西の琥珀
西の国は唯一、守護竜の代替わりを経験した国である。次代の竜が守護に据えられて5年、いまだ、幼い竜に国を守る者の威厳はない。
子どもは大いに遊び、尽きない好奇心のままに動き回り、さまざまを学んで成長していくものだ。
「ガウェーン!」
甲高く叫びながら、竜の子は赤土の丘をかけ降りる。四本の脚をばたつかせ、時に足がもつれながら、転げるように斜面をくだる。
「ガウェン!」
竜は青銅の鎧をまとう騎士に突進していく。子どもとはいえ、成牛ほどの大きさがあり、硬い鱗に覆われた筋肉の塊だ。騎士はさっと身を引いてやり過ごした。
「危ないですよ、ウェスタンテイル」
「えへへー」
無邪気に笑うウェスタンテイルは、赤と黄の美しいグラデーションに染まる鱗を持つ。その尾には琥珀や瑪瑙が輝いていた。成長すればいずれ、四国一の逞しくも美しい守護竜になるであろう。
「ティル」
優しく、親しげにウェスタンテイルを呼ぶガウェンを、ティルはじっと見つめた。黒髪が乾いた風に揺れ、流れていく鉄蜘蛛の糸を思わせた。
「もう、神殿に帰りましょう」
「やだっ」
――もっと一緒にいたいよ。
ティルはパッと身をひるがえした。大きく振れた尾が空気をないで、もう少しでガウェンの頭を砕きそうになる。間一髪でガウェンは鉱物の尾をかわしたが、ティルはそれに気づきもせず、あっという間に丘をかけ上がっていった。
「おいら、もうちょっと外で遊びたいよ! ……いいでしょ?」
無邪気に首をかしげ、前屈みになって尻尾を振り、ティルは懸命に「友達」を遊びにさそった。
「だめです」
しかし、ガウェンの言葉は覆らない。
――わかってたさ。
ティルはしゅんと項垂れ、うらめしそうに東の空をねめつけた。
「朝ってどんなかな」
トボトボとガウェンの横を歩きながら、ティルはこぼした。
「昼って、どんなかなぁ。夜があけて、世界がぱーっと明るくなって……どんな景色なんだろう。見てみたいよ、ガウェン」
――たとえ、眩しさに、目がつぶれてしまったっていい。罰があたってもいい。自分には許されない光の世界を、たった一度でいい。見てみたい。ガウェンと一緒に歩いてみたい。
「君に不要な知識を吹き込んだ兵士は、もう君に会うことはできなくなりました。彼をかわいそうだと思うなら、これ以上わがままは言わないことです」
ちぇ、とふてくされながら石の門をくぐり、ティルはガウェンに伴われて、地下への階段をおりていく。地下水の湿気がまとわりつく、冷たく暗いあなぐら。その最奥にウェスタンテイルの【玉座】はあった。
「ねえ、行っちゃうの?」
頑強な檻のなかへ自ら入り、出入口に結界をほどこすガウェンの所作を見守りながら、ティルは鼻を鳴らした。
「また、夜まで会えないの? もっと一緒にいたいよ」
地面に頭をすりつけるティルに、ガウェンは苦笑を返した。
「あまり私を困らせないでください。おやすみ、ティル」
「……おやすみ、ガウェン」
去っていくガウェンの後ろ姿を、ティルは見えなくなっても見送り続けた。
ティルは1日の大半を眠って過ごした。
泣いてもわめいても誰も来ないし、檻から出してもらえない。貢ぎ物を持ってくる兵士を恐がらせてしまうだけだ。誰も恐がらせないようにするには、おとなしくしていることが一番だった。鉄蜘蛛の糸から鍛えた鎖につながれ、自由のない檻のなかで、日がな一日眠って過ごす。
――夜になればガウェンが、おいらの騎士が迎えにきてくれる。それまで夢を見よう、明るくてあたたかい、真昼の夢を……
西の国の人々は竜を恐れていた。畏敬にとどまらない恐怖は、先代の守護竜によって深くその心に刻まれていた。
先代の竜は気性が荒く、しょっちゅう噴石の雨を国に降らせた。【竜の癇癪】という天災は、一月に十数人の死者を出した。守護竜をいただいて以降、戦争時代を凌駕する憂き目をみたのが西の国だ。
一風変わった町並みが、当時のすさまじい暮らしぶりを物語る。家々の屋根は硬い岩盤や金属で補強され、街道はアイアンクロム製の屋根に覆われ、噴石をものともしない造りになっていた。
外出前に足を交差させて祈る儀式は、元は噴石よけのまじないだった。今ではろくに意味も知らず、子どもたちが親の真似事をして足を交差させている。
いわば西の国にとって竜とは、起こしてはならない休火山だった。
そんな暴虐の竜も、自らの行いに費やした膨大なエネルギーの代償をはらい、竜としては短い50余年の生涯を終えることとなった。
竜は基本的に無性であり、魔力の結集によって生じる。西の国の竜の場合、生命を宿す媒体は【鉱石】であった。額や背中、尾など、竜の体に生じた無数の美しい鉱石のなかに、次の竜の魂が宿る。
悲劇をくり返してはならないと祈る神官たちは、最も魔力の通わなかった、尾の先端にある鉱石に幼体を見つけた。天命だと彼らは歓喜にうち震えた。額の宝石に宿った最上の命を屠し、神官たちは【くず石】の幼竜を生かした。与えるものも石炭や不純物の多い鉄など、徹底的にその発育を遅らせた。
そうして野の獣同然の竜、ウェスタンテイルが生まれた。ティルは癇癪を起こしたところで、火山を噴火させるような力はない。人知を逸した怪力や頑丈さはあるものの、本来の竜と比べれば非常に脆い体だった。
神官たちの、ひいては西の国の民たちの望みどおり、ティルは人に危害を加えうるあらゆる力を失って生まれ、今日までひっそりと育てられてきた。
ある日、洞窟に閉じ込められたティルを人間が訪ねてきた。
「ガウェン!?」
喜び勇んで立ち上がったティルは、近づいてくる人影がずいぶん小さいことに気づき、うなだれた。
(違う。ガウェンじゃない)
ティルの騎士は、長く姿を見せていなかった。
「貢ぎ物?」
ティルが尋ねると、人間はびくっと体を震わせた。祭壇まで近づいてようやく、それが少女であることがわかった。
「きょうからウェスタンテイルさまのおそばにつかえます、ハルともうします」
少女は声を震わせ、深々と頭を垂れた。ティルは首をもたげ、目を細めた。
「ねえ、もっとこっちへ来てよ。おいら、目が悪くなっちゃったんだ。君の顔が全然わからないよ」
少女はひ、と鋭く息を吸い、ためらうように数歩、ティルの檻に近づいた。
「もっと近くに来て」
ティルの耳に、少女が生唾を飲みこむ音や、ふうふうと息を荒げる音が届いた。じれったい動きで足がこちらに向かう。少女が檻の間近に立つと、ティルは立ち上がって自分から顔を近づけた。
「きゃああ!!」
少女は聞くも恐ろしい悲鳴を上げた。命の危機に、自分の身を守るために上げる本能の悲鳴だった。
ティルはたじろぎ、一歩、また一歩と退がった。心臓のあたりが冷たくなっていくのを感じた。
「ああ……あ、あ」
