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竜騎士 ドラゴナイト  作者: 天秤屋
3/7

東の朝霧

 東の国は緑なす峡谷の底に広がる。屹立した山々の尾根は(けん)と呼ばれ、その頂に続くか細い山道は、限られた獣や神官のみが往来できた。

 嶮山のうちでも霊峰として名高い【霧ヶ(きりがみね)】のふもとには、石造りの鳥居が堂々と立ち、神にお仕えする者以外はこの【一ノ鳥居】をくぐることすら畏れ多く、(はばか)るものであった。

 霧ヶ峰の頂、【東風ヶ(こちがはら)】一帯には【白滝大社(しらたきたいしゃ)】が広がる。白滝大社の本殿には、東の国の守護竜がおわして、気まぐれに【御渡(おわた)り】をして下界に雨をもたらした。

 東の民は守護竜を神と崇め、四国のうち唯一、竜を完全なる信仰の対象にした。竜を【東風(こち)さま】と呼び、奉納をかかさず、朝と夕には霧ヶ峰の方を向いて祈りを捧げた。竜に仕える者は騎士ではなく神官と巫女であり、竜騎士にあたるものは【神子(かみこ)】と呼ばれた。



 雪のように白い着物をたすきで縛り、紅の袴をひるがえらせて、神子は沢を走っていた。着物の袖を裂いて縛った腕からは滔々と血が流れ続けている。握った薙刀を何度も取り落としそうになった。

(はやく、はやく東風さまに知らせねば)

 神子の背後には、水しぶきをあげる怪魔(かいま)の群れが迫っていた。



 梓が神子に選ばれたのは十一の時だった。託宣が降り、長く空位であった神子の座に、幼い梓は据えられた。

 梓は捨て子だった。深い山で、もし狩人が赤子の鳴き声に気づかなければ、梓は獣の腹に納まっていただろう。梓の名は、捨て置かれていた木に因んでつけられた。ちょうど同じころに赤ん坊を授かった夫婦に引き取られ、梓はすくすくと成長した――この里に「山で拾った子どもは豊作をもたらす」という言い伝えがなければ、もし一文字ちがって「凶作」であれば、見捨てられていただろう命だ。

 梓は利発な子どもで、早くから勉学の才があると褒めそやされた。神童ではないかと噂が立ち始めた折、託宣が梓の名を告げ、里の者は一様に頷いた。

 養父母のもとへ白装束の山伏がやってきて、厳かに「明日、家の者が一人付き添って、一ノ鳥居に出向くよう」と命じた。その晩も、ヒエを食べ、煮干しをかじるいつもの夕飯であった。父は寡黙になり、姉妹は夜のうちに梓の髪を三つ編みに結い上げた。

 あくる朝、梓は養母に手をひかれて一ノ鳥居の前に立った。これきり会えず、親子の縁も切れるというので、梓は養母と繋いでいた手をかたく握った。すると養母は梓を抱き上げ、ひとしきりそうして放さなかった。

 梓が尼僧に手をひかれて参道をのぼって行くのを、養母はいつまでも、いつまでも見送っていた。

「みなしごで、ああまで大事にしてもらえたは大恩ですよ。縁が切れたとはいえ、思い返してそなたも大事になさい」

 尼僧に言われて、梓は参道の中腹で振り返ったが、一ノ鳥居も見えなかった。


 平凡な百姓の子にとって、白滝大社での暮らしは、目が回るような未知の日々だった。右も左もわからないまま、尼僧の繰り人形のようにひたすら言うことを聞き、朝から晩まで巫女に必要とされる教養を学んだ。座学がある程度すむと、僧兵が長ものの使い方を教えた。

 食事は庶民の食べるものとずいぶん違っていたが、常にくたびれている梓は、味もわからないままに掻きこんだ。体を清めて夜の祈祷を終えると、拝殿の、コの字におれた両翼に連なる社務所に這っていき、泥のように眠った。

 ある程度ものごとがわかってくると、梓は山伏に連れられて、初めて霧ヶ峰を離れた。そこで嶮山の歩き方をさまざまに教わった。食べられる草や実、飲める沢水の見分け方、気をつけねばならない虫、獣の足跡の見方、熊のなわばりの見つけ方。およそ、山で生きていくにあたって必要なことはすべて教えられ、時には体で覚えた。


 十三の誕生日――拾われてきた日――を迎えた梓は、【東風さま】に引き逢わされた。正直、竜など見たこともないし、どんな恐ろしいものだろうと、梓はあまり乗り気ではなかった。

「東風さまは何を召し上がりますか」

 ためしに巫女の姉さまに尋ねると、姉さまは「そなたでないことは確か」と笑った。

 巫女に連れられ、梓は男子禁制の本殿の敷地に入った。太い注連縄のからんだ鳥居をくぐり、ひっそりとした手水場で手や口を清め、社の前に立つ。立派な瓦屋根と障子戸が、山壁から突き出していた。

 巫女が美しい音の鈴を一度だけ慣らした。障子戸をひいて中へ入るよう促され、梓はおずおずと戸に手をかけた。中は自然の洞窟だった。細く短い洞窟を抜け、梓は不思議な光のあふれる池のふちに立った。白い帯のごとく、岩壁から瀑布が垂れ、水色にきらめく浅い池に音もなく注ぎこむ。不思議と、水面には波もたたなかった。

 その池の中に、白く美しい竜はいた。白蛇のようにすべらかな長い体を横たえ、水しぶきに白いたてがみを輝かせ、竜は青い目でちらりと梓を見た。

 竜の美しさに言葉を失った梓は、どんなにか呆けた顔をしていたことだろう。竜は早々に興味を失い、梓から顔をそむけた。

「顔は覚えた、もう下がれ」

 その声は耳に心地よく、毒のある言葉すら美しく聞こえた。梓は慌てて一礼し、元来た道を駆け戻った。頬を高揚させて息をつく梓は、巫女に「はしたない」とたしなめられた。



 ――あの時の、産毛の逆立つ感覚まで覚えている。

斑鳩(いかるが)!」

 足元から浮かび上がった黒い影は、犲の形をとり、梓を負って沢を駆けた。



 東の国における竜騎士、神子に求められる最低限の資質は、【怪魔(かいま)】を使えることだった。怪魔の姿は獣に似るが、果てしない破壊の力をもつ魔物たちで、もののけ、とも呼ばれる。海に棲む妖魔(ようま)よりも人に馴れやすく、術や契約によって使役することができる。怪魔を従える者を【怪魔師】といった。

 無論、怪魔師には誰もがなれるわけではなく、肉体と精神の鍛練も必要になる。梓には幸いにも怪魔師の素質があったが、血を吐くような修行に耐えねばならなかった。肉体の成長をぎりぎり阻害しない限界を保ち、肉断ち――肉、魚はもとより、大豆や貝、卵、乳製品、海草などを断つ――という厳しい食事の制限がつけられ、山草ばかりかじって過ごした。空腹は紛れても、栄養不足で足元もおぼつかない日が続いた。

 肉断ちの十四日目、梓は霧ヶ峰から嶮ふたつ越えた山野に放られ、ひとりで生き抜けと命じられた。期限は伝えられなかった。肉断ちは解禁されたが、糧を得るためには狩りをせねばならない。かといって罠のかけ方も知らず、武器も与えられず、梓は途方にくれた。

 しかも、嶮山には怪魔が跋扈していた。

 ――生きるには、獣にならねば。

 幼い少女の本能が覚醒した。あらゆる修行において優先されるのは理性であり、本能は理性にくるんで押し込めておくものだった。しかし、その本能こそがいま必要であると、梓は直感した。

 少女は泥を浴び、草の上を転がって自分のにおいをできるだけ消した。次に兎や鹿などの草を食む獣の巣を探し、地べたを這ってそのあとをつけ、それらの餌場を知った。

 ためしに、獣が去ったあとで木の実や草を食べてみたが、とても腹はふくれない。しかも、梓が手をつけた木には、獣たちが寄りつかなくなってしまった。

(肉を、食べないと)

 百姓暮らしでも、神子の暮らしでも口にしたことのない「肉」を、梓は心と体の両方で欲していた。

 梓は近くの木にのぼり、肉を食らう獣が現れるのを待った。息を殺してじっと耐え、木からも下りずにいた。そうしてやっと、鹿を狙って熊が現れた。梓は、熊が鹿を仕留める一部始終を見つめていた。

 あくる日は狼の狩りを学び、別の日には狐の狩りを学んだ。夜には梟の狩りを学び、朝には鳶の狩りを学んだ。あらゆる狩りから学び、梓は鼠から鹿まで、一通りの獣を仕留められるようになった。時には木の枝を研いで罠をしかけるなど工夫もした。

