第19話:私の生き方
当然ですが、私を折檻するのにお義姉さまは素手なんてことはありません。
「……咲江、痛い?」
広い久松の本邸には、人気の遠い部屋なんてものがいくらでもあります。その中の一室です。
私は畳をなめるような体勢になっているのですが、それはもちろんです。我がお義姉さまと、その手にあるものによって得られた結果ですね。
お義姉さまの手にあったのは、なんと言いますか竹刀もどきです。よくしなってあまり手が痛くならないということでお義姉さまのお気に入りなのでした。
まぁ、もちろん私は全然痛いのですが。肩口から下を何度も叩かれてのこの有様ですが、痛みが頭に響きますねぇ。一度、乗馬用のムチで叩かれたことがありますが、それにはさすがに及ばないような似たようなものであるような。
「咲江? 私が聞いてるの。答えなさい」
そう言えば返答をしてませんでしたね。私はなんとか体を起こしながらに口を開きます。
「……はい。痛いです」
「そう、それは良かったわ。立ちなさい。早く」
言われるままに立ち上がります。
立ち上がりざまに再び殴られるかと思ったのですけどね。実際には違いました。手の届く距離において、お義姉さまは私を憎悪の目でにらみつけておられます。
「咲江。分かっているわよね?」
「はい。分かっております」
「……本当に分かってるの? 貴女は恥をかかせたの。妾の娘風情が、この私に恥をかかせたのよ? だから」
お義姉さまが手にある竹刀もどきを振り上げられるのですが、あーっと、ちょっと。この軌道はって、あ痛っ。
頭を横薙ぎにぱかーんと一撃でした。
体裁が悪いとかで、あまり目立つ傷はつけたがらないお義姉さまだったんですけどねぇ。よって完全に虚を突かれました。ちょっと立ってはいられずに、私は膝から崩れて畳と再会を果たすことになります。
そんな私をお義姉さまは見下されているようでした。その上で、竹刀もどきで畳を示されているようで。
「だから、謝りなさい。作法は分かるわよね? 分かっているわよね?」
それはもちろんです。
ここで土下座以外を選ぶのは素人です。もちろん玄人である私は土下座を作って、さらに額を畳に押し当てるのですが……うーむ。
ほーんと、まぁ、うーん。私の人生が戻ってきたって感じですねー。
後悔なんて何もありません。
だって、これが私の生き方なんですから。
飽きられた妾である母様と同じように生きるのです。全てを受け入れて、そのままに生きる。そう母様は生きて、死にました。そんな母様が哀れだったなんてそんなはずは無いのですから。そんな母様が不幸だったなんてそんなはずが無いんですから。
だから、この生き方が幸せなはずなんです。幸せな生き方でなければいけないんです。
ただ……ふふ。なんでしょうね、この感覚は。
鼻の奥がツーンとするような、この感覚は。なんとも、会いたいなぁなんて思っているような気がしますが……はてさて、私は誰に会いたいと思っているのやら。
「……いいわ。許して上げる。顔を上げなさい、咲江」
なんにせよ、折檻の時間は終わりのようです。なんて思ってしまった私は、けっこう勘が鈍っていたんでしょうねぇ。
顔を上げた瞬間に下から一撃が来ました。お義姉さまが思いっきり竹刀もどきを振りあげられた結果でしょう。
振り下ろされていたら死んでいたかもしれないですからね。お義姉さまの優しさには涙、涙でした。心中だけの話ではありません。どうやら私の痛覚もちょいと休暇をはさみすぎて元気になっていたようで。痛みがひどくて、こう思わずですね、思わず。
ただ、それによってお義姉さまを喜ばせることには成功したみたいです。
「……ふふふ。その顔は久しぶりに見たわね。良いわ、本当に許してあげる。また明日から朝食を作りなさい。期待してるわよ、咲江」
お義姉さまの優しさに、涙の止まらない私でした。まぁ、もちろん痛みが原因ではありましたが、ともあれここで行動を間違えてはいけません。
「お義姉さま、ありがとうございます」
再びの土下座です。これでお義姉さまにもきっと満足していただけることでしょう。
「あら?」
ただ、私の耳に届いたのはお義姉さまの不思議の声でした。
「なにこれ? 懐中時計?」
思わず顔を上げます。お義姉さまの視線を追えば、それは私のすぐ横にありました。
銀色に光る懐中時計。
