アルデバラン創世
なぜ、竜と少女は引き離されたのか。
――いつまで、そうしていたのだろう。
夕暮れの丘に雷鳴が轟き、風が荒れはじめた。容赦のない雨が大地を洗い、地面が体を揺する。雷の降った木々や草は赤くめらめらと燃えた。
赤黒い闇のなか、ロウェナへと歩み寄る姿があった。
はじめ、それは年端もいかない子どもに見えた。しかし彼は豪奢な甲冑をまとい、黄金の燐光を放っていた。
(ヒト、ではない)
次に、ロウェナは少年の面差しに見覚えがあることに気づいた。
「……ギルバート」
訝しみながら口にした名に、少年は応えた。
「ミリオネア。これから私は、この星を滅ぼす」
「何を言っている……ふざけるな」
「ずっとふざけていたのは、お前たちだろ」
ギルバートは首を振った。
「私の名はアルデバラン。この星であり、この大陸であり、原初の竜だ」
ロウェナは首を振った。ギルバートが何を言っているのか理解できなかった。
かつて、創世神は小さな星をつくりだした。
空の囲いのなかを、一柱の竜が舞っていた。竜の名は雷を統べる者。鱗の黄金の輝きが海となり、海に落ちた影が大陸となった。アルデバランは水の力、地の力、風の力、火の力を使って大地を崩し、山や川を造り、雷の力で生命を産んだ。
妖魔、怪魔、獣の世界に、やがてヒトが顕れた。ヒトはアルデバランの持つ水、地、風、火、雷の神力を暴き、自在に扱った。創造と破壊の作用を併せ持つ大いなる力を手にしたヒトは、自然と超自然の恵みを恣にし、竜を怒らせた。アルデバランの怒りはあらゆる争いをヒトの間に生み、星の空は赤く染まった。
創世神はアルデバランの怒りを鎮めるため、創造と破壊の作用を併せ持つ大いなる神力を取上げ、四柱の竜に変えて地上に与えた。水の力からは黒い竜が、地の力からは黄の竜が、風の力からは白い竜が、火の力からは青い竜が生じた。殆どの神力を失ったアルデバランは、自らの影であった大陸に封じこめられ、自由に空を舞うことはなくなった。そして残った雷の力を、ヒトと竜の生きる世界を扶けることに使われた。
四柱の竜は大陸を四つの国に分け、率い、守り、導いて争いを終わらせた。ヒトは四柱の竜を守護竜と呼び崇拝した。
一方で、アルデバランはその名を大陸に残すのみとなり、【非存在】となった。アルデバランは新たに、左手で人と竜とを、右手で竜と世界とを繋ぐ役目を与えられ、星の均衡を保つ理となった。
少年の声が光の文字となり、ロウェナの脳裡を埋め尽くした。
「水のノーザンネイル、地のウェスタンテイル、風のエストホーン、火のサウザーウィング……これで奪われた力はすべて取り戻した」
「お前が、サウザーを殺すよう仕向けたのか?」
ざわ、とロウェナの襟足が浮き立った。感情が生き物のように全身を這い、心臓をなぶるように鼓動させた。
「私の一部だったものが私に還っただけだ。しかし、お前たちの言葉で表すならば、確かに殺した」
ロウェナは叫び、少年に斬りかかったが、電撃に弾かれた。
「すべての竜は元々一つの存在。故に、竜どうしで争うことはできない。だから私は竜騎士の制度を世に設けた。竜騎士とは竜を殺す力を与えられた者たちのこと。お前たちの正しい役割は竜を守ることではない、殺すことだ」
「ばかな」
ロウェナは吐き捨て、剣にすがって身を起こした。
「竜騎士は守護竜を命に代えて守る者だ!」
「形は違えど、お前たちは役目を果たした。竜にして竜騎士であるノーザンネイルをけしかけはしたが、3国の竜は皆、竜騎士を守るために死んでいった。ウェスタンテイルも、エストホーンも、サウザーウィングも」
「黙れ! その口でサウザーの名を語るな!」
ロウェナは立ち上がり、わななく腕で大剣を構えた。
「妄言には付き合わん! 我は竜騎士! 苦節の年月、愛する者たちと過ごした日々、サウザーウィング……貴様が何もかも蹂躙した! 決して赦さぬ!」
動かない骸を背に守り、ロウェナは少年と対峙した。