 そうして食うにはさほど困らなくなったが、苦難は続いた。はじめのうちは生肉や慣れない木の実に腹をくだしたし、見たことも聞いたこともない虫にくわれて、手足が大きく腫れあがったこともあった。せっかく仕留めた獲物も、熊などが嗅ぎつけてやってくれば、その場に置いて逃げるしかなかった。梓自身が獲物として狙われることも往々にしてあった。

 極めつけが怪魔であった。怪魔は獣よりずっとしつこい。木に登ろうが、腐葉土の下に隠れようが、水に潜ろうが、どこまでも追ってくる。怪魔にとって重要なことは、獲物の肉づきよりも、どれだけ興味をそそられるかということらしい。

 小型の怪魔であれば、丸太のしかけや枝の槍であしらうこともできたが、犬ほどの大きさにもなれば、梓は死を覚悟した。


 幾日が経ったかもわからなくなった頃、梓はねぐらでほら貝の音を聞いた。

 背の高い草叢からぬるりと現れた梓は、鹿の血にまみれ、熊の毛皮を被って、右目をらんらんと光らせていた。少女の顔の半分には痛ましい爪痕が刻まれ、左の眼窩は薬草でおおってあった。左腕はだらりとぶらさがり、右手に枝と石の槍をくくりつけ、それを支えに梓は立っていた。烏の濡れ羽色をしていた髪は色が抜け落ち、老人のようにかわいた、張りのない白髪頭になっていた。

 山伏は、年端もいかぬ小娘の殺伐とした覇気に、腰を抜かしかけたという。

「ただいま戻りました」

 梓はひざまづき、口で槍を縛っている紐を解くと、右手を左肩へ宛てて敬礼をした。山伏は梓を助け起こそうと手をさしのべたが、その手をすぐさま引っ込めた。梓に触れようとした刹那、少女の足元から、獣のまとう殺気が山伏に向かって吹きつけられた。

斑鳩(いかるが)中鷺(ちゅうさぎ)。私の師だ、無礼をするな」

 梓が早口に咎めると、殺気は薄らいだが、まだ漂っていた。

「なんと梓、たいしたものだ。怪魔を手懐けたか。この気は(やまいぬ)と見た。それを二匹も……もはや、お前にわしから伝授すべきことは何もない」

 山伏は経文を唱えて邪気を清めると、梓を茣蓙(ござ)の上へ座らせ、八方に燭台を立てた。

「じきに寝台と食物に、清めの湯水をつかわそう。そなたの穢れは強い。御神域へ戻るには浄化が必要じゃ」

「有難う存じます」

 梓は平伏し、山伏の姿が見えなくなってから顔を上げた。少女の落とす影の中から、不平が漏れた。

「梓、この中は苦しいぞ」

「影が狭うてかなわんぞ」

 ふたつの声に応えて、梓は茣蓙の上に横たわった。小さな体に落ちる影が多少はのびて、声は不満を訴えなくなった。

 この結界は外の獣や怪魔を退け、内にいるものの力を抑えこむ。八方の燭台に囲まれた者は影が狭く小さくなり、怪魔師の影に棲む怪魔は窮屈な思いをする。危険を退け、力を抑えて理性を取り戻し、得たばかりの怪魔もこうして人に慣らしていく。獣と化した梓が人に、神子に戻るための儀式でもあった。

 やがて、十人を越える山伏や神官が現れ、教育係の巫女が伴われてやってきた。陣のなかに寝台と卓が置かれ、卓の上には酒で清めた料理が並んだ。

 木桶の手水場で手と口とを清め、梓は人の手で調理されたものをゆっくりと口へ運んだ。食事が済むと、梓はぐるりと衝立(ついたて)で囲まれて、巫女に体を拭われ、清潔な衣装を着せられた。

「かわいそうに、かわいそうに」

 姉さまは、梓の体にひとつ傷を見つけるたび、涙を流した。梓はかえって申し訳ない心地がして、黙って、頭を撫でられたりもした。梓の顔に貼りついている薬草がそっとはがされた。そこに痛々しい爪痕が残っていても、左目がなくなっていても、優しい姉さまは驚いたり気味悪がったりなどせず、ただただ涙を流して傷を拭いてくれた。

御髪(おぐし)もこんなになってねえ……よくぞ生きて帰られました。わたくしたちはそれだけでもう、胸がいっぱいです。今夜はよくお眠り」

「ようやりましたねえ、怪魔を調伏したとか。きっと東風さまもお褒めくださりますよ。夜のあいだに淋しゅうなったらこれを。また(あした)にきますからね」

 巫女のひとりが、竜の抜け落ちたたてがみで編んだ紐を梓に抱かせた。

 姉さまたちは山伏たちと一緒に引き上げていき、梓はまたひとりになった。多くの穢れに身を染めぬき、従えたばかりの怪魔もいる梓のそばには、誰も長くはいられないのだ。

 帰っていく馴染みの背中を見送ったあと、梓はぽっかりと心に穴があいたような気がして、寝台にもぐりこんだ。

(山のなかでは、心細いなどと思わなかったのに)

 温かい蒲団をかぶり、腹も満たされていたが、梓はなかなか眠れなかった。寝返りをうとうにも、左腕は利かないし、顔の左側も痛むので、ただ夜空の天井を仰いでじっとしていた。

 そのうち、影のなかの怪魔が騒ぎはじめた。

「梓よ、子守唄でもうたってやろうか」

「よせよせ、お前の吼えたところで怪魔どもが集まるだけじゃ。そんなことより添い寝でもしてやろうかと思うたが、影から出られんなあ」

 梓は瞑想を中断して、怪魔と言葉をかわした。

「いまは結界の力でお前たちは抑えられているが、いずれは私がしっかりと手綱をとらねばならない。主は私だ。私が命じた時以外に影から出ることはならないし、そのお喋りも慎むがいい」

 幼い声が健気に強がるので、怪魔ははじめおおいに笑ったが、それに飽いてくると素直に応じた。

「よかろうよかろう、なにせ怪魔の調伏のしかたも(ろく)に知らん小娘に敗けた我らじゃ。いくらも、そなたの言うがままにしてやろう」

「そうじゃ。虚勢をはらずともよいわ、安心せい。犲というのは案外と義理堅いのじゃ」

 斑鳩の黒い炎に焼かれて、梓の左腕は利かなくなった。腐ってはいないし、骨もしっかりしているが、いっさいの感覚が戻らない。顔と左目は中鷺の鋭い爪にやられた。この、兄弟して襲ってくる犲どもをどうやって調伏したのか、必死のことで梓もよく思い出せなかった。

 調伏され、怪魔師の隷属となった怪魔は【遣怪魔(つかいま)】と呼ばれ、怪魔師の影のなかで飼われる。黒白(こくびゃく)の犲二匹が、梓のくだした最初の遣怪魔であった。


 それから五日、朝な夕なに山伏の一団がやってきて、梓の衣食の世話をした。清めは早ければ一晩で、長くても三日で終わると山伏から聞いたことがあったので、梓は、よほど自分の穢れがひどいのだと思った。事実その通りで、五日目の昼頃、山伏たちが輿を担いでやってきた。

「このままでは埒があかぬ、よって、特別のお計らいじゃ」

 梓はよくよくの説明もないまま、どこぞの川へ連れていかれた。そこで輿をおろされ、ひとりで滝つぼに向うよう言われた。

「よいか、遣怪魔の力も頼ってはならん」

 梓は頷き、与えられた木の杖を頼りに草木を掻き分けた。

「なんだ、お前の兄さまや姉さまはずいぶんと酷だな」

「歩け歩け、獣や怪魔に追いつかれるぞ。我らは力を貸せんのだからな」

 斑鳩と中鷺はじつに愉快そうにからかった。遣いといえ、怪魔に情はないし、怪魔師が死ねば彼らは自由の身に戻るのだ。

 梓は黙って川べりを歩きつづけた。

 どれだけ川を遡っても滝の音はせず、梓は一抹の不安にかられたが、とうとう深い淵のあるたまりへ出た。そのたまりへ、滝は音もなく落ちこんでいた。

 滝の音を奪っているものの姿を目にとめて、梓は慌てて平伏した。その拍子に左腕を擦りむいたが、血が出ても痛みはなかった。

「お見苦しい物を」

 梓は怪我に気づくと、とっさに左腕を持って隠した。人の血は穢れ、神に見せてよいものではない。思いきり腕を引きこんだら、手のひらがおかしな方向を向いて、肘がねじれていた。