少女は言葉を失うほど怯え、膝や肩を大きく震わせながら、必死に檻から遠ざかろうとしていた。額や首筋にたくさんの汗をかき、前髪や襟元がぐっしょりと濡れていた。
「ごめん、恐かった?」
――ガウェン以外には、急に近づいたり、触ろうとしたりしてはいけない。大きな口を開けてみせたり、尻尾を振りまわしたりするのもいけない。
おいらが気をつけないと、ほかの人間を恐がらせるから。
「もう近くに来てなんて言わないよ……おいら、ここから動かない。だから置いていかないで」
ティルは前足を折ってうずくまり、檻の向こうの少女に懇願した。
「独りにしないで。すごく淋しかったんだ」
少女は側仕えだと言った。ガウェンも同じことを言っていた。だから、この少女が新しく友だちになってくれるのかもしれない。ティルは期待をこめて尋ねた。
「ねえ、側仕えって、ずっとおいらの傍にいてくれるんだよね?」
少女が頷いたので、ティルは無邪気に喜んだ。嬉しくて飛び跳ねそうになるのをがまんして、少女をこれ以上恐がらせないように、遠慮がちに笑みを浮かべるだけにとどめた。
(よかった、もう独りじゃない……一緒にお喋りして、一緒にご飯を食べて、目が覚めてももう独りじゃないんだ)
安堵するティルの弱った目には、憎悪と悔しさに歪む少女の表情までは映らなかった。
西の国には、守護竜に【側仕え】の少女をつける風習があった。
【側仕え】になる少女は、噴石によって両親が死んだ孤児から選ばれ、守護竜に献上された。少女たちのつとめはただ一つ。守護竜の怒りを、命をもって鎮めることだった。別の言葉では【生け贄】という。
ティルの食事は主に鉱石で、貢ぎ物も大半が鉱石だった。ハルの仕事は、そうした貢ぎ物を管理することが主だった。ハルは、鉱石を積んだトロッコを運びいれたり、石炭や鉄を分類したりする以外には、壁際の椅子にかけてじっとしていることが多かった。
ティルは格子の隙間から鼻を突き出し、祭壇の近くにいるハルのにおいを嗅ごうとした。
(疲れてるのかな、眠ってるのかな)
目よりは鼻のほうが利く。健康かそうでないか、悲しんでいるか反対か。今、何を考えているのか。知ろうとしたが、ハルからは感情が嗅ぎ取れなかった。
(心のにおいがしない……ガウェンとおんなじだ)
ティルにはかえって、大好きな騎士のことが思い出され、安心できた。
毎日を過ごすうち、ティルは寝ても覚めてもハルのことを考えるようになった。
――もっと話したい、もっと知りたい、仲良くなりたい。
「ハル、遊ぼうよ」
「ハル、君のことを聞かせてよ」
「ハル、おいらの話をしてもいい?」
「ハル、そこにいる?」
「ハル、ねえ……」
しかし、いくら話しかけても、ハルは決まった返事しかしなかった。
「それはできません」
「はい」
「いいえ」
そのくり返し。ティルはつまらなくなり、ぼそっとこぼした。
「あーあ、外に出たいなあ」
すると、ハルは勢いよく椅子から立ち上がった。
「だめです」
ガウェンより、ずっと切羽詰まった言い方だった。
「おねがいですから、もうにどと、外へ行きたいなどといわないでください」
「どうして?」
ハルは困惑し、苛立ち、服の裾を強くにぎりこんだ。それから視線をティルからそらして、地面へ吐き捨てるように言った。
「それは……わたしがこまるから」
「……わかったよ」
ティルはおとなしく引きさがった。ハルに嫌われたくなかった。
彼女の心は怒りや焦りに揺らいでも、相変わらず感情のにおいがしない。ティルは心細くなり、徐々にその口数や食欲は減っていった。
積み上がった鉱石を眺めて、ハルはおどおどとティルに話しかけた。
「あの、すこしでもいいのでめしあがってください」
ひどく緊張した声だった。ティルはのそりと頭を上げたが、すぐに地面に伏せてしまった。
「わたしがいけなかったのでしょうか」
ハルは泣きそうになりながら叫んだ。
「おねがいです、何でもします。今までのぶれいはあやまります、ごめんなさい。おねがいです、食べてください……おねがい」
ついに泣きだしたハルから、感情のにおいが溢れてくる。それはティルを気遣う慈しみではなく、何かに対する焦りと怯えだった。
「ハルは、おいらに貢ぎ物を食べてほしいんだね」
ぎくり、としてハルが泣きぬれた顔をあげた。腹の底に何かを抱えたまま、ハルは気まずそうに何度も頷いた。
「わかった、食べるよ」
ティルはのそりと立ち上がり、祭壇に近づいた。ハルは至近距離から逃げることなく、せっせと、鉱石を檻のなかへ転がした。焦るあまり、鉱石はあちこちへ散らばっていく。ティルが転げていく鉱石を追って、それをついばみはじめた時、洞窟の入り口で誰かが怒鳴った。
「何だ、このざまは!」
「ひっ」
ハルは小さく悲鳴を上げて硬直した。乱暴な足音が近づいてくる。カンテラを手にした兵士だった。
「トロッコがまるで手つかずじゃないか! いったい何をしていた!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ハルは身を守ろうと体をこごめたが、兵士は彼女の細い肩を掴み、無理やりに立ち上がらせた。兵士はちらりとティルに目をやり、檻のそばからハルを引きずっていこうとした。
「ウェスタンテイル様、申し訳ありません。お食事の介助を怠けるなど……満足にお世話もできないこの者は即刻処罰し、新しい側仕えをご用意いたします」
「待ってよ」
ティルはとっさに檻のすき間から手をのばした。爪の先がハルの服に引っかかった。
「ハルをいじめないで。おいら、ちゃんと食べるから」
「守護竜さまがお望みであれば……お前、二度目はないぞ!」
兵士は、ティルの鱗におおわれた手や鋭い鉱石の爪を凝視したまま言った。それからハルを乱暴にうち捨て、カンテラを揺らしながら去っていった。
ティルはハルの裾から爪をはずし、檻のなかに手を引っ込めた。いつまでも触っていたら、ハルを恐がらせてしまう。
「ごめんね、ハルが叱られるなんて思わなかった。もうわがまま言わないよ、貢ぎ物はちゃんと食べるし、外に出たいなんて言わない……ハルを困らせない」
――だから、側にいてね。
その言葉を、ティルは鉱石とともに飲みこんだ。
(ハルは、おいらの側にいたくているんじゃない。わかるよ、本当はこんな所から出て行きたいんだ。だから、もう側にいてほしいなんて言わないよ)
長く置きっぱなしにしていたからだろうか、鉄や石炭はどれも湿っぽく、苦い味がした。
ティルは不意に目を覚まし、夜半の暗闇でハルのにおいを探った。
(よかった。まだそこにいる。眠ってるのかな)
少しずつ、ティルはハルのにおいを覚えていった。起きているか、眠っているか。恐がっているか、怒っているか、泣いているか。できれば、笑顔のときのにおいも知りたかった。
(どうしたら君は笑ってくれるんだろう?)
