南の霹靂
北東の空に不気味な雲が漂いはじめた。
ミリオネアを筆頭に、騎士団は竜の丘を背にして布陣した。重々しい面持ちの仲間のもとへ早馬が駆けつける。
「周辺の民は、竜の丘以西に避難が完了しています」
騎士長ロドラスは頷き、大剣を掲げた。
「もはや残るは我が祖国のみ……命にかえて、南の国と民とを守護せよ!」
応、と勇ましい雄叫びをあげ、騎士たちは抜刀した。
暗雲と共に訪れた災厄は、すべてを蹂躙した。国土も、命も、騎士の誇りも。
「前線をこれ以上おし込まれるな! 谷の向こうは集落だ」
騎士の奮闘虚しく、黒竜はあらゆるものを凍てつかせ、尾のひと振りで、爪のひと掻きで粉々に砕いてしまった。初めは国境に布陣していた騎士団は、いくつかの集落を過ぎてだいぶ内地へと後退している。
しかし、黒竜は初めからひどい姿だった。角は欠け、翼は破れ、胴体には穴が穿たれていた。それでも居並ぶ騎士たちを続々となぎ倒し、砲弾の雨をまともに浴びながら進撃してきた。まるで痛みも死への恐怖も介さない虚ろな目は、抜け殻か操り人形のような魂の不在を思わせた。
「国を愛し、これを守る。故に我らは騎士である!」
劣勢のなか、騎士長ロドラスは鬨の声をあげ、単騎で黒竜に突進した。ミスリルの槍は黒竜の腕を穿ち、翼を破いたが、黒竜の進撃が止まることはない。続けざまにロドラスは槍を突き出すが、首元をかすめた槍の穂先から霜柱が走り、瞬きする間もなく馬ごと凍りついてしまった。
「騎士長!」
馬を失った者も、己の足で必死に駆けて黒竜に一矢報いようと抗った。騎士の数はすでに半分も残っていない。
「サミュエル、騎士長を」
「任せろ!」
サミュエルは馬を駆り、ロドラスの救出に向かう。黒竜は背を向けたまま大きく尾を薙ぎ、サミュエルは横殴りに吹き飛んだ。
「うっ」
短く唸り、サミュエルは凍ったロドラスに突っこんだ。馬の手綱を掴もうとも、体を捻ろうとも無駄だった。がしゃ、と無情な音が響く。
「騎士長! 騎士長!」
ロドラスは頭から血を流していたが、己の傷などどうでも良かった。砕け散った氷の山を前に、ただ叫ぶことしかできない己を呪った。
――こんなにもあっけなく。
「サミュエル、退け!」
彼の目に灯る復讐の炎を見たミリオネアは、抜刀し斜面を駆け下りた。だが、間に合わない。
「サミュエル! 退け!」
血を吐くほど鋭く怒鳴っても、忠誠の騎士は止まらない。
「国を愛し、これを守る! 故に我らは騎士である!」
サミュエルはロドラスの槍をとって黒竜に突進した。傷つき、折れた足で、サミュエルは不格好に走った。抱きかかえた槍を渾身の力で黒竜のわき腹に突き立てた。勢いはなく、わずかに竜の体に切っ先が刺さったのみ。
「うおお!」
「任せろ、サミュエル!」
そこに仲間たちが次々にとりつき、サミュエルの背中や槍をおし込んだ。
「止まれ! 止まれ!」
「もうやめてくれ! 俺たちの国から出て行け!」
口々に叫びながら、騎士たちは確実に黒竜の心臓へと、槍の穂先を迫らせる。
「「国を愛し、これを守る!! 故に我らは騎士である!!」」
ロドラスの言葉を大合唱し、騎士たちは臆さず竜に立ち向かった。そして、誰一人として戻らなかった。
ミリオネアの目前で、仲間たちは無情に凍りついていった。
「やめろ!!」
声の限りに叫び、ミリオネアは幅広の両手剣を振りかざした。竜の首を狙った一撃は、角で受けられた。ヒビだらけの片角は激しく軋んだが、ミリオネアを剣ごと跳ね飛ばし、嘲るように騎士たちを蹴散らした。
「ああ」
乱反射する光のかけらたち。そのひとつひとつに親しんだ名前があり、見慣れた顔があり、声があり、癖があり……ミリオネアはぐっと涙をこらえ、手近な馬に飛び乗って首を巡らせた。
(骨も拾ってやれない)
ミリオネアは唇を噛み、一路、竜の丘へと駆け出した。
竜は人民を護る守り神。決して、ヒトが戦って敵う相手ではない。
(人間とは、こんなにも無力なのか)