 竜は、聞こえよがしに大きなため息をついた。

「もうよい。これ以上面倒を増やすな。(ちこ)う」

 泥に汗にまみれた自分の姿を池にうつして、梓は戸惑ったが、頭を振って足を進めた。不思議と水面には弾力があって、踏んで歩けた。

 白い竜から十歩ほどのところで梓は立ちどまり、ひざまづいた。

「山の行を終え、これよりはいっそう東風さまにお仕えする神子として……」

「ひどい有り様だな。人間の分際で無茶をしおって」

 白竜は梓の言葉をさえぎり、その優雅にたゆたう体を躍らせて、ゆっくりと間合いをつめた。四つに分かれた、鳥の足のような手が梓の顔に触れた。竜の手のひらは、鱗と違って分厚い皮がはっていて、弾力と体温が伝わった。皮の周りには繊毛が生え、ふわりふわりと梓の頬をくすぐった。

 ――東風さまに触れられた。

 梓はとたんに真っ赤になり、恐るおそる白竜を見上げた。すると、白竜は表情がとぼしくも、苛立たしげにしているようであった。どうやら、梓の顔に貼りつけられた布をとろうとしているのだが、鋭い爪をあてないよう気遣う指では、なかなかうまくいかないらしい。

「取れ。鈍い娘だ」

 とうとう投げ出して、白竜は不満げに命じた。梓は、おずおずと申し上げた。

「あのう、傷は汚らわしくて、醜くて、とても東風さまにお見せすることは」

「いいから取らんか。口答えするならばこの場で食ってやる」

 梓はびくりと肩を跳ね、あわてて布を解きにかかった。白竜の命令とあれば絶対だ。しかし、忘れていた少女らしさを不意に思いだして、梓の手は止まってしまった。

(こんな顔……気味悪がられてしまう。でも、東風さまの命に従わないなんて、機嫌をそこねるなんて、それこそ罰当たりだ)

 どんなに自分に言い聞かせても、指はかじかんだように震えてままならない。

「片腕では、お前も私の不器用と同じか」

 白竜は鼻で笑って、ぐいと梓の左手を引き上げた。萎えた腕は、巨大な獣の、牙の生えそろった口に挟まれた。

「東風さま!」

 思わず梓が叫ぶと、白竜はおもしろそうに口の端をつり上げたが、腕を放そうとはしなかった。

「そんなものを召し上がったらお体に障ります」

 慌てふためく梓をしり目に、白竜は軽く、変色した梓の腕を噛んだ。その口が離されると、梓の左腕にはずしりと重みが戻ってきた。茫然と血色のよくなった腕を見つめる梓に、白竜は改めて命じた。

「奇跡を施してやったのだから、さっさと顔の邪魔なものを取れ」

 梓ははっとして顔の布を解いた。だが、治してもらった左手でそこをおおってしまった。

「何をしている」

 苛立つ白竜が左手を剥がしにかかると、梓はその場にしゃがみこんだ。

「きっと二目と見られない顔でしょう。これを見られたら、もう東風さまのお側には参れません。あ!」

 竜は聞く耳をもたず、梓の手はあっけなく退けられた。水面に映る、傷を見た白竜の表情を見たくなくて、梓はとっさに目をつぶった。

 あらわになった痛々しい傷に、朝霧のようなやわらかい吐息が触れた。

「無礼な娘よ、両の目で私を見んか」

 なんという意地悪を言うのだ、とは思わなかった。梓は、顔の左側でずっと疼いていた痛みが、すうと消えてしまったのを感じていた。まさか、と思って目を開く。そこには、完全に戻った視野いっぱいに、美しい白竜が佇んでいた。

 ――ああ、ただただお美しい。

 うっとりと白竜に見惚れながら、梓の頬を涙が伝った。嬉しいのか、自分が情けなくて泣いているのか、判らなかった。

「ものはついでだ。着物を脱げ」

 白竜はその長い体と、豊かな白毛のゆれる尾で梓の姿をおおい隠した。梓の体じゅうへ容赦なく刻まれた傷は、竜の一息で跡形もなく癒えた。

 梓は支度をととのえると、水面に平伏した。白竜は黙って、ぼさぼさに乱れた梓の白髪を撫でつけた。梓が顔を上げた時には、髪の色はそのままに、まるで白竜のたてがみとおなじに艶めいて光っていた。

「なぜ、私にこれほどお恵みくださるのでしょうか。もったいのうございます」

「私の守りが穢れにまみれて、神域にすら入れないとは滑稽だからな。それに、どうせ側に置くなら、少しでも見目美しいもののほうが良い」

 白竜はそう言って、音もなく空へと駆け上がっていった。美しく蛇行する体が見えなくなるまで見送って、梓はどっぷりとたまりにはまった。水面を歩けるのは、白竜が近くにいる間だけだ。

 岸に泳ぎ着き、思い切り水をすった鼻をさすりながら、梓は白竜の去った空を振り仰いだ。

(私なんかのために、神域からこのようなところへいらっしゃったんだ)

 ありがたいやら情けないやらで、目頭に浮かぶ涙を拭い、梓は自分の足で山伏のもとへ戻った。その頃には、雨が降っていた。


 御渡(おわた)りがあると雨が降る。

 下界では、雨が降るのは白竜が空を渡っているからだと信じられていた。雨のあいだは耕作を休み、霧ヶ峰にむかって豊作を祈るのが常であった。

 白竜は気まぐれに、神域の外まで散歩に出向くことがあった。これを御渡りという。嶮は雲より高くそびえるので雨とは無縁だが、下界では、白竜の渡った空ぞいに降雨がある。反対に、白竜が渡らなければいつまでも雨は降らない。稲作が主の東の国にとって、御渡りのあるなしは死活問題に直結した。

 この御渡りに追従するのも、神子の大事な役であった。時には早朝に、時には深夜に、梓は本殿の鈴の音を注意深く聞いた。白竜の気まぐれに神経をすり減らし、たとえ蒲団の中にいようと、禊の途中であろうと、自分の生活のことはすべて投げ出して馳せ参じた。

 白滝大社へ来て日の浅いうちは、梓は拝殿の先にある【五ノ鳥居】まで出て、見送りと出迎えをすればよかった。だが、山野で生き抜く山の行をこなした三日後、梓は白竜のお供を任ぜられた。

「これは代々、神子に東風さまより賜る神器じゃ。肌身離すなよ」

 かつての師であった山伏は、梓に五尺五寸の薙刀をさずけた。刀よりも平打ちにした刃は白銀に光り、刃紋は雲か炎のごとく揺らめく。朱の柄には金泥で渦巻く雲が描かれていた。千段巻には藍染の布、その両端と、石突には珊瑚の(ぎょく)

 手にすると不思議と軽く、人肌に馴染んで温かかった。

「これよりそなたは真に神子として、いついかなる時も東風さまの御側を離れず、命にかえてお守りいたすよう」

(かしこ)まりました」

 梓は薙刀を捧げてひざまづき、深く頭を垂れた。

 この刀身は斬ろうと思えば水や風をも切り裂くというので、封印のまじないをした鹿革の袋を被せて背に負った。

「お前の身の丈に余る長物じゃ。木の枝などに引っ掻けて失くすなよ」

 斑鳩にからかわれながら、梓は憮然として五ノ鳥居の下に立っていた。梓が正式に神子に就いた祝いとして、これから山伏が白竜に扮し、疑似の御渡りが執り行われる予定だった。

 しかし、山伏が白装束に着替てくるよりも早く、本殿の鈴が鳴った。

「梓、参られよ! 御渡りじゃ」

 巫女の声に空を仰げば、頭上を影が流れていく。白竜の蛇腹の段を五つほど数えたところで、梓はぱっと鳥居から飛び出した。参道を四ノ鳥居まで下ったあたりで、白竜は方をかえて西に舞う。梓はそれを追って、御渡りのお供が使う山道に飛び込んだ。ひと一人がやっと踏める細い石敷きの、左右はなだらかな傾斜になっている。足がもつれでもすれば、どこまで滑り落ちることか。

 石敷きを蹴って、高く急な石段を飛び上がって、梓は霧ヶ峰を抜けた。隣の嶮の上に立ち、土が踏み固められた、道とも思えぬ道の上をまた走った。白竜は悠々と空を滑っていく。待ってはくれない。

 転げそうになると、四つ足をついてでも走った。

「何じゃ無様よの、乗せてやろうか」

「たわけ」

 それは斑鳩なりの好意だったかも知れないが、梓はきっぱりと跳ね除けた。

「これは私のお勤めだ」

 ――こなせなくて神子を名乗れようか。やはり子どもだからと、女だからと言われるのはシャクだ。やってみせる。

(成し遂げれば、少しは東風さまに相応しくなれるかもしれない)

 梓は獣のようにがむしゃらに走って、ようやく、白竜に追いついた。白竜はひとつの嶮の周りをぐるりとめぐって、下へとおりていった。梓は薙刀をおろして握りこみ、土や葉の上を滑るようにして山を下りた。