いつか、ガウェンのように優しく微笑みかけてくれるだろうか。ティルは背筋をのばし、遠い洞窟の出口を見つめた。
(ここから、おいらから逃がしてあげたら、笑ってくれるかな。でも独りで行かせたら、あの恐い兵士に見つかって、ひどいことをされるんだろうな……)
ティルは自分の体をぐるりと見回した。闇の中でも、ほんのりと鱗や鉱石はオレンジの光を帯びている。
(おいらが一緒に行けば、きっとハルを守れる。だって、みんなはおいらのこと恐がって近づいてこないから……おいらが一緒にいたら、ハルは捕まったりしない……それで、ハルが行きたいところまで送って行くんだ。そうしたら、そうしたらおいらは……)
叶わない夢に、不思議と笑みがこぼれた。自らへの呆れと絶望の苦い感情。いつかガウェンが浮かべた苦笑と同じ顔をして、ティルはゆっくりとうずくまり、目を閉じた。
ティルが寝入ると、ハルは気配を殺して洞窟を抜けだした。都まで続く山道には獣避けのまじないが施してあり、一歩でも外れればすぐさま、ハルは獣の餌食になってしまう。道中は一人きりで監視もないが、道を逸れて逃げ出すことはできなかった。
(生きていれば何とかなる、なんて)
ハルは自分に言い聞かせてきた言葉を、自ら否定した。
(今すぐ死ぬか、すこしあとで死ぬか、それだけのちがいじゃない)
すべてを諦めた少女は、都の門をくぐり、兵士の詰め所を訪ねた。そこには、本来ならばハルなどが姿を見ることもないであろう騎士長がいて、ハルはその向かいに座った。
「娘、あの竜の気まぐれに付き合わずともいい。きちんと食事は摂らせよ」
「はい……」
ハルは服の裾をぎゅっと握った。
「鉄と石炭のみを与え続けることで、あの竜の力を極限まで抑えこむことができる。いずれはただの石くれだけを与え、生きる屍を完成させるのだ。戦争のないアルデバランにおいて、もはや守護竜は、ただ生きてそこに座っているだけで良い代物。奴に力など必要ない」
「はい」
騎士長は従者を呼び、ハルに少女らしい衣服を与えた。
「バケモノと暮らすのは心が折れようが、娘らしい支度でもして気を紛らわせるといい。守護竜を油断させて充分に弱らせることができれば、そこからは兵士の仕事だ。お前は晴れて自由、それも、騎士の養女として身分が与えられる。学校にも通うことができる」
「……はい!」
ハルは、フリルやリボンのついた可愛らしいワンピースと、丈夫な革のブーツとを抱きしめ、つとめて笑顔で応えた。騎士長のかたわらには、ハルを引き取ってくれるはずの養父が、立派な甲冑を光らせて立っていた。
ハルは詰め所の出口で深々と頭をさげ、山道を神殿へと戻っていった。
薄汚い身なりの少女が去ると、養父候補の騎士はふう、とため息をついた。
「いささか不憫になってきました」
「では、本当にあの娘を養女に迎える気にでもなったか?」
「まさか。ですが……お前は真実、生け贄なのだと教えてやったほうが、あの娘も救われるでしょうに」
帰路、ハルは山腹を途中まできたところで、立派な仕立てのワンピースを思いきり地面に叩きつけた。それから何度も何度も、美しい衣装を真っ黒な足で踏み潰した。いい加減土まみれにしたところで、ハルはその服を抱き上げて泣いた。
(ばかにして。ばかにして!)
解放の話も、養女の話も、どうせ詭弁だ。16にもなって読み書きもできない浮浪児を、誰が本気で面倒をみようと言うのだろう。心も荒みきって、盗みや脅しで食べてきた。
(とうさんもかあさんもにくい! どうして、わたしばっかり)
両親は、幼い頃に強盗によって殺された。ハルは丘に遊びに行っていたために、たった一人、生き残ってしまった。
――だから、すべてをにくんで生きてきた。
言葉や所作を教えられ、名誉ある竜の【側仕え】に選ばれた時は、何かが変わるのかもしれないと期待した。だが、けっきょくは。
ハルは涙を拭い、感情を殺して洞窟に近づいた。入り口を少し入ったところで、ワンピースの土を払い、ズタ袋のような服を脱いだ。高価な衣装はさぞ似合うまいと思っていたが、ワンピースに袖を通したハルは、水鏡に映した姿にしばし見惚れた。
(わたしも、ふつうの女の子だったら、しあわせになれたのかな)
また涙が溢れてくる。流れるままに放っておくと、檻のほうで身じろぎする音がした。
「ハル、そこにいる?」
「……はい」
「泣いてるの?」
ハルはぎくりとして、慌てて袖で涙を拭った。
「いいえ」
ティルはそれ以上なにも聞かなかった。ハルの背後の闇で、竜が静かにうずくまる気配がした。
翌朝、ティルは祭壇の近くにいるハルを見とめ、ほっと息をついた。それからためらいがちに尋ねた。
「ねえ、ハルはどこかに行きたい?」
ハルは静かに動きをとめ、じっとティルを見つめ返した。ティルにはその表情がなんとか見えた。大きな亜麻色の目がこちらを向いている。
「どこへも」
ハルは首を振った。
「それに、どこにも行けません。あなたとおなじに」
自嘲をふくむ、いびつで乾いた笑みだった。
(こんな風に笑う人間、おいら見たことがなかったよ)
ティルの心は痛いほどに締めつけられた。ハルからは、凍てつく冬空のように、澄みきってキリキリと冷たいにおいがした。
――ハル、おいらのことが嫌い?