「お前が滅ぼした国々、お前が奪い去った数多の命。命を以て償え」
「お前が見ているのは【存在をかたどった幻影】に過ぎない。壊すことはおろか、触れることすらできはしない……私は非存在にして、神に等しき存在」
「必ず殺す。お前が何者であろうと殺す。お前が担う役目がいかに重要であっても、お前の奪ったアルデバランの命は、やり直しなどきかぬ」
まっすぐなロウェナの眼光を受け、少年は紫の目を細めた。
駆け出し、振り下ろした渾身の一撃は、再び無数の雷光によって阻まれた。雷はロウェナの体を包み、膨大な光の情景を映した。この世の始まりから今まで、すべてのアルデバランの記憶がそこにあった。
(ああ、サウザー)
星の記憶のなかで、サウザーウィングが笑っている。
(もう一度、取り戻せるのなら……私は何でもする)
光の断片へとのばした手を、小さな手が握り返した。
「お前は守護竜とともに【証の紋様】を失い、竜騎士ではなくなった。只人にこの雷には耐えられまい」
電流が駆け抜ける。指先から体の端々まで、鋭い痛みと痺れをともなう光が走って、ロウェナは黄金の燐光に包まれた。体の感覚が麻痺していく。
「私の命を食らい、私の力を使って安寧に暮らすお前たちが鬱陶しかった。私は、私を縛るすべてのものから解き放たれたい。自由になりたい」
――原初、空を舞ったあの日のように。
ややあって、少年はロウェナに尋ねた。
「このアルデバランに生きるすべての命は、私に返還されるべきもの。私がお前たちを滅ぼすことは罪なのか?」
ロウェナは朦朧としながら答えた。
「私たちは私たちの生を歩んできた。日々考え、悩み、他者と絆を結んで過ごしてきた……与えた命だから奪っても然りと言う、お前に少しでも私たちの心が汲めるか? 喜びが、悲しみが、怒りが、愛情が……解るか?」
少女の震える手が少年の首を掴んだ。死にかけた羽虫のささやかな抵抗に、少年は眉をひそめた。
ロウェナの乾いた唇が震える。
「お前が全てを奪うというのなら、私もお前から全てを奪おう」
「何ができるというのだ」
「何でもできるさ、愛する者のためなのだから」
微笑み、ロウェナはアルデバランを抱きしめた。
「私がお前を自由にしてやろう。その役目から解き放ってやろう。私が、お前の代わりになる……奪って、与える」
「ばかな」
アルデバランの放つ光は、ロウェナへと集束していった。
刹那――厳しい訓練、背中を預けあった信頼。朝まで飲み交わし、愛国と誇りに満ちた友情の日々――ギルバートとして、かすかにも存在していた日々がアルデバランの脳裡に過ぎった。幻のように過ぎ去っていく、確かに在った日々の面影に手をのばす。
初めからギルバートに生まれていたなら。アルデバランの儚い願いを汲むように、ロウェナはアルデバランから非存在の役目を引き継いだ。そして代わりに、ギルバートとしての【存在】を少年に与えた。
ずしりと体が地面に沈む。ギルバートは肺呼吸に喘ぎ、小さな手で地べたの草を握りしめた。
「これが、存在するということか」
その感涙は、白刃が金の鎧を貫き、溢れる鮮血とともに胸から飛び出してもなお続いた。
「これが、痛み。これが、熱。寒さ……」
安堵したように微笑み、ギルバートは血をあやして仰け反った。永遠の時を非存在として生きた孤独に比べれば、【存在】として命を終えることもまた、ギルバートにとっては無上の安息であった。
「これが、死。ああ、やっと」
ギルバートは地に斃れ、二度と起き上がらなかった。
金の鎧を貫き、少年の小さな胸に深々と牙を穿ったのは、白髪の少女。ギルバートを睨み、少女は体を震わせた。
「東風さま。皆……梓は仇を討ちました」
そのまま白髪の少女、梓は地面にどうと倒れて動かなくなった。ロウェナが首すじに触れてみると、まだ温かく、脈打っていた。
(生きている)
糸が切れた少女を背負うと、羽のように軽かった。背中に骨があたる。
ロウェナは長い時間をかけてサウザーウィングに別れを告げ、北へと歩き出した。