 白竜は沢の上流のたまりにおりて、優雅な尾を波打たせていた。

「遅い」

 あとから滑り落ちてきた梓を見遣って、白竜はつまらなそうに言った。

「気も利かぬ。泥がついたぞ、落とせ」

 次いで、不機嫌に命じた。梓は慌てて薙刀を背負いなおし、水を踏んで白竜のもとへ急いだ。

「水を蹴るな、しぶきが飛ぶ。お前は品性というものと縁遠いな」

「申し訳ありません」

 白竜の体をくまなく探したが、泥は見当たらない。穢れとは無縁に思える白い体の、後ろ足のすねにようやく土埃を見つけて、梓はたすきを解いた。着物の袂で軽く払い、水を含ませてしぼって、改めて拭き取った。

 梓はそそくさと引き下がり、たまりのふちに立って、白竜の憩いを見守った。

(東風さまに触れた)

 濡れた袂を胸に抱く。不意に、白竜の手や牙の感触を思い出し、梓は左腕や左頬に触れてみた。そのあと、全身に浴びた朝霧のような吐息を思い出す。

(もったいないことだ、未熟だから負った傷なのに、神さまの手を煩わせて)

 険しい山道を走り抜いても平然としていた胸が、今ごろになって張り裂けそうに痛んだ。息もあがる。

(何だろう、苦しい)

 顔をしかめた梓の耳に、さらりと水の震える音が届いた。顔を上げると、白竜は水面から舞い上がって、嶮に向けて空をのぼりはじめていた。白竜を追って山肌をよじのぼる梓の、頭の上からあざける声が降ってきた。

「気もそぞろによそ見ばかりして、気の利いた話のひとつもないとは、本につまらぬ娘だな」

 厭味を言われても、梓は素直に自分を恥じた。

「追いつきます、必ず追いつきます」

 そう答えて、梓は必死に山をよじのぼる。

「もう見てはおれぬ。俺を呼べ」

 たまりかねて、中鷺が影の中から袴のすそを引いた。

「ほれ、見る間に置いていかれるぞ。早う呼べ」

「……中鷺」

 梓は空を振り仰ぎ、悔しそうに遣怪魔を呼んだ。中鷺は文字通り影から踊り出て、梓を背に負った。すると、影の中から斑鳩が唸った。

「お節介焼きめ、小娘には身の程を知らせればよかろうが」

「兄者は怪魔のうちでも、抜きんでて血も涙もない」

 中鷺はあっという間に山を駆け上がり、嶮に立つと、しがみついていた梓を背からおろした。

「あとは己の足で追え。そうしたいのだろう」

 梓は頷き、中鷺が影へ潜ると、白竜のたなびく尾を追った。

 ――大丈夫。まだ、追いつける。


 その夜、梓は寝所に書置きを残して、暗闇の山中を駆けまわっていた。

(まだ知らない道がある。知らない駆け方がある。山を下るのも、上るのも)

 少しでも白竜に追いつきたい。その一心で石敷きを蹴っていた、まだ頼りない足が空を踏んだ。

「あっ」

 とっさに薙刀を振るって体勢を立て直そうとするが、梓の体が落ちるほうが早い。薙刀の柄が木々の間に引っかかり、梓はその柄を掴んで宙づりになった。霧ヶ峰から三つほど離れたその山の、斜面の先は切り立つ深い谷だった。

 下を見ても、月明かりが届かないほどに谷は深い。

 梓は掴んでいる薙刀を見上げた。折れる様子はないが、いっそ、軋みでもしたら手放したほうが良いかもしれないと、少女は考えていた。この薙刀は、きっと自分の命よりも価値があるものだ。

「足をつけぬか」

 影の中から、憂いに満ちた中鷺の声がした。

「何とかして足をつけぬか。地面さえあれば我らは出てゆける」

「無理だ、届かない。それに少しでも動いたら、柄が外れそうだ」

 ばかな娘じゃ、と斑鳩の呆れかえった声がした。

「考えなしに無茶ばかりしおって、ついて行けぬ」

 梓は笑みをこぼした。

「本当にその通りだ。すまない、お前たちにまで迷惑をかけて……いや、私が死ねば晴れて自由の身だったかな」

 悟ったような諦めたような表情は、とても十三の娘がする顔ではなかった。

「言うな梓、俺はお前が好きじゃ。何とかしてやれんものか……」

「中鷺は、怪魔にしては血も涙も通っている」

 軽口をたたきながら、柄を掴む腕が震えてきた梓は、いよいよ死を覚悟した。しかし、その体は落ちるどころか中空に舞い上がった。袴の帯をぐいと曳かれ、梓はどこぞの山頂へ運ばれた。そこは他の嶮とは違って、なだらかな草地が広がっていた。

「申し訳ありません!」

 乱暴に放り出されると、梓はすぐさま振り返って平伏した。朝霧のような、ほんのりとした湿気が肌をしめらせる。

「呆れ果てて物も言えんわ。その阿呆面を見せろ小娘」

 一喝して、白竜はため息をついた。おずおずと顔を上げた梓は、薙刀を抱きしめて尋ねた。

「私では、やはり、相応しくないのでしょうか」

 あまりに惨めで涙をこらえきれなかった。

「泣かせたぞ」

「泣かせたな」

 それまで、白竜の面前では声も上げたことのない犲二匹は、大仰に言って白竜を責めた。

「小娘、犬に真鍮のくつわをつけねば、側に置かぬぞ」

 白竜は居づらそうに身じろぎして、ちらりと梓の抱く薙刀に目をやった。

「それの柄は、私の幼い頃の角だ。もし手放せば、お前の行方などとんと判らなくなる……決して離すなよ」

「はい」

 梓はさらに薙刀を抱きこんだ。神子としての誇り以上に、その薙刀が愛おしくなった。

(東風さまには命を救われてばかりで、私は役立たずだ。一日も早く、この薙刀に恥じない神子になりたい)

 霧ヶ峰に戻った梓は、叱られるやら泣かれるやらでもみくちゃになり、寝所に戻る頃には東の空が白んでいた。



 新たな遣怪魔を求め、梓が山野に出向いてから、二十一日が過ぎようとしていた。

「神子がおらねば御渡りはせぬと仰いまして」

 白滝大社では、巫女や神官たちが頭を抱えていた。

「稲は田に根をはって、今が育ち時。こうも雨が降らねば民は不安でしょう」

「誰ぞ、梓を呼び戻して参れ」

「それが、怪魔師にも探させておりますが、とんと……」

 梓が戻ったのは、さらに二日経った夜のこと。一ノ鳥居から五ノ鳥居までずらりと松明が並び、夜道は煌々と照らされていた。それぞれの鳥居で梓の帰りを待っていた神官たちは、そろって「本殿へ」と梓を急かした。

 拝殿では、巫女たちがやきもきと梓を待っていた。

「そなたが霧ヶ峰を出てからもうひと月が経ちますよ」

 たしなめられて、梓は目を丸くした。

「面目ない。すっかり、日の経つのも忘れて」

「お役目までお忘れでないなら、急ぎ本殿に参りなさい。東風さまが、首をながあくしてお待ちですよ」

 梓は汚れた着替えの入ったつづらを巫女に預け、薙刀を背負って本殿に走った。鈴をがらりがらりとひどい音で鳴らし、障子戸を開けようとするが、つっかえ棒でも噛ませたように戸はびくともしなかった。

