麗でした。お義姉さまを殴ったその手で、私はパシッと宙の懐中時計をつかみ取るのでした。
……ふふふ、勝った。
みたいな気分が一瞬あったのですが、えーと、そ、そんな感慨はともあれです。本当、ともあれです。私は本当、勝ったなんて気分どころではありませんでした。
猛烈に湧き上がるものがあったのです。今までずっと押し込めたものが一挙に湧き上がってきたような。頭は焼けるように熱くて、胸の鼓動は痛いほどで。そして、そこにある感情は出口を求めているようで。声として解放されることを望んでいるようで。
呆然と私を見上げているお義姉さまが目に入ります。それが契機となりました。
「わ、私は嫌だった!!」
あとはもう、私には止めようがありませんでした。
「嫌だった……本当に嫌だった! こんなの嫌だった!! 貴女の言うとおりになんて嫌だった! だいっ嫌いだった! 貴女なんて顔も見たくないぐらいにだい嫌いだった!!」
「さ、咲江……?」
「……何もかも嫌だった。貴女だって、お父様だって、他の使用人だって。嫌いだった、こんな所本当に嫌だった。絶対に違った。私の居場所は……私がいたい所は……絶対に違う!! 私がいたいのは、こんな所なんかじゃない!!」
何を叫んでいたのかは正直覚えていませんでした。
ただただ、自らの喉の痛みと息の荒さを自覚することになります。そんな私をお義姉さまは唖然と見上げておられたのですが、不意に嘲笑を浮かべられました。
「急に叫び出して何かと思ったけど……だから何? こんな所にいたくないって、じゃあどこに行きたいの? まさか朝宮のお屋敷? ははは、馬鹿みたい。覚えてないの? その朝宮さまは貴女を引き止めもしなかったのよ?」
冷水を浴びせられたような気分でした。
当然、私の頭にあるのはお屋敷と言うよりは朝宮様当人なのですが、本当お義姉さまの言うとおりでした。そうです。あの方は、私を引き止められはしなかったのです。
……ふーむ、良い助言をいただきましたね。私はお義姉さまに軽く頭を下げることになります。
「ありがとうございます。確かにその通りでしたね。では、私はこれで」
「は、は? どこ行くのよ! 咲江!」
歩き始めた私ですが、その目的地は当然朝宮家のお屋敷となります。しかし、ふむ。素晴らしい助言でしたね。そうです、そこを考えなければいけません。
昨日のやりとりが原因でしょうが、朝宮さまの中では私は引き止める価値の無い女になってしまったようなのです。
なんとか挽回しないといけないのです。難題のような気はしますが、そこはなんとか。
朝宮さまには迷惑かもしれませんがね。でも、なんとか出戻りからの嫁入りを目指させていただきましょう。なんと言っても、そりゃあれです。私が居たい場所は、あの方の隣以外に無いのですから。
と言うことで、とにかくこの部屋を後にすることにします。気合を入れる意味もありまして、パーン! と障子戸を私は引き開け……はい?
歩みを止めることになりました。
なんか変なものが見えます。すぐ足元なのですがね、廊下の木張りの床に、身を震わせる茶色い毛玉が見えるような。
それはクリクリ目玉の目立つ小さな頭を、私に向かってペコリと下げてきました。
「……ど、どうも」
まぁ、間違いないでしょう。
そこにおられたのは朝宮さまでした。たぬき姿の朝宮さまであり……あ、そう言えば背後にはお義姉さまが。
廊下に出た私は、障子戸をピシャリと示させてもらいます。すると、朝宮さまは再びペコリとお辞儀を見せられました。
「ご、ご配慮いただけたようで……」
いえいえお気になさらずと私は首を左右にさせていただくのですが……う、うーむ。
会いたかった方ではありました。
しかしですね、こうもヤブから棒に妙な登場をされるとですね。
「……えーと、私はどういう反応をしたらよろしいのでしょうか?」
尋ねさせていただきますと、朝宮さまは「は、ははは」なんて愛想笑いっぽいものを見せられます。
「そ、それはうーん、僕にも分かりかねる部分はあるけど」
「左様ですか。ともあれ疑問が多くて頭が痛いのですが」
「か、かもね。どうぞ、お聞きいただければ」
では甘えてさせていただくとしましょう。私は思いついた疑問をとにかく口に出します。
「こんな所におられるとは思いませんでしたが、あの、いつから?」
「あー、殴打音が聞こえた時にはここに」
あらま、って感じでした。それはまた恥ずかしいところを聞かれてしまったようですが、ともあれです。
「そのお姿は? 何故、たぬきのお姿で?」
「いや、人間の姿で来ようとしたんだけどね? でも、久松の使用人に止められちゃって。仕方ないから、この姿で庭を回って入らせてもらったというか」
そして、その時の姿でここにおられたと。
理解しました。私は頷きを見せさせてもらうのですが、しかしあれですね。一番の疑問が解消されていませんね。
この方、何故こんなところにおられるのでしょうか?
要らない嫁を無事に追い出したはずのこの方のはずなのですが。まさか、次はお義姉さまをと訪ねていらっしゃった可能性が?
ふーむ、それはちょっと趣味が悪いような気はしますし、可能性としてもありませんかね。だとしたら、お義姉さまの家来的な使用人に追い出されることはないでしょうし。
ともあれです。
よく考えたら、私には質問攻めよりもすべきことがあるのでした。是非とも出戻りをさせていただきたいのです。でしたら私がすべきは、昨日の態度を謝罪させていただくこと意外には無いのです。
やはり、ここは土下座でしょうかね。
そう思って、私は腰を屈め、しかし、その最中でした。
「さ、咲江さん!! ごめん!! 本当に申し訳なかった!!」
私は目を丸くすることになります。
なんと言いましょうかね、毛玉が床に這いつくばっておられるのですが、これは……ど、土下座? 発言も考えれば、これは土下座的な行動で?