その言葉は胸につかえて出てこない。ぐっと心の奥底へ押しこめると、息苦しくて涙が出そうだった。
(おいらが竜だから?)
うなだれたティルの目から、美しい水晶の破片がこぼれ落ちた。
足枷は何度か交換したが、鉄蜘蛛の糸を鍛えた鎖は、幼い頃からずっと同じものだ。その長さは変わっていない。しかし、幼い頃に届かなかった鉄格子に今は届く。鼻先や手を向こう側に出すこともできる。
ティルは確実に成長していた。鱗はより硬質になり、鋼の剣を打ち付けあうような音が、体をしならせて歩くたび洞窟に響く。足は太く、爪も長く。成竜と比べれば未だ頼りないが、その体は大きく、逞しくなっていた。
ティルの心もまた、体に遅れながらも成長していた。
――この手が、体が、人間を傷つけてしまうものだから、彼らは自分を恐れる。自分さえおとなしく従っていれば、人間たちは安心して暮らせる。
(そうしていつか、おいらが危害を加えないことをわかってくれる。恐くないとわかってもらえる。そうしたら……仲良くしてくれるかな)
四肢から爪をのこらず剥ぎとり、口をこじ開けて牙を折ってくれていい。鱗をぜんぶそぎ落とされても構わない。彼らを傷つける【武器】さえなければ、もう少し、人間たちは歩み寄ってくれるかもしれない。
ティルは水晶の涙を尻尾で払い、笑顔をとりつくろってハルに向けた。
「お腹すいたなあ。ハル、ご飯ちょうだい」
ハルは頷き、ティルをゆっくりと殺す【貢ぎ物】を檻の中へ差しいれた。
(この竜はわたしのことをきにいっているみたいだ。うまくてなづけたら、あいつらのすきになんてさせるものか……あいつらがわたしをりようするなら、わたしだってりようすればいい)
ハルはほくそ笑み、同時に、ひどく淋しい思いを味わっていた。
「ハル、どこか痛いの?」
ティルが食事を休んで首を傾げた。ハルははっとして首を振る。
「……どうしてそうおもうのですか?」
初めて、ティルに質問を返した。ティルは困ったように笑う。鱗におおわれ、蛇やとかげのような顔をしているのに、はっきりと感情が見えるのが不思議だった。
「無理して笑っているような顔をしていたから。このくらい近かったら、おいら、ハルのことがよく見えるよ」
ティルの表情が、穏やかな微笑みに移り変わる。ハルは気まずくなって下を向いた。
(なにが、よく見える、よ。何も見えてないじゃない)
それから顔を上げて、ハルはぼんやりと、ティルと自分の姿とを重ねた。誰からも愛されず、必要とされたわけでもなくただ利用されている。何とかして生きようともがいている。
よその国でも竜は鎖に繋がれ、地下に閉じ込められて隠されているものなのだろうか。いつか、竜の気晴らしに殺されてしまう、生け贄の少女たちがいるのだろうか。
(わたしも。何も見えてなんかいない。でも、わたしにはこうするしか)
ハルは、ティルを憎みきれない自分に気づいた。竜という存在への恐怖はまだ消えないが、おずおずと口を開く。
「ねえ、それ、おいしい?」
ティルは石炭を飲みこみ、きょとんと瞬きをした。
「うーん、違うの食べたことないから、よくわかんない。でもみんなが一所懸命とってきてくれたんでしょ、だから残さず食べなさいって、ガウェンが言ってた……べつに、まずくもないよ? 鉄は、ちょっとくさいけど」
「たしかに、テツはくさいわ」
ハルは無意識に笑っていた。少女をじっと見つめていたティルも、たまらず笑顔になった。心のわだかまりがとけて、ハルの感情のにおいがようやくあふれてきた。
「ガウェンって、だれ?」
「ガウェンはね……」
ティルはガウェンとの思い出をとおして、これまでの自分について話して聞かせた。何を思い、何を感じたのか、ハルは懸命にその話を聞いてくれた。
「今は会えてないけど、ハルが居てくれるから、おいらちっとも淋しくないんだ。いっぱい恐い思いもさせちゃったけど……ここに居てくれてありがとう」
無垢な笑顔を向けられて、ハルは思わず胸をおさえた。痛くて苦しくて、まともに息ができない。少女は、まだ自分に罪悪感などという人間らしい感情が残っていたなんて、と自嘲した。
「ハル? どうしたの、大丈夫?」
檻の間からティルの手がのびてきたことに気づいたハルは、目を見開き、思わず叫んでいた。
「いやっ」
鱗に覆われた手に、鋭い鉱石の爪。いつかの兵士が恐れたように、ティルの凶器じみた手は、ハルにとって死を連想するほど恐ろしい代物だった。
ティルは、はたと気づいて、あわてて手を引っ込めた。
「ごめん……もうしないよ」
――触れたいと願うことは、相手を傷つけるということだ。
ティルは自分に言い聞かせ、そっと檻の中央までさがった。ハルは立ち上がり、服の裾をはらって、いつもの椅子に戻っていった。
ティルはふと気づいて、遠いハルに声をかけた。
「ハル、その服、前のよりずっと似合ってるよ。すてきだと思う」
お世辞でも何でもない真っすぐな言葉に、ハルは小さく会釈した。
その夜、ティルは、ハルの悲鳴に目を覚ました。
「ハル!?」
頭を持ち上げるとひどく燻くさかった。煙が目にしみる。地面に顎をつけて、ティルはハルのにおいを探った。
「いやだ! あつい、たすけて!」
ハルは、いつもの椅子の近くにいるようだった。そのすぐ近くまで炎が迫っていた。
「だめだハル、湖の近くに行くな!」
ティルは叫んだが、取り乱すハルの耳に届いたかはわからない。
【玉座】の隣に広がる地底湖の水は、人間が体を洗うにも飲むにも使える無害な水だ。しかし、一つだけ普通の水とは異なる性質があった。火をつけると、激しく燃えるのだ。
あっという間に、炎は湖面に滑り落ち、燃え盛った。
「たすけて!」
半狂乱になっているハルは、叫びながら、煙を吸いこんで激しくむせ返った。ティルは身を乗り出し、後ろ肢を鎖に引かれながら言った。