「……東風さま、お怒りでしょうか」

 しょんぼりと尋ねた梓の、頭の上から白竜が答えた。

「出るぞ。ついて参れ」

 ――御渡りだ。

 梓は跳ねるように踵をかえし、白竜の影を追って五ノ鳥居から飛び出した。

 嶮を走って沢に下り、滝つぼなどで遊んで、白竜はもうひとつ山向こうの沢のたまりへ下りた。梓は遅れずについて行った。

「痩せたか、着物が見苦しい」

 白竜にじろりと眺められて、梓は着物の襟を正した。

「怪魔を追っておりました。その間、寝食は思い出す(いとま)もなく……」

「私まで腹が減ってきた。何か狩ってきやれ」

 白竜はゆったりと水面に寝そべった。梓は目をしばたき、その場に斑鳩を護衛に残して、夜の森へ駆けこんだ。

 白竜の面前で、斑鳩は地べたに丸くなった。

「あの小娘は、心酔する東風さまのことのほか何も考えてはおらぬ。危うくて見ておれん。あれを、あまりからかってやるなよ」

「犬め、どうしてくつわをしていないのだ」

 白竜が不機嫌に尾を揺らすと、斑鳩は軽く牙を剥いて続けた。

「ぬしが死ねとのたまえば、あの娘は迷いなく死ぬぞ」

「その健気さをいたわってやれと言うのだろう。過保護な遣怪魔がいたものだ」

 それから、白竜と斑鳩は言葉をまじえず、夜風のたてる葉擦れを聞いていた。


 梓は、新たに遣怪魔に加えた赤い虎と、怪鳥とに狩りを手伝わせた。この二頭は、犲のように言葉を話すことはできないが、梓の言うことはよくきいた。

雀躍(じゃくやく)河鵜(かわう)が追いこんだら仕留めろ」

 怪鳥が羽ばたいて鳴き騒ぎ、眠っている猪を藪に追いこむ。それを赤い虎が、巨大な体と口でねじ伏せ、仕留めた。連携がうまくいくと、そのたびに梓は二頭をよく褒めた。

「よせよせ、飼い犬ではないのだぞ」

 中鷺にはたしなめられたが、梓は雀躍の大きな頭やら、河鵜のつるつるした背やらを撫でてやりながら笑った。

「何かできるようになって、それを褒めてもらうと自信がつく。私は、私がされて嬉しかったことは、お前たちにもそうしてやりたいんだ」

「つくづくおかしな娘じゃ。俺や兄者の腹まで、撫でてくれようとするなよ」


「東風さま、お待たせいたしました」

 梓は、二頭の猪を雀躍に牽かせて戻ってきた。斑鳩は大あくびをして立ち上がった。

「待ちくたびれたは俺じゃ」

「すまない。先に、雀躍と河鵜には獲物をとらせたから」

 まだ自制がきかない二頭に、せっかくの捧げ物をかじられてはコトだ。

「東風さま、馬や鴨はとれませんでしたが、お納めください」

 梓が猪の後ろで平伏すると、ゆらりと水面を風が渡り、伏せた頬を撫でた。顔を上げれば、目の前には白竜が佇んでいる。

「本に、馬や鴨でないのが悔やまれる」

 言って、白竜は軽々と猪を咥えて持ち上げ、たまりより下流の川べりに腰をおろした。前足でがっきと猪を掴み、肉を引きちぎって鼻先を突っこむ。その食事の作法といえば、斑鳩たちと何ら変わりはなかった。

 まるで霞や雲ばかりを食んでいるように、白竜の鱗はどこまでも透き通って白い。だが、その牙は美味そうになまぐさを租借する。ひとしきり肉を食んで、不意に白竜は梓を振り返った。

「食わないのか」

 梓は弾けるように立ち上がり、ちらと斑鳩と中鷺に与えた猪を見たが、すでに骨ばかりになっていた。腹をさりげなくおさえ、梓は一礼した。

「私は、戻れば御膳がありますので」

「それは、どれもこれも肉ではなかろう」

 言って、白竜は鼻面で猪をおして梓によこした。

「こんなに固い肉は疲れて仕方がない。あとは、お前が食え」

「はい……」

 梓は懐から短刀を抜き、骨から肉をこそげとった。じわりと口に広がる血肉の味。ただ人ならば、野生の獣の肉は火を通してもくさがるが、山の行でいやというほど生肉を食んだ梓の喉は、ごくりと音を立てた。

 無心に股肉に食いつく梓を眺め、白竜は笑みを浮かべた。

「まるで獣だな」

 梓が下流で口をすすぐあいだ、白竜はたまりの中へ深々と沈んで、ぐるりと八の字を描いた。すっかり血も脂も洗い落とすと、白竜は「穢れなどつゆほども知らぬ」といった顔で水面に立った。

「帰るぞ」

「はい」

 白竜を追うのは五ノ鳥居まで。その後、白竜は天井から本殿へ入り、梓は社務所の寝室へ戻る。床について、梓はいつものように遣怪魔をみな影から呼び出した。

「これ、猫。尻をこっちへ向けるな。梓、狭い寝所がよけいに窮屈でかなわぬ」

「じゃあ、中鷺はこっちへおいで」

 梓は、中鷺と斑鳩を蒲団の両端へ寝かせた。

「懐かしいのう。最初に添い寝した時も川の字じゃった」

「母御が恋しいとぴいぴい泣いて、それは鬱陶しかったのう」

「斑鳩、お前には本当に真鍮のくつわが要るようだ」

 あっちでごろごろ、あっちでばさばさ、さまざまに音がする。そばに誰かの体温がある。梓はいつも、狭い寝間で家族にくるまれるようにして眠っていた。一人きりの蒲団では、お包みひとつで山に放られていた頃を思い出すようで、とても寝つけなかった。

 ――赤子の記憶はなくとも、あの言いようのない淋しさは肌身にしみている。

 安堵して眠りに落ちようとする梓の足を、中鷺の尻尾がうるさく叩いた。

「のう梓、やったのう」

「何だ中鷺、そんなにはしゃいで」

「何じゃと。お前、愛しい東風さまから獲物を分けられたではないか」

 ――愛しい?

 梓は言葉に窮した。少し黙って、考えながら口を開く。

「いや、東風さまには敬服しているが、愛しいとは少し違うぞ。それに食いさしたおこぼれを頂いたのが、何だというのだ」

 すると中鷺は、口をあんぐりと開け、かぶりを振った。

「梓よ、雄が雌に獲物をくれるは一大事じゃ。まあ、さっきのは梓が獲ってきた猪じゃから、ちいと勝手が違うが……」

 そこまで聞くと、梓にも中鷺の言わんとしていることがわかった。

「違うな。そういうことではない。東風さまと神子というのは、そういう繋がりではないよ」

「おい梓、心臓がうるそうて眠れん。止めてやろうか」

 冷静に否定したつもりが、左に寝ている斑鳩にからかわれて、梓は顔を真っ赤にした。

「中鷺、お前もいい加減なことを言うな。こんなちんちくりんのガキに惚れる雄があろうはずがない」

 斑鳩の罵詈雑言に、梓はむしろ、ほっと胸をなでおろした。

 ――そうだ。あり得ない。私はまだ子どもだし、それに。

 その先を考えないようにして、梓は無理やりに眠ろうとつとめた。


 次の日も、朝日が差すと鈴が鳴り、白竜は御渡りに出た。あまりにゆらゆらとゆっくり飛ぶので、梓は走らずとも白竜についていけた。

 そのうち、白竜は山の中腹に草原を見つけると、早々に降りたった。

「東風さま、どこかお悪いのですか」

「たわけ」

 白竜は不機嫌に顔をそむけ、ゆったりと草原に寝そべった。

「お前の、その、髪を結っているのは……」

 あまりに自信なさげに話すので、やはり具合が悪いのではないかと、梓は白竜に歩み寄った。駆け寄りたかったが、騒々しいと叱られてしまう。

「これでございますか」

 梓は白竜の許す限りそばまで行って、結い上げた髪の一端をほどいた。三つ編みにした房を持ち上げてみせると、白竜は手をのばしてそれを持った。興味深そうに三つ編みを眺めている白竜に、おずおずと話しかける。

「お社に参る前夜、姉が結ってくれたのが始まりで、今では巫女さまがととのえてくださります」

「器用だな、人間は」

 白竜は三つ編みをいたく気に入ったようだ。

「編んでさしあげましょうか」

 言ってから、とんでもないことを口走ったと心臓が早鐘をうつ。相手は神、気安くしてはならないものを、不躾なことを言ってしまった。梓は青ざめ、胸の中心がきゅうっと冷たくなっていくのを感じた。

 空気が揺らいで、白竜は梓に背を向け、横たわった。

「ひと房つくってみやれ」

 思わぬことになった。梓は震える手で白竜のたてがみを梳いた。さらさらと、まるで清水のように白い毛は流れていく。うっとりするほどやわらかい。ひと房をとって三つに分け、結い上げて、端をたすきでまとめた。

 いつの間にか震えはおさまって、梓はたてがみから手を離すのが惜しく思えた。

「できました」

「どれ」

 白竜は中空に躍り上がり、すうっと南へ下りていった。あとを追うと、すぐ近くの沼のほとりで、白竜はじっと水面を見つめていた。

「良い出来だ」

 梓は初めて、白竜の優しげな微笑みを見た。蛇のような竜の顔が、いかに不機嫌でも、嬉しがっていても、普通の人間には見分けがつかない。だが、側に仕えてきた梓には、たしかに白竜が微笑しているのがわかった。

 あえて、「気にいっていただけて光栄」だなどと口は挟まず、梓は黙って側に立っていた。

 社務所に戻ると、梓は禊の前に自分で髪を梳いてみた。かつて白竜によって潤いを与えられた白髪は、触れてみると、白竜のたてがみと同じ肌触りがした。



 それからというもの、白竜の機嫌はよく、梓を伴っての御渡りも頻繁にあるようになった。

 お蔭で下界には雨が降り続け、白滝大社には連日使者が訪れた。

「村の堰を新しくしましたので、ご祈祷を願います」

「街道の橋を新しくしましたので、ご祈祷を願います」

 つまり、それだけの堰や橋が壊れ、流されたのだ。中には直接的に、晴れ乞いに来る者もあった。

 白滝大社は庶民が気安く訪れる社ではなかったため、参道が人で埋め尽くされる様を、梓は初めて見た。拝殿に溢れかえる使者の対応におわれる神官たちも、巫女も、普段の落ちつきはなかった。