「あ、朝宮さま?」
「あ。ご、ごめん! 間違えた!」
何を? とか思っていますと、たぬきさんの姿は一瞬で掻き消えました。そこで現れたのが昨日の美男子さんです。その美男子さんは廊下の床に正座されていました。そして、額に汗した表情で私を見上げられまして。
「せ、誠意がね? たぬきの姿じゃ、誠意がなんか伝わらないよね? だからその……も、申し訳なかった!!」
朝宮さまは見事な土下座を披露されていて。私はどうにもこうにも、戸惑うしか無く。
「あ、あのー……えーと、あの、これは…… 」
「じょ、女中さんにも死ぬほど怒られたんだけど、あれはえーと、本当にね! 昨日のことがあって、君に嫌われたと思ってさ! 引き止めたかったんだけど、どうしても言葉が出なくて……いや、本当に君に愛想を尽かされても何もおかしくないけど……許してほしいっ!! どうかこの通り!!」
人間のお姿なんですけど、なんかちょっとたぬきっぽさがありますね。土下座姿もちょっと丸い気がしますね、ちょっと。
なんて呆然とあらぬことを考えている場合ではないのでした。これは……もしかして今朝についての謝罪なのでしょうか?
そして、その言葉の内容は……どうにも、嫌いな相手に向けるものでは無いように聞こえてならず。
「……私のことが嫌いになられたのではなかったのですか?」
「へ、へ? い、いやいやいや! なんで僕が君のことを嫌いにならなきゃならないのさ! むしろ、僕は一層自分のことが嫌いになったって言うか。度胸が死ぬほどなければ、昨日も本当に。無神経に君の問題に口を挟んでさ」
「え、えぇ? いえ、あの、わ、悪いのはどう考えても……」
「僕だよね! わ、分かってる。君が何も言わずに久松に連れ戻されたことからも分かってる。見下げ果てた男だよね、本当分かってる。でも、一応僕なりに誠意を見せようってことで、その……」
戸惑う私に対して、朝宮さまは土下座姿のままで一枚の紙を差し出されました。
目線は自然にその紙面を追うことになります。そこに書かれていたのは、
「お父様の名がありますが……これは?」
「覚書というか念書というか。君が屋敷を出てから、急いで久松のご当主にお会いしてきたんだよ」
「え? お父様にですか?」
「そう。正直、かなり怖かったけど……とにかく色々と話をしてさ。これを書いてもらった。久松家は今後、一切咲江さんの朝宮での生活に介入しないって内容。もっと言えば、君のお義姉さんは今後二度と咲江さんに関わらせないって」
私は大きく目を見開くことなりました。
「お、お父様がそんな念書を? え? お父様はお義姉さまを溺愛されているはずで……」
あの人が、こんな念書を認めるはずが無い。それが私の認識でした。
朝宮家は久松家から見れば格下でもありますから。これは偽物なのではって、正直そうも思ってしまうのですが、
「そこはまぁ、あの人はご当主だから。僕の専門は投資や土地の運用だけど、久松にとってそれなりの利益をもたらす助言をさせてもらったこともあればね。私情では書きたくなかったかもだけど、当主として譲歩してもらえたって感じかな」
なんとも上手く立回られたような感じでしょうか。とにかく、これは本物だとそういう話のようです。
朝宮さまはあらためて私を見上げられました。緊張しかない瞳で私を見つめられます。
「それで……ど、どうでしょうか? 僕は全力を尽くして朝宮が君にとって居心地の良い場所になるように尽くす。だから……戻ってきてはもらえないでしょうか? こ、この通り!!」
そうして朝宮さまは頭を下げられました。その姿は、土下座玄人の私が感心するほどに見事でしたが……って、い、いやいや。そんな妙な感慨を覚えている場合では無く、
「や、止めて下さい! そんな土下座なんていいですから!」
私は膝を突いて朝宮さまの背に手を添えることになります。早く顔を上げて下さいって行動でも伝えさせていただいたつもりだったのですが、朝宮さまは変わらず額を床に着けられたままです。
「いいわけが無いから!! 僕の気持ちを伝えるためにはもうこれしか!!」
「だ、だからいいんですってば! 早く顔を上げてく下さい。私にも話をさせて下さい!」
これでようやく顔を上げて下さったのでした。しかし、何でしょうね、この泣きそうなお顔は。私は思わず笑みを浮かべてしまいました。
「貴方は……本当に私を必要として下さっているのですね」
「そ、そりゃもちろん!! 君のいない屋敷なんて僕にはもう想像出来ないから!!」
正直なところです。
私は泣きたいほどに嬉しかったです。ただ……ここで頷いて解決なんて、そんなことをしたくはありませんでした。
「……したいようして欲しいと、昨日私に言って下さいましたよね?」
唐突な私の問いかけに、朝宮さまは大きく目を丸くされました。
「へ? それは確かに言ったと思うけど……」
「ですから、私はそうしたいと思います。居場所を求めたいと思います。私は……貴方の隣にこそいたいと、そう思っています。手を差し伸べていただいても?」
私の言いたいこと……いえ、したいことを理解していただいたようでした。
朝宮さまは頷かれた上で、手を差し伸べて下さいいました。
「君の望みが僕の望みであれば」
選んで下さいってことですね。自分と一緒に来るか否か、と。
しかし、なかなか気合が入りますねー。
流されるのでは無く、自分で進むべき道を選ぶというのはなかなか気力が入ります。ただ、これは私が心から望んだ道なので。
ためらいはもちろありませんでした。
私は朝宮さまの大きな手に、自らの手を重ねさせていただきました。