なんでここに? なんて思うわけです。未練がましく持ち出した覚えはないのですが、よく考えればここのところ欠かさず持ち歩いていましたので。
自然と久松に持ち込んでいたのでしょう。そして、お義姉さまの一撃の衝撃で、懐からこぼれ落ちることになったと。
なんとなく嫌な予感がしました。
お義姉さまはそれを見下されています。ほとんど無表情でしたが、それは不意ににこりとした笑みに変わりました。
「手グセの悪い娘。気づかれないように盗んでいたんだろうけど……これ、朝宮さまの物よね?」
私の物です。
なんて、返答をする間もありませんでした。早合点されたお義姉さまは、懐中時計の前にしゃがみこまれます。
「良いわ、黙っておいてあげるから。男物だけど……そうね。ふふふ。大事にしまっておこうかしら」
お義姉さまが上機嫌で私も嬉しいです。なんて気分にはなれませんでした。
「あ、あのっ!」
気がつけば声が出ていました。お義姉さまは不思議そうに首をかしげられます。
「なに? 何か言いたいことがあるの?」
私から声をかけるなんて珍事でもあれば、お義姉さまに怒気は無くただただ不思議そうでした。
そんなお義姉さまに私は……何か言いたいことがあって、でも、それは私の生き方とは違うものに間違いなくて。
私のことは気にしないことにされたみたいです。お義姉さまは懐中時計を拾われました。
「じゃあ、貴女は本邸の掃除でもしてなさいね」
そうしてお義姉さまは上機嫌に立ち上がられました。大事にしまっておくとおっしゃっていましたから、自室にでも戻られるのでしょう。
私は受けいれるだけですから。
土下座でお義姉さまを見送らせて……なんて……その……
「ま、待って下さいっ!」
叫んでいました。
すでに背を見せておられたお義姉さまは、いぶかしげに振り返られます。
「なに? 妾の娘が、私に何か言いたいことでもあるの?」
不快そうでもありました。鬱陶しいからしゃべるなと顔には書かれているようでもありました。
受け入れるべきなのでした。ただ、私はその、どうにも、
「そ、それは……その時計は……その……」
言葉が自然と湧いてでました。ただ、明瞭な言葉を作ることは出来ず、お義姉さまは苛立たしげな表情を見せられます。
「なんなのこの娘? この時計が何? よく分からないけど、これは私のなの。貴女が何か言えるものじゃないの? 分かってる?」
はい。もちろんです、お義姉さま。
そんな正解を口を出来ずに、私は首を左右にしていました。
だって、それは私のものなのです。
朝宮さまからの私への贈り物なのです。お礼にと下さった、私への贈り物です。私のためにと、朝宮さまが慌てて用意してくださった品物なのです。
なんにせよです。
私はすぐに不正解の代価を払うことになります。頬を痛みが襲えば、血の味が湧いてきて。正座をしきれずに姿勢を崩す私を、お義姉さまは冷え冷えとした目で見下ろされます。
「何を言いたいのか分からないけど、貴女自分の立場は分かってるの? もういいわ。明日を楽しみにしていなさい」
そうして、お義姉さまは再び私に背を向けられます。それに対して私は……気がつけば立ち上がっていました。
「ま、待って下さいっ! それは……その時計は……っ!」
追いすがります。
お義姉さまは振り返られました。その表情には明確な怒りがありました。
「黙りなさいっ! ちょっと留守にしてる間に忘れたみたいだけど、貴女は私の玩具なのっ! 黙って私に遊ばれていればいいのっ!」
そうです、その通りです。
私はお義姉さまの玩具です。それが、私が受け入れるべき運命です。
ただ……思い出されるのでした。
昨日のことを思い出します。朝宮さまがおっしゃっていましたっけね。私に、嫌なことは嫌として、したいことして欲しいなんて。
受け入れるだけなのです。
惰性で受け入れていくだけが私の人生です。母の人生です。幸せであるはずの道です。
ですが……私は何を望んでいるのでしょうか。何をしたいと思っているのでしょうか。
返事をしない私にしびれを切らしたようでした。お義姉さまは手にある竹刀もどきを振りあげられます。
「妾の娘風情が……思い知りなさいよっ!!」
言えることがあるとすれば、私は懐中時計を取り戻したいのです。そのためにも、ここで殴られて地を這うつもりはありませんでした。
だからこう、私の行動はそのためのものだったのでしょう。