「梓、相談がある」

 夕刻、使者たちが帰ってしまった後で、梓は長老衆に呼び出された。

「降雨の件はもとより、近頃、おぬしと東風さまとは近しすぎる様子じゃ」

 言われて、梓は恥入った。

「身分をわきまえず、役をおろそかにいたしました」

「いや、あの繊細な東風さまによう気に入られて、それは良いことじゃが……信頼と依存はちがう、というのはわかるな」

 梓は頷いた。長老衆は三者三様、それぞれの難しい顔をして、梓の前に座っていた。

「のう梓や、いま東の国はありがたいことに平穏無事じゃ。おぬしは神子として鍛錬も積み、遣怪魔も充分に従えておる。そこでじゃ。しばし霧ヶ峰を離れ、おぬしにも東風さまにおかれても、休息をとられるはいかがかな」

 ぴくり、と梓の指が震えたのを、老爺たちは見逃さなかった。

「社を追い出すのでも、神子の役を取り上げるのでもない。しばし、おぬしと東風さまとは、離れて暮らす時間が必要じゃと、わしらは判じた」

「長くても稲作の落ちつく頃合いまでじゃ。御渡りがあれば、お供には、おぬしの前任じゃった山伏がつこう」

「そのあいだ、おぬしには領地を与える。しばしまったく違った責務を果たし、互いに距離をおいて、関係をもういちど築き直したが今後のためじゃ」

 それぞれが、しっかりと梓の耳に届くように言い聞かせた。梓は三人目の説得が終わると、口を堅くむすんで一礼し、絞り出すように言った。

「はい」


 こうして翌朝、梓は見知らぬ嶮に渡り、中腹にかまえる領主の館に据えられた。前任の領主は、人手不足の橋の再建に加わって、そのまま川に呑まれてしまったらしい。領民はまだ諦めておらず、せめて遺体でも、見つけて葬儀をあげるまで次の領主は認めないというので、代理に梓が遣わされたのだ。

 代理が神子とあれば、文句を言うものはいなかった。

 梓は再び右も左もわからない日々を送ることとなった。とはいえ前領主の補佐たちがきりきりとよく働いたので、書斎にただ座っていればよかった。

 野盗や獣、怪魔が暴れるという話も聞かない。

 何もすることがないと、考え事にふける時間が長くなった。

(私はどこかで間違えた。越えてはならない域というものがあるのに)

 神と人とは、どこまで離れれば、共に居ることができるのだろう。

 物思いにふけって窓辺に肘をつく暮らしが、ひと月も続いた。その折、梓の耳にはこんな声が聞こえてきた。

「こんどは雨が降らん。このままでは稲が全滅じゃ」

 そういえば、と窓から離れ、梓は中庭に立った。夏、陽射しばかりが強く照って、土はひび割れ、草もしなびていた。

(もうずっと雨が降っていない)

 思い立つと、もうじっとしていられなかった。補佐に言い置いて、梓は斑鳩の背に跨がった。一路、霧ヶ峰は東風ヶ原の白滝大社を目指す。到着した頃には夕闇が迫っていたが、山腹の空気はうだるような熱気によどんでいた。

 しかし駆けつけた梓は、白竜への謁見を許されなかった。

「ここでまた神子をきっかけに御渡りへ出ていただくのでは、これまでの苦労が水泡に帰す。書簡だけはたしかに預かって、巫女の口から進言させよう」

 山伏に諭され、梓はもっともだと思って引き下がった。

(これ以上、私が東の国の運命を引っ掻きまわしてはいけない)

 しかし、帰ろうと跨った斑鳩の足は動かなかった。

「どうした、疲れたか」

「ばかな娘じゃ。逢いたいならば行けばよかろう」

 梓は犲の背をおりて、黒く艶やかな額に額を合わせた。

「ありがとう」

 抱きしめた腕を解くと、斑鳩は不機嫌そうに身震いした。梓は自分の足で参道を下りはじめた。その背を、斑鳩は顔をしかめて追った。

 梓は夜のはじめに領地へ戻った。

「いかがでしたか」

 期待と不安をこめて尋ねる補佐たちに、梓は静かに首を振った。

「何とも言えない。書簡はたしかに預けたし、進言を約束してもらったけれど」

「充分でございますとも。今日は、もうお休みに」

「うん」

 よほど疲れた顔をしていたのだろう。梓を見る補佐たちは一様に、いたたまれない表情をしていた。

 客間に戻って、梓は寝間着に着替えた。寝台に腰かけてぼんやりと窓の外を眺める。未だに見なれない風景が、じんわりとにじんでいった。梓は自分の目を擦ったが、どうやら涙のせいではないらしい。

 廊下を、ばたばたと派手な足音がやってきた。

「梓さま! 庭、お庭に!」

 肩で息をする補佐は、表を指さしたきり何も言えなくなった。

 まさか。梓は寝台から飛び降りて庭に走った。月が白く照っているというのに、山腹には透明な雨粒が降りそそいでいた。しめり気をおびて生き生きとした芝生の上に、真っ白な竜が佇んでいた。

「東風さま」

 梓は感激するよりも、呆れてしまって、眉根を寄せた。じっと動かない白竜に歩み寄る。

「また、皆に叱られます」

 梓が困った顔をするので、白竜は気まずそうに眉をひそめた。それから、黙って頭を梓におしつけた。梓は後ろにひっくり返りそうになって、思わず白竜の顎を抱いた。白竜はますます頭を突き出してくるので、梓のつま先が地面を離れた。

「お前のいない東風ヶ原は退屈だ」

 さあ、と雨脚が強まった。細い雨の糸のなかで、梓はしばらく、白竜の頭を抱いていた。

 それから、白竜は月に三度、梓に会うために山を渡った。


 梓が霧ヶ峰に戻ったのは、十四の誕生日を過ぎてからのことだった。

「私の留守に、神子がおらねばあれはしない、これはしないと言って皆を困らせたとか。私の小さな手が、それほど必要なことがありましたか」

 久方ぶりの御渡りの供をして、いつかの山頂の草原で休んでいる時、梓は無邪気な笑いを含めて言った。

 白竜は尾で梓を引き寄せて、肩に寄り添わせた。顔を上げれば、そこにはまだ、梓の結った三つ編みの房がさがっていた。梓は白竜の肩におずおずと手を触れた。鱗はひんやりと冷たい。

「神子というには、お前はまだ幼い」

 優雅な尾が梓の背を包んだ。

「いかに遣怪魔を従えようと、長物の扱いが上手かろうと、獣のように山野を駆けようと……お前ほど頼りないものはない」

「いまは頼りなくても、いずれは成長して必ずやお役にたちます」

 わずかに頬をふくらませた梓を見遣り、白竜は苦く笑った。

「だから子どもだというのだ。この私が子どもに守ってもらう道理はない。梓、竜が神子を守ってはならないという掟はあるか?」

 白竜は体を少し起こし、左腕で梓をさらって、胸に抱き寄せた。蛇腹は鱗よりもやわらかく、温かかった。

「私がお前を守ってはならない掟はあるか」

 梓は目がぐるぐると回りそうなほどに緊張して、息をするのがやっとだった。しかし、そのうちに養母に抱かれて眠った頃を思い出した。白竜のぬくもりが養母の思い出に変じてしまうと、梓は安堵して身をゆだねた。

「今から焦るな。竜は人よりずっと長く生きる。お前が順をおって一人前になるまで、私はほんのわずかに待てばいいだけのこと」

 梓は胸の奥から何かがこみあげてきて、ひとしきり泣いた。情けなく声をあげ、白竜の胸に涙や鼻水やらいろいろつけてしまったが、白竜は嫌がりもしなかった。その代わり、梓を沢におろして顔を洗わせた。白竜はたまりのなかを泳いで身を清めると、梓を咥えて、背中に放り上げた。

 梓は身を固くして「神さまに足をつけられません」と叫んだ。

「だが、足をつけねば落ちて死ぬぞ」

 白竜はからかうように急上昇して、梓は思わず全身で背中にしがみついた。白竜が愉快げに笑うのが聞こえた。

 やっと背から下ろされた梓は、どんな修行よりも疲れ果てていた。

「帰ろう」

 言って、白竜は梓を片手ですくい上げ、胸に抱いて空を滑った。梓は全身が心臓になったかと思うほど、手足の先まで血の巡りがうるさく、喉元から何かが飛び出しそうになった。