「待ってて」
――君を守るから。
鉄蜘蛛の糸を使った鎖は断ち切れない。それでも全力で引っ張れば、地盤に刺した杭は抜けるはずだ。首をしならせ檻の端から端へ全力疾走すると、地盤を引き裂き、杭が地上へ放り出された。
長大な鉄塊を引きずって、ティルは檻に体当たりした。クロムとミスリルを溶かしこんだ鉄格子が大きくたわみ、残響をともなって激しく揺れる。何度も、何度も突進をくり返すごとに、鉄格子は軋んだが、折れるでも歪むでもなく元通りになってしまう。
ティルは檻の反対側へとって返し、小さな角に力を溜めた。体のなかに溜めこんだ石炭や鉄を燃やし、高温の光を放つことで鉄格子を焼き落とした。無我夢中で、自分にそのような力が備わっていることも、その引き出し方も、何も解っていないまま。
ティルは檻から飛び出し、炎に臆さず、ハルのもとへ駆けつけた。
「ハル!」
「死にたくない、あたし、死にたくないよぉ」
ハルはうずくまり、むせび泣いていた。
ティルは少女の体を覆って、炎と熱を遮った。鼻先がハルの髪に届くかというところに迫る。ハルは、憎悪と怒りとが渦巻く歪んだ泣き顔をあげ、きっとティルを睨んだ。
「食え! あたしをころせ! どうせおまえのようなバケモノは、こんなほのおじゃ死なないだろう!」
憎しみと怒りに支配され、ハルの心は壊れかかっていた。奥底から、冷たくて哀しい殺意の感情も湧き上がってくる。
「……うん、おいら、平気だよ」
ティルはにっこりと笑ってみせた。
「うう、どうせいつかころされるなら、くるしいのはもうたくさんだ! りようされるのもたくさんだ! あたしはっ あたしなんかっ」
ハルは怒鳴り、激しくむせた。ティルはおずおずとハルの口に鱗の手を添えた。
「ごめんね、でもこれ以上、煙を吸わないほうがいいと思うんだ」
ハルは怯え、ティルの手を両手で引っ掻いて外そうとしたが、びくともしない。
「だめだよハル、君の爪が剥がれちゃう」
ティルはまだ笑っている。その、無理につくろった笑顔がしのびなく、ハルは抵抗をやめた。
ティルは中途半端な翼を広げ、尾を巻きつけ、炎の盾となった。背中が熱く、皮がめくれるように疼痛がしたが、ハルには平気な顔をしてみせた。
「おいら、こんな火くらいへっちゃらだよ。絶対にハルを守るからね」
炎は明け方には鎮まり、清浄な空気が洞窟の中へ吹きこんだ。いつもより風を感じるのは、天井まで焦がした炎が、湖の上部に大穴をあけたからだ。
「ハル、もう苦しくない?」
ティルがそっと体を離すと、ハルは頷いた。
「よかった」
ティルは破顔して、その場に横倒しになった。地響きに驚きながら、ハルは慌ててティルの背中にまわった。鱗や翼は容赦なく焼かれ、黒く焦げつき、めくれた皮膚の下から血が流れていた。
「ひっ」
思わず息を飲むと、ティルは細く息を吐いた。
「だめ、見たら、恐いでしょ……ちょっと寝たら、治るから」
ハルは膝の震えをおさえつけ、洞窟の出口に向かって走り出した。ティルは遠ざかっていく小さな足音を聞きながら、水晶を目からこぼした。
(ハル、行っちゃうの? もうちょっとだけでいいんだ……一緒にいたかったなあ)
目を覚ますと、背中がちくちくと痛んだ。起き上がろうとしたティルを、ハルの小さな手が制した。
「だめ、ねてて」
「ハル」
ティルはほっとして、ハルの言う通りにした。それから、間近で見た彼女の姿に目を丸くした。
「どうしたの、ボロボロだよ」
火事の焼け焦げだけではない、切り傷や痣のようなものがハルの腕に目立った。しかも指先は緑色に染まっていて、服は土だらけだった。
心配するティルに、ハルは笑って首を振った。
「やくそうをとってきただけ。何もしないよりはマシでしょ?」
背中をちくちく突き刺すような痛みは、薬草を煎じた液体が、傷口を消毒している痛みだった。
「スカート、びりびりになってるよ」
「ほかに布がなかったんだもの」
薬液を染みこませた端切れは、ティルの大きな背中に貼りついている。
「きのうのことは、竜を生かしつづけることにハンタイしてる人たちが、みつぎもののセキタンに火をつけたんだ、って……きょうからみはりがつくから、もうあんなことはおきない、って」
ハルはティルの頭を撫で、目の前に椅子と山積みの本を持ってきた。
「あたし、ちょっとおべんきょうしてみることにしたから。じゃましないで、おとなしくそこでねててよね」
「……うん」
ティルはきょとんとしてから、嬉しそうに、小さく尻尾を振った。
踊らされて、ばかにされて、利用されるくらいなら。少しはものを知って、読み書きもできるようになって、あいつらを見返してやろう。
――というのは、ほんの建前だった。
本当は、少しでもあなたに相応しい【側仕え】になりたかったから。たくさんのことを勉強して、守られるだけじゃなくて、あなたを守ってあげたいから。
ハルの甲斐がいしい看病は、ティルの火傷が治るまで続いた。鉄や石炭を口もとに運び、そのまま手で貢ぎ物を与え、水を与えた。兵士に頼んで綿布と薬草を買ってもらい、いつもティルの傷口を清潔に保った。
「ほんとうは魔法でもつかえればいいんだけど、竜には、きかないんですって」
そう言いながら、ハルはティルの頭を撫でてくれた。
昼も夜も、ハルは差しこむ陽とカンテラの灯りを頼りに本を開き、熱心に勉強を続けた。地面に枝で文字を書く練習も欠かさなかった。
一カ月も経つと、ハルはすっかり読み書きを覚え、物もよく知って、兵士が舌を巻くほどに成長していた。
そして、時々こっそり洞窟を抜けだし、獣に追われながら、わずかばかりの石英を持ち帰ってはティルに与えた。
「こんなもの、ほとんど石と変わらないわ……もっといいものを食べさせてあげたい」