竜の丘を目前にして、馬は泡を噴いて倒れた。まだ息のある馬の首を叩いて労い、ミリオネアは這うように竜の丘へと走る。
(サウザーは戦えない。サウザーだけは守ってみせる。私のこの命で足りるなら……サウザーを逃がさなければ)
――小さな、赤ん坊だった。透明な卵から孵る時、内側からうまく殻を破れずに、二時間もかかって。魚をすりおろした食事も、ほんの少し舐めるだけで食べられなくて。それでも少しは成長したと思ったら、風邪を引いたり、怪我をしたり……弱い竜だ、と嘆かれ、落胆されることも多かった。
(それでも、あんなにも大きく……立派になって)
竜騎士となって共に歩み始めてから80年。竜にしては短いが、サウザーウィングにしては長く生きたほうだ。
――なぜ、生命線の話など。
あの小春日の丘でかわした会話を思い出し、ミリオネアは息をするのも忘れて走り抜いた。
「サウザー!」
青い、大きな翼。首をもたげてミリオネアを見つめるサウザーウィングの姿を見て、ほっと安堵の息をついたのも束の間。
背後の悪寒に振り返ると、穴の開いた翼を薄氷で包んだ黒竜が、痛々しい姿で地に降り立つところだった。
「我はサウザーウィングの騎士ミリオネア・マナージュ・ドラクリア! 守護竜に害なす者は排除する!」
ミリオネアは口上を述べ、幅広の両手剣を構え、災厄の前に立ちはだかった。
黒竜は顎を軋ませて口を開く。迫り来る冷気に神経を研ぎ澄ませたミリオネアは、消え入るような声を聞いた。
「こ、ろせ……」
竜の嘆きは凍てつく氷よりも冷たく、ミリオネアの胸に突き刺さった。
「ころし、て……くれ……」
「騎士さま、どうか」
一瞬、竜の悲痛な声にまじって少女の声が聞こえた気がした。
ためらったミリオネアは、氷の息吹に薙ぎ払われて宙を舞う。
「ミリィ!」
サウザーウィングは痩せた体で立ち上がり、吹き飛ばされたミリオネアを大きな翼で受けとめた。薄く氷の張った少女の体を、サウザーウィングは庇うように胸に抱いた。冷たい指先で薄氷を剥がし、温かな喉元の皮膚をおしつける。大きくゆっくりした鼓動がミリオネアを揺らした。
「ミリィ、お願いだ」
「サウザー、あなたは私が守る」
「お願いだから、傷つかないで。守らなくていいんだ」
ミリオネアは顔をしかめてサウザーウィングを振り仰いだ。青い目から、朝露のような涙が滴る。
「もういいよ。もういいんだ……これ以上、僕を守らなくていい」
「何を言って……」
すべてを黒竜の咆哮がかき消した。飛んでくる鋭利な氷のつぶてを、サウザーウィングは翼で受けてミリオネアを守った。
「サウザー!」
ミリオネアは悲鳴を上げたが、サウザーウィングは首を振り、大きな手で彼女を包みこんだ。
「わかって、ミリィ……」
翼の間から、黒竜が足を引きずりながら向かってくるのが見えた。
「わからない。私にはわからない!」
ミリオネアは叫び、サウザーウィングの手をすり抜けた。両手剣を下段に構え、一足飛びに間合いをつめる。利き足を軸に旋回し、遠心力をのせた一撃を黒竜のすねにたたき込んだ。
黒竜は鋭い悲鳴をあげた。ミスリルの剣は頑強な竜燐と擦れ、火花を散らす。只人の力であれば押し負けて弾かれるであろう白刃は、逆巻く風をまとって徐々に鱗の抵抗を押し返していった。
「うおおおお!!」
ミリオネアの檄とともに、白刃は黒竜の肉に沈んだ。黒竜は血しぶきを散らしてたたらを踏む。黒竜が片膝をつくと、ミリオネアは後ろへ跳び退った。
再び駆け出そうとしたミリオネアは、行く手を氷の槍に阻まれた。牢のように取り囲む槍に、ミリオネアは力の限り剣戟を食らわせる。ヒビは入るものの、冷気によってすぐに補修されてしまう。それでも抗い、ミリオネアは氷の牢に渾身の一撃を見舞った。槍は軋み、カシャンと儚い音を立てて崩れ去た。
「死など恐れぬ! 滅びよ、北の竜!」
討って出たミリオネアの剣は、鞭のように振るわれた黒竜の尾を両断した。黒竜は叫び、氷のつぶてをミリオネアに浴びせた。