 今にも火を噴きそうに赤くなった梓は、そっと本殿の敷地におろされた。

「今日は西へ参った。だから明日は南へ行こう」

 白竜は当たり前のように言って、山中の空洞へ戻っていった。

 梓はその場にへたりこみ、しばらく動けずにいたので、巫女に見つかった。あまりに体が熱いので、巫女は風邪を引いたと思いこみ、その日の夕餉には粥が出された。食事が喉を通りそうになかった梓には、ちょうどよかった。

 床では、あいかわらず中鷺が梓をはやした。

「やるのう梓、すっかり手懐けおった」

「そんな言い草があるか。第一、守るのと守られるのがあべこべになっては神子の名折れだ。東風さまはああ仰ったが、選ばれた以上は、私だって」

 言った勢いで、いまにも山野の修行に出て行きそうな梓の胸に、どっかりと黒い太足が乗った。

「いいから、子どもは寝て大きくなるが仕事じゃ」

「そうじゃ、そうじゃ」

 斑鳩に便乗して、中鷺は梓の足の上をおさえた。

「重い、夢見が悪くなる」

 けっきょく梓はその夜、言った通りに悪い夢を見た。東の国一帯が凍りつき、梓は何者かに追われて、血を流しながら沢を駆けていた。



 十五を過ぎると、梓は寡黙になっていった。段々と顔つきも大人びて、月に何日かは建物を出ず、巫女に付き添われて過ごすこともあった。

 獣や怪魔の害が出ると、梓は駆り立てられるように民のもとに走った。そこで振るわれる薙刀の腕前は、天下一とうたわれた。

 ある日、御渡りに同道した梓は、遠くの嶮を白竜とともに眺めた。嶮に金色の縁取りができる。夕べの肌寒い風がうなじをかすめて、梓は身震いした。白竜はゆっくりと体を起こし、優雅な体をついたてにして、少女を包んだ。揺れる白いたてがみを眺め、梓は目を細めた。

 手元の薙刀に触れる。朱の柄に指をすべらせて、金泥の感触をなぞった。

 ――人の、私の手はこんなにも小さくて頼りない。そして汚れている。

 少しでも東風さまにふさわしくなろうと、がむしゃらに駆けてきた。神子として、東風さまのお役に立っていると胸を張りたかった。けれど、走れば走るほどに身は汚れていく。

 それでもまだ何かが足りない。何かが至らない。そんな気がして胸が騒ぐ――

 白竜は長い首をめぐらせ、思い悩む梓の顔を覗きこんだ。

「何を考えている?」

 梓は無理にも笑おうとしたが、表情はかたく動かせなかった。

「世の人は、私を高潔で清廉な【神子】と信じています。でも私は、ただの人間の娘です。つまらないほど普通の人間です」

「奇遇だな。私も、霞を食み殺生はしないと信じられている。故に、私の食事を見ることは禁忌とされている。たとえ生き馬を贄に捧げたとして、実際にそれを引き倒して生きたまま食うような神を、人は信仰しない。事実は失望や恐れを招く……だから勝手に理想を思わせておけばいい」

「私に、人に神子は勤まるのでしょうか」

 白竜はおもむろに前肢を持ち上げた。梓の鎖骨に、石英に似た爪があてがわれた。

「人間は弱い。桃の皮のような肌を少し裂けばたちまち死ぬ。あらゆる病にかかる。言葉を取り繕い、心では裏腹のことを考え、己の欲に苦しみのたうつ」

 白竜は首をもたげて嶮を眺め、消えゆく光を見送った。

「東西南北の守護竜は人間のために在る。力はすべて鎮守する国の民のためにのみ尽くすもの。自衛にすら力を割かぬ故に、騎士や神子を側に置き、これを竜の爪牙として遣わす……しかし、人は脆い」

 ひとすじの柔らかな風が流れた。梓は白竜の傍で同じ景色を眺めた。

「梓よ、お前がこれ以上傷つくのは耐えられぬ」

「東風さま?」

 一陣の風が吹き抜けたあと、梓はひとり花咲く野に佇んでいた。



 ――東風さまの奇跡は癒しの力。あの方は戦うようにはできておらぬ。だから、牙が要る。爪が要る。東風さまに代わって戦う者が必要だ。

(その私を守るなど、道理ではない)

 梓は斑鳩の背から命じた。

「中鷺! 雀躍と河鵜を手伝ったら、追ってこい」

 梓の影から白い影が飛び出していき、後方の怪魔の群れへ向かっていった。

「梓、血を流し過ぎたな」

「構うものか。まだ、死んではやらない……走れ!」

 梓は薙刀を握りなおした。片手と脚で斑鳩の背にしがみつき、天嶮の尾根を飛び越えた。神域まではまだ遠い。

 途中、五度目に怪魔に道を塞がれたとき、梓と斑鳩は背後に咆哮を聞いた。

「中鷺……抜かれたか」

 怪魔の親玉よりも恐ろしい、あれが追ってくる。

「梓よ、あれが空を飛び越さず地を踏んで追ってくるは、神域の場所を知らぬがゆえじゃ。このまま神域へ走れば案内してやるようなものぞ」

「わかっている。だが、我らがあの化け物と戦うには、神域の砦と人手が必要だ。あれを仕留めるためにも、神域へ……」

 梓が脚で斑鳩を急かしたとき、背後のあれが凍れる息を噴きだした。

(だめだ、斑鳩の足でも避けられない)

 斑鳩はとっさに梓を振りおとし、その身を盾にしようと進み出た。梓がやめろと叫ぶとともに、不意に、目の前の山道が大きく盛り上がった。

「梓どん!」

山鴨(やまがも)

 山男とも岩男とも呼ばれるそれは、土くれの体に苔や木々、岩などを生やして、小山のように立ちはだかった。最初の怪魔の群れとの交戦で、壁として置いてきた遣怪魔だった。

 山鴨はあっというまに氷漬けにされ、その声は絶えた。梓と斑鳩は、そのわずかな合間に次の尾根へと跳んだ。

「怪魔の力を以てしてもかなうはずがない。あれも竜じゃ」

 斑鳩は肩をうねらせ、山道を風のように駆け抜けた。その背で梓は薙刀を握りしめた。

「竜はこの世に四柱……あれもまた、どこぞの国の守り神ではないのか」



 ――あれは十三の時だったか。

 斑鳩と中鷺の力も借りはしたが、梓は怪魔師を堂々と名乗れるほどに遣怪魔を従えるようになった。

 竹林で出逢った赤毛の大虎、雀躍。沢で出逢った怪鳥、河鵜。総出で崖に追いこんで、やっと仲間にした山鴨。

(主従だ、遣いだというけれど……姉さまたちのように、私のそばにずっとついていてくれた。この子たちは私の仲間、私の家族だ)

 梓は揺られながら、目を覚ましてうなった。

「少し眠ったか」

「覚えがない。ほんとうに血を流し過ぎたらしい」

 梓は体を起こしてはじめて、異変に気づいた。

 斑鳩は足を引きずり、危なっかしく体を揺すりながら走っていた。手をやれば、肩やわき腹の黒い被毛の下にじっとりと血がにじむ。

「斑鳩」

「なあ梓よ、神域に血みどろの獣が参じて咎められはせんか」

 斑鳩は冗談めかして笑い、どおと倒れた。投げ出された梓は、這い寄って斑鳩にすがり、その後ろ肢が一本欠けていることを知った。

「斑鳩、影へ戻れ」

「捨て置け。少しはここで彼奴らを足止めしてやろう。(あらご)うて、力が()うなっても、餌にでもなって時を稼ぐ」

「戻って」

「ほれ、喋る間があったら行け。人間の足など遅くてあくびが出る。黒い竜に追いつかれとうなかったらとっとと行け……俺は悔いてなどおらん」

 梓は往く道を振り返った。神域は、どうやらすぐそこであるとわかった。

「斑鳩、もう少しだけ踏ん張れ……ひとりにしないで」

「我らが梓は、はて気弱な娘じゃったかのう。ひとりで震えておるは、お前の好きな東風さまとて同じことじゃろう。行ってとくとく務めを果たせ。さもなくば中鷺も報われん」

 梓はようやく泣きぬれた顔をあげて、斑鳩の頭を撫でつけた。薙刀にすがって坂をのぼる。

「幾度も俺は犬ではないと言うたのに……おかしな娘じゃ。夜毎、遣いをみんな影から出してともに眠ろうと言ったり、ともに飯を食おうと言ったり……」

 斑鳩は震える三つ足で立ち上がり、背後に迫りくる怪魔の群れと相対した。

「やれやれ……あの娘は貴様らなんぞにくれてやらん。この犲が、雑魚相手に窮して膝をつくと思うなよ」



 梓は神域に駆けこみ、警備を整えさせ、尼僧をはじめとした戦えない者たちを避難させるよう伝えた。山伏と僧兵は即座に情報を伝播し、神域を囲う一帯の社は堅牢堅固の砦となった。