「ハル、もういいよ。もう充分だから、おいらのために怪我をしないで」
ティルは、土まみれになり、爪の痛んだハルの手をなめた。ざらついた硬い舌が触れても、ティルが鋭利な爪でハルの髪の毛に絡んだ小枝を取り除いても、ハルは叫んだり嫌がったりはしなかった。
ハルは、ティルを恐れなくなっていた。
「あの穴から外へ出られるのに、どうしてまた檻の中へ入っているの?」
ティルの怪我がよくなった頃、ハルは聞いた。
丹念に体をなめるティルの隣に座って、ハルは破けたワンピースに余った綿布を縫いつけていた。
「ケガが治ったらいくつもり?」
「おいらはどこにも行かないよ」
「それで、いいの?」
ティルは体をつくろうのを終えて、ハルのそばに頭をおろした。
「ハルがどこにも行かないなら、おいらもここに居る」
足元に置かれた頭に手をのばし、ハルはいたわるように額の鱗を撫でた。
「ありがとう、ティル」
ティルは前足をのばし、頭をハルに擦りつけるようにして目を細めた。この頃のハルからは、天窓から差しこむのとおなじ、陽だまりのにおいがした。ハルの心が穏やかだと、ティルの気分も穏やかになった。
「お礼を言うのはおいらの方だよ、ハル」
「あたしたち出逢ってよかったわよね。お互い、人生捨てたもんじゃないって思えたんだから」
ハルはティルの顎を持ち上げて、自分の膝に乗せた。ティルは幼い頃、ガウェンが同じようにしてくれたことを思い出した。
夜になると、ハルはティルのわき腹を枕にするようになった。月光が差し込むようになった洞窟のなか、カンテラの灯に群がってくる虫たちもいない、ふたりきりの静かな夜だった。
檻のなかにはオレンジの温かい光が灯っている。ハルは、ティルの尾に生えた鉱石の明かりで本を読んでいた。やがて、ハルのまぶたがゆっくり閉じ、その手から本が滑り落ちると、ティルはそっと鉱石の尾を遠ざけた。
本の表紙には『西の国の歴史』とあった。
ハルの寝息を聞いていると、ティルの心にさざ波が立った。側に人の体温がある安心感と同じだけ、ティルは切なさを覚えた。
――いつか、離ればなれになる日が来るとわかっているから。
ティルは、ハルを守るように首を回し、目を閉じた。そうしてハルの心音に耳を澄ませているうちに、思考はまどろんでいった。
(ひとりじゃない夜は温かい。おいらが欲しかったのは自由でも、力でもなくて、この温かさなんだ)
ハルは二年前までの暮らしを夢に見た。
口にするものはおろか、眠る場所さえない。兵士が巡回しているので同じ場所に留まって休むことすら叶わない。かといって都の外に出れば、たちまち獣の餌食になってしまう。
その日々でハルは考えていた。行こうと思えばどこへでも行けるはずなのに、この足はそう長く歩いていられない。働こうにも、子どもには仕事がこない。いつものように盗みを働こうにも、腹に何も入っていなくては力も出ない。
――温もりとはどうしたら手に入るものなのだろう。
ただ道端にくずれて死を待っていた時、ハルは騎士に目をとめられた。
一方で、ティルもまた同じ頃の夢を見ていた。
――温もりとはどうしたら与えられるものなのだろう。
生まれながらに言葉や文字に不自由せず、住む場所と食べる物に困ることもない。自由とは言えなかったが、ガウェンという拠り所もあった。
それでも淋しさが拭われることはなかった。
一人と一匹、優しさがどんなものかも知らずに求めていた者たちは、いま、お互いの温もりを自覚しはじめた。
それから半年すると、ハルはすっかりあか抜けて、都で報告を聞く騎士たちを驚かせた。文字もろくに読めなかった浮浪児とは思えない成長ぶりだった。
ティルはおとなしく四肢をおり、丸くなっていることが多くなった。新調された檻のなか、頑強な杭に直接繋がった枷をはめて眠る。その体は檻のなかで寝返りがうてないほど育っていた。
「ハル、帰ってきた?」
目と鼻はほとんど利かなくなった。音だけを頼りに、ティルは首をもたげた。
「ただいま」
「おかえり」
そのやり取りだけで、ふたりとも心が安らいだ。
夕暮れが迫り、ハルは買い与えられたベッドに座って、羽毛布団を膝にかけた。檻が壊れた直後はティルと一緒に眠っていたが、封印がし直された檻にハルが入る術はない。今は格段に離れたこの場所で見守ることしかできなかった。
祭壇には滑り台式の配給装置がつき、ハルが介助せずとも、ティルは食事をとることができた。
――ティルまでが遠い。
明日になれば、また一歩遠ざかる。ふたりが成長していくにつれて、お互いの距離はひらいていくばかりだ。
「……どうしたの、ハル。泣いているの?」
感傷に浸っていたハルはあわてて顔を上げた。
「泣いてなんかない」
「悲しいにおいがするよ? 何か嫌なことがあった?」
ティルは懸命に首をのばし、鼻先を突きだし、ハルの感情を知ろうとする。だが、鈍った鼻では何もわからなかった。天窓の光に照らされたティルの鱗はくすみ、背中や尾にある鉱石は曇っていた。生きることも死ぬことも許されず、ただそこに体を横たえ、無機物のように存在している。
「ティル、人間が憎くない?」
ハルが呟くと、ティルは微笑んだ。
「どうして? おいら、人間のことが好きだよ。竜は人間を守るために生まれてくるんだ」
ハルは顔をしかめた。
(竜が人間を守る? 先代の竜の悲劇があったから、ティルはこんな目にあっているのに……)
ハルはあの噴石の日々を知っている。家が壊れ、人の心が壊れていった。職は失えばそれきりで、壊れたものを復興する財も時間もなかった。路頭に迷った者は他の者から富を奪った。そうするしか、生きる術はなかった。
(あたしもけっきょくは同じことをするしかなかった。だけど、父と母を殺した奴らは今でも憎い。あたしを助けてくれなかったすべてが憎い。この憎しみは絶対に消えない)