体は齢16の少女。ミリオネアは派手に地面を転げ、額から、口から血を流す。それでも黒竜に向かっていった。
「我が最上の誇りにかけて、死してなお我は竜騎士なり! 我はサウザーウィングの騎士、サウザーウィングに指1本たりとも触れさせはしない!」
「もうやめて、ミリィ!」
――守るよ。
――守らなくていいんだ。
――守る、必ず。この命にかえても。
冷気におし返され、後ろに吹き飛んだミリオネアは、大きな手に捕まえられた。ささくれ立った指が、彼女を傷つけないようそっと拘束する。
「放せ、サウザー」
「放さない」
「サウザー、戦わなければ。あなたを守らせて」
「僕も、君を守りたい」
「放して」
懇願するミリオネアを胸に抱き、サウザーウィングは翼を広げた。大地に爪を立て、憂いに満ちた青眼を細めて懐かしい友を見つめる。
「苦しかったね、ノーザン……つらかったね。ごめんね、終わりにしよう」
大きく息を吸いこみ、サウザーウィングは蒼い炎を吐いた。地を滑る炎は黒竜の体を包み、音もなく焼き尽くした。
灰となって崩れる体を、サウザーウィングは大きな翼で受けとめた。
「残酷な呪いだ……疲れただろう、ノーザン。ゆっくりお休み」
竜の圧倒的な力を見せつけたサウザーウィングは、ゆらりと体を揺らした。
「サウザー」
手をさしのべても支えきれない。胸にミリオネアを抱いたまま、サウザーウィングは横倒しになって荒い息をついた。
「サウザー!」
「ミリィ……ごめんね。残していく、君のことが気がかりだ」
「何を言う。そんなこと言わないで」
ミリオネアは弱々しく囁き、サウザーウィングの首に抱きついた。
「私の命はサウザーのためにある。恩師ロドラスと、サミュエルと、仲間たち……皆いなくなってしまった。ひとりにしないで」
「ミリィ、僕ね、サミュエルにちょっと妬いてたんだ。いつか、君はサミュエルみたいな人と結婚して、僕の側からいなくなっちゃうんじゃないかって……でも、君が幸せなら、それでもいいなって」
「何を言ってるんだ。私がサウザーを置いてどこかへ行くわけがない」
破壊のにおいを風が運んでくる。遠く、人々の嘆きが聞こえる。サウザーウィングは目を細め、泣きじゃくる竜騎士の言葉に耳を傾けた。
「サウザーを守るための力なのに、私が非力なばかりに……サウザーに力を使わせて……私は竜騎士失格だ」
「泣かないで……そんなこと言わないで。もう充分だよ。僕の生命には限りがあった。友だちを助ける力が残っていたのは、これまで君が守ってくれたからだよ。でも、本当は、少しでも長く君といるために……ねえ、ロウェナ」
サウザーウィングは力を振り絞って首を動かし、ミリオネアに頬ずりした。
「僕は、ロウェナ。君と過ごせて幸せだった。一緒にこの丘で見た景色を……会話を……忘れない」
「サウザー、どこにも行かないで。側にいて」
すがりつくミリオネアの髪を、サウザーウィングの大きな手がすくった。
「ごめんね、ロウェナ……君は生きて。恐いことからも、つらいことからも、僕は風になって君を守るよ」
ささくれ立った指をとって、ミリオネアはぎゅっと胸に抱いた。
「こんなに、小さい……時から、ずっと」
「うん……今までも、これからもずっと。大切な人はたくさんいたけれど、心から愛したのは君だけだ、ロウェナ」
「サウザー」
少女は泣き濡れた顔をあげて、サウザーウィングの頬を撫でた。
「私も。愛してる、サウザー」
表情の乏しい竜の顔がたしかに微笑んで、サウザーウィングは少女を見つめたまま息をひきとった。
騎士となったその日から、母にもなり、姉にもなり、友にもなった。ただひとつだけ、なれなかったもの。
「なんだ……」
80年前と何も変わらない姿が、脱ぎ捨てた甲冑に映っている。サウザーウィングの顎を膝に抱き、少女は骸を優しく抱きしめた。
「愛し合っていたんだな、私たちは……」
頬を寄せた鱗はくすみ、かつての美しさを失っていたが、腕の中のサウザーウィングは未だ温かかった。