「梓、下はどうなっている」

「私とともに討って出た者は、みな死んだ」

 僧兵たちは戦慄した。

「東風さまをどこぞ安全な場所へ」

「もはや安全な場所などあるものか。それに神域の外へ一歩出れば、東風さまはお力を存分にはふるえない。危険だ」

 ざわめく僧兵たちの言葉を、梓は薙刀の柄のひとうちで黙らせた。

「東風さまは私がお守りする。皆には黒龍を頼んだ」

 僧兵たちは口々に応、と返事をしたが、彼らの顔は憂いに沈んだままだった。梓は尼僧の肩を借りて霊域へ進み、洞窟の壁にもたれて別れの言葉をかわした。

「姉さま、どうぞお達者で」

「そなたにご加護がありますように」

 最後まで、尼僧は梓のために涙を流してくれた。

 梓は薙刀を頼って洞窟をぬけ、霊泉に横たわる白竜の前に額づこうとして、横倒しになった。水面はやわらかく梓の体を受け止めた。

 白竜はゆっくりとその体を起こし、梓の額からつま先まで、朝霧のように透き通った息をかけた。

「この様を恥じております……ですが必ず、この身にかえて東風さまを」

「ばかな娘だ」

 白竜はその手で梓をつかまえると、胸に抱きこんで離さなかった。梓は一瞬、息をすることも忘れた。

「東風さま、お体が汚れます」

 白竜は梓の体温を確かめるよう、腕に力をこめた。純白のたてがみが柳の葉のように梓を覆う。

「なぜ逃げなかった」

「東風さまをお守りせずして、何ぞ私の在る意味がありましょうか。私は神子としての誇りにかけて」

 白竜は梓の言葉をさえぎり、いつかの夕暮れ時に聞いたような、優しい声音で語った。

「肉断ち、山の行、怪魔師の修行、悪漢どもの討伐、怪魔の討伐、他国の竜の侵攻。これだけ恐ろしいめにあっても、お前は私を守ると言って聞かぬ」

「どうかお守りさせてください。お放しください、東風さま」

「この私が小娘などに守られるほど落ちぶれていると言うか?」

「東風さま、お放しください!」

 絶望の羽ばたきが聞こえてくる。洞窟に手がかかり、それが乱暴に入り口をひろげた。飛び散る石のつぶては、白竜の放った風によって弾かれた。

 ぬうと黒龍が現れるや、梓は手首をかえし、薙刀の切っ先を敵へ向けた。

「東風さま。すべての行を終え、神子となった私です。私の勤めを、私の誇りを、私の命を……どうか、真に神子として死なせてください」

 きっと白竜を仰ぐ梓の目に、一瞬、白竜はたじろいだ。白く美しい手がゆるんだ刹那、梓は身を躍らせて黒龍に斬りかかった。薙刀の一突きを食らわせると、黒龍は脇腹から血を流して吠えた。さらに刃を薙いで、鱗に覆われた腕を斬りつける。梓は続けざまに首を狙うが、暴れる黒龍の尾をくらって岩壁にしたたか打ちつけられた。

 ぐったりと地面に這う梓に、黒龍は闇のような口をあけて針のような冷気を浴びせかけた。

「やめぬか、ノーザンネイル!」

 白竜が飛び出した時には遅く、梓は指先まで凍りついていた。

「もういい」

 白竜は梓を壊さないようにすくい上げ、胸に抱いた。

「もう充分だ」

 ――東風さま。梓には身に余ることでございます。

   傷も、何度も癒していただきました。

   お側に置いていただき、声をかけていただき……

   もう少し、頼りがいのある神子で在れたなら……

 氷の中心から伝わってくるわずかな熱に、白竜はうん、と一度頷いた。

 ざわり、ざわりと、水に揺らぐように白竜のたてがみは踊った。怒りに燃える双眸はきっと黒龍をねめつけ、その向こうにいる何者かに呪詛を吐いた。

「我ら竜の恨みを受けて、まともに生きも死にもできぬと心得よ」

 白竜はわずかに身をこごめた。梓と同じように、ひとりでに、白竜は左肩から凍りついていった。

「エストホーン」

 どこからか声が響いた。

「貴方の体をいくら八つ裂きにしたところで、霊域の力と超回復の能力がある以上、殺すことは叶わない。しかし貴方の気まぐれに救われた。その娘が過去に負った傷は、本来であれば死んでいたほどに深い傷。それを癒すために、貴方は魂の半分か、それ以上を娘に分け与えた……【分霊(わけみたま)】と成った娘の体を砕けば、不死身の竜も殺すことができるというわけだ」

 白竜は徐々に凍りつく体をくねらせ、梓を祭壇に横たえると、ぐるりと黒龍に巻きついた。

「目を覚ませノーザンネイル。お前の国は、姫君はどうしたのだ」

 白竜は美しい涙を落とした。黒龍の双眸に涙が入ると、黒龍は苦しみだし、白竜は祭壇の前に投げ出された。もはや白竜には振るう力もなく、白い体は霊泉のなかに沈んでいく。

「東風さま」

 梓はわずかにでも動かせる、足でも手でも使って身をよじり、祭壇から霊泉に落ちた。沈みゆく白竜の体にすがる少女は、しかし、乱暴に水をかき乱す黒い影によって白竜から引き剥がされ、連れ去られた。

「追え」

 何者かの声が命じると、黒龍は咆哮をあげて梓と黒影を追う。

 霊泉のなかで、白竜は静かに息絶えた。

「……負傷を肩代わりし続けて、先に竜の寿命が枯渇したというわけか。分霊のために命をすり減らすとは滑稽だ。貴方らしくもない、エストホーン」



 梓は斑鳩の背に負われ、耳のかけた中鷺や、わき腹にひどい傷を負った雀躍や、翼をもがれた河鵜に守られて山を下りた。途中、黒龍が追いすがってくるたびに、仲間は一匹ずつ減っていった。

「兄者よ、これで梓を守れなければ祟ってやるからな」

 軽口をたたいた中鷺に、梓は届かない手をのばす。

「行くな、中鷺……」

 そうしてとうとう、梓と斑鳩だけになった。

「私は……東風さまをお守りできなかった。お前たちも守れない。私には、命懸けで守られる価値などない……捨て置け、お前の足なら逃げられる」

「死にかけてもうるさい娘じゃ。今すぐ頭から食ってしまうぞ」

 斑鳩はけらけらと笑い、不意に、梓を放り出した。梓の体は土くれの手に受け止められた。

「山鴨、梓を預けたぞ!」

「おいきた!」

 見れば、黒龍はすぐそこへ迫っていた。角が欠け、胸や腹からは血を流し、翼も破れていたが、倒れる気配はなかった。

「だめだ、斑鳩! 一緒に」

 斑鳩は巨大な竜に向き合い、背中越しに梓に言った。

「愉快じゃったな、梓」

 山鴨が走り出したので、梓はもう、斑鳩の姿を見ることさえできなかった。山鴨は走り、目もくらむような谷底へと飛び込んだ。土くれの体を丸めて、苔や木の葉の柔らかなところを集め、梓をくるむ。落下していく山鴨のなかから、梓は叫んだ。

「山鴨、何をしている! お前っ」

「おいも、悔いはねえだな」

 強い衝撃があったはずだが、梓の体にはわずかな響きが伝わっただけだった。もの言わなくなった山鴨の体を掻き分けて外へ出ると、沢のふちに、土だの岩だのの小山ができていた。

「山鴨」

 梓は絶望したが、山鴨の残骸から枝をとって、深い森へと歩き出した。

 ――生まれてから、今まで。

 梓は怒涛のような十五年間を振り返り、僧たちや仲間のことを想って涙ぐんだ。白竜のことを想えば足から腕から震えて、立っているのもやっとだったが、それでも歩きつづけた。梓を置いていってしまった者たちとともに死にたい、という思いを振り払いながら、梓は歩いた。

 ――守られた命なら、せめて、自分の身ひとつくらい守り通してみせる。それに何故だか……すぐ傍に、東風さまを感じる。

 梓は両目からとめどなく流れる涙をそのままに、かつては緑に彩られていた、谷底の国跡を歩いた。焼き払われた民家、氷漬けになった家畜や人々。

(もし、私のなかで東風さまが生き続けているというのなら……今度こそお守りしよう。斑鳩、中鷺、雀躍、河鵜、山鴨。お前たちのためにも必ず生きよう)

 梓は三つ編みの房を撫で、蹂躙された東の国を出て、宛てもなく歩き続けた。

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