――先代の竜は人間に嫌気がさして、それで滅ぼそうとしたのかもしれない。
「人間なんか守る価値はない。あなたから自由も力も奪って、飼い殺しにするように、ただ生かしておけば守りの加護が得られるといって……自分のことしか考えない、身勝手で残酷な生き物なんだから」
「力なんかいらないもの」
ティルは穏やかに言った。
「ここで鎖に繋がれていれば、みんな恐がらずに近づいてきてくれる。おいらは自由でいるよりも、人間の近くにいたいんだ。ガウェンやハルの近くに」
「竜になんか生まれなければよかったね」
ハルはベッドから下り、鉄格子のすき間から精一杯手をのばした。うずくまるくすんだ黄色の鱗には届かなかった。
人々の悲鳴が遠く聞こえる。地面を震わせる雷鳴。ティルは首をもたげ、枷に繋がれた足を思いきり引っぱった。骨の軋む音、鋭い痛みをともないながら、かえしのついた重い楔を地上に転がした。
「待ってティル、何をしてるの」
ハルは封印された檻の扉の前に立ちはだかった。
「行かせない。だめ、あなたはここにいるの」
しかし、ティルは遠く洞窟の出口だけを見つめていた。
――竜に生まれたくなかった? そのせいで、人間に疎まれるから? そうは思わない。竜として生まれたからこそ、できることがある。たとえ愛されなくても必要とされている。それがおいらの生まれた意味だ。
「呼んでる」
ティルは呟き、額の角を弱々しく光らせて扉に体当たりした。ハルは衝撃と驚きでしりもちをつき、何度も繰り返される体当たりに怯え、祭壇の裏に隠れた。
「あいつらが何をしたか思い出してよ! ティルを檻に閉じこめて、あたしを生け贄に仕立てた。都合がいいように、あたしたちの運命を弄んだ。それなのにどうして? つらいめにあわされて、ひどいことをされて、最後までいいように使われるだけじゃない。どうしてそこまでするのよ!」
行けばティルは無事ではすまない。行かせたくない。だが、ハルの声は届かない。彼女にはティルを止める術がない。
ティルはついに封印を破り、重い楔を引きずって駆けだした。
「どうしていつもティルが犠牲になるの」
ハルはその場に崩れ、叫びは嗚咽に変わっていった。
――喉が焼けるような悲しみが伝わってくる。
空は暗雲に満たされていた。都は荒れ果て、燃えつきた建物が通りを塞いでいた。たちこめる黒煙、風にのる火の粉に彩られた惨劇の舞台で、人々は怒りとも悲しみともつかない叫びをあげていた。
ティルは都には入らず、崩れた門の陰にかくれて様子をうかがった。
「ウェスタンテイル様、お救いください」
人々は劫火に焼かれながら祈っていた。
「助けて」「娘が」「ウェスタンテイル様どうか」「家が」「彼はどこに」
姿のない、朦朧とした人々の声がティルにまとわりつく。
「お救いください」「痛い苦しい」「どうか」
「あの災厄は火山へ向かった」
一斉にうめく群衆の声から、ティルは人々を苦しめる何者かが火山にいることを知った。しなびた筋肉を無理にはたらかせて、ティルは火山の頂を目指して駆けた。
人々に神殿と呼ばれ、長い年月をガウェンやハルと過ごした洞窟を越えて山頂を目指す。
(ハル。おいらのために怒ったり泣いたりしてくれて、ありがとう。一番好きなのは笑った顔だなあ。おいら、ハルのことを想うと勇気がわくよ)
ティルは火口のすぐ近くに迫っていた。人ならば耐えられないほどの熱気が満ち、ティルの弱った目に映る景色は歪んでいた。火山は激しく鼓動し、赤いマグマの飛沫が散るのが見えた。
風向きが変わった。夜空を仰いだティルはようやく、西の国を襲った災厄の姿を見た。噴煙にまぎれながら、立派な翼を羽ばたかせ、それは赤く光る目でティルを見下ろしていた。
ティルは動揺を隠せなかった。宙にたたずむその姿は、まごうかたなき竜であった。なにも知らずに檻の中で過ごしてきたティルだが、本能的に相対するのが何者であるかを理解した。到底敵う相手ではない、ということも。
後ずさりしそうになる自分を制して、ティルは地面に深く爪をたて、なるべく体を大きく見せようと胸を膨らませた。
――おいらが、この国を守る。
しかし、奮い立つティルの肩を優しく押しとどめる手があった。
「ティル、さがっていなさい」
耳に懐かしいその声が通りすぎ、青銅の鎧がティルの前に立った。
「北の国の守護竜よ、なぜ我が国を、民を苦しめるのだ」
熱風に揺らぐ黒髪は乱れ、騎士の利き腕は失われていた。
「ガウェン!」
「いいですかティル、あなたでは、あれには敵わない。私が時間を稼ぎます。あなたは南の国へ行きなさい。南の国には優秀な竜騎士がいると聞きます」
「そんなことできない。これはおいらの役目だ!」
しかし、ガウェンは退きさがらなかった。
「ならば、あなたを守ることが私の役目です。腕とともに竜騎士のしるしを失おうとも、私はあなたの騎士です」
一度に五人の兵士を薙ぐとうたわれる大剣使いでも、たかだか金属片一枚、腕一本で立ち向かうのは無謀だ。竜は格というより、次元の違う存在。それを竜騎士として誰より理解していながら、ガウェンは退かなかった。
「何も言わずにお側を離れて、淋しい思いをさせましたか?」
ガウェンは背中越しに語らいかけた。ティルは、きつく縛り上げた彼の左肩に鼻を寄せた。
「我々は国境の峠で、なんとかあれを足留めしていたのですが……多くを失うばかりで、力及ばなかった」
「ガウェン、どうして黙っていたの? おいらが居れば少しは違ったかもしれない……おいらが居れば、きっとガウェンたちを守ったのに」
「それには国の許可がおりないでしょう。上院議員たちはあなたを信用していない……そもそも、私があなたを争いに巻きこむことを望むと思いますか」
ガウェンはティルを振り向き、緊迫した状況には不釣り合いな笑顔をみせた。
「命は、ひとつきりでは生きていけない。我々は寄り添いあうべきだった」
ティルは何か言おうと口を開いたが、言葉は出てこなかった。
ガウェンは中空に二枚の呪符を放ち、一枚を大剣で斬りつけた。切れた呪符は燃え上がり、大剣に炎の蛇が巻きついた。
守護竜が国を出ることは異例、他国を襲撃するなどは前代未聞のできごとだ。この未曾有の危機から身を守る術を、誰が知っていようか。
「ギシャアアッ」
重い風が噴煙を払い、竜の姿が露わになった。北の国を守護する黒龍は、赤い目を爛々と光らせ、口から白い煙を吐いた。
「先ずは地面へ降りてもらおう」
ガウェンの放った呪符が発光し、空に金の網がかかった。黒龍の翼に光の棘が食いこみ、黒龍は不機嫌なうなりをあげて傾斜に降り立った。
すかさず斬りかかったガウェンの一閃が黒龍をかすめた。稀少鉱石オリハルクロムの大剣は黒龍にかすり傷を負わせたが、それ以上、頑強な鱗を断つことはできなかった。
黒龍は忌々しげに鳴いて口を開いた。漏れだす白い煙は、冷気をおびた水蒸気。それを浴びたガウェンの体は、鎧ごと薄く凍りついてしまった。
火山の熱気のなかでも溶けないその氷を、ガウェンは無理やりに破って黒龍に向かっていく。しかし、黒龍が一振りした尾に薙ぎ払われ、ガウェンは軽々と吹き飛ばされた。隆々とそびえる巨岩に打ちつけられ、青銅の鎧が派手な金属音を響かせた。そのままずるりと地面にすべり落ちたガウェンは、指先すら動かせなかった。
「ガウェン!」
ティルはガウェンの前に身を投げ出した。よく見えないまま走りだし、起伏の激しい地形に足をとられて前足をつく。這うようにしてガウェンと黒龍との間に入り、小さな人間の体を必死で守ろうと、自らの体を盾にした。
「……ティル」
震えて聞き取りづらいガウェンの声に、ティルは耳を澄ませた。
「剣を……お食べ……」
「いいの? ガウェンの大事な剣なのに」
ガウェンは一度、瞬きをして、ゆっくり目を閉じた。ティルはじっと黒龍を睨んだが、黒龍は翼に絡む光の網をとろうともがいている。
――わかったよ、ガウェン。
ティルはガウェンの大剣に食らいつき、その刃を噛み砕いた。鉄と石炭ばかり噛んでいた歯は折れそうに軋んだが、ティルはオリハルクロムを租借し飲みこんだ。ひとかけらが喉を通り、胃に届くたびに、ティルの体温は上がっていった。力がみなぎり、勇気が湧いた。
「ありがとう、ガウェン。あとはおいらに任せて」
ティルはガウェンの体を横たえ、黒龍に向き直った。
「これ以上、おいらの国の誰も傷つけさせない!」
足枷に繋がった重い楔を引きずりながら、ティルは遮二無二、黒龍に突進した。体をぶつけ、爪をかけ、尾にびっしりと生えた鉱石の鎚をくらわせる。しつこい突進に黒龍が体勢をくずすと、ティルは小さな角を黒龍のわき腹に突き立てた。
黒龍は叫び、ティルの腹を蹴り上げた。ティルは仰向けに倒され、そのまま凍える息吹を浴びた。ティルは体内の鉱石を燃焼させて氷を溶かし、黒龍が振り下ろした足をかわした。
もろい琥珀の角は黒龍のわき腹に深々と突き刺さったまま、ティルの頭部からは欠け落ちていた。角は竜の力の生命線ともいえるが、もともと突出した力を持たないティルにとっては幸いなことに、影響は少なかった。
「お前にだって守る国があるんだろ!? おいらたちは人間を守るために生まれてきたはずだ、それなのに、なんでこんなことするんだ」
いくら呼びかけても黒龍に声は届かない。ティルは全身全霊をもって、文字通り黒龍にぶつかっていくしかなかった。
ティルは体中に凍傷を負いながら、山の震えを足のしたに感じて、はっと顔を上げた。
――火口に突き落とす。
格上の竜に抗うには、もはや大自然の力を借りるしかない。良質な鉱石を得た今のティルには、多少、地下のマグマに働きかけることが可能だ。
――より熱く、より高く。
マグマを集め、黒龍を火口に誘い、ティルは隙をついて飛びかかった。
「落ちろ!」
ティルは楔を振りまわして黒龍にぶつけ、ふらついた大きな体に突進した。黒龍の首に噛みつき、火口へ落ちてからも飛んで逃げたりできないよう、自らを重りとして心中するつもりだった。
黒龍は怒号をあげ、ティルの肩に食いついた。じわじわと、ティルの胸に冷たいものがおりてくる。体からぐったりと力が抜け、黒龍の首も放してしまった。
――心が凍りつきそうだ。
ティルは最後の力をふりしぼり、鱗の一枚いちまいを光らせた。体内の鉱石を一気に燃焼させ、膨大なエネルギーによって半径1キーラを爆破する奥の手だ。しかしここでティルにためらいが生じた。
――ガウェン。まだ生きている。
都や、ハルがいる洞窟も、容赦ない爆風に襲われる危険性がある。
そのためらいの一瞬で、ティルの心臓は凍りついた。
「あ」
ティルは短い言葉を残して火口に消えた。
黒龍は翼をばたつかせて去っていく。ティルは背中に熱を感じながら、ゆっくりと落ちていった。
(おいら、皆のこと守れたのかな……)
目を閉じかけたティルは、火口から飛び立つ、一羽の鳥に似た影を見た。真っすぐに落ちてきたそれは、細い腕でティルの首にしがみついた。
火山の熱か、爆発を控えた鉱石の力か、それともこの小さな温もりか……ティルの心臓はゆっくりと解凍されていき、胸につかえていた言葉がこぼれた。
「ハル」
西国の竜がその身を投じた溶岩の海は、生き物のように波打った。ティルも、輝く黄色の体にしがみつくハルも、溶岩の熱に焼かれることはなかった。オレンジに光るまろい海に深い穴が穿たれていく。
「ひとりにしないわ。だから、あたしのこともひとりにしないで」
火山の底に横たわったティルとハルは、まばゆい光に包まれた。
それから西国に起きたことは、奇跡としか形容できない。
都は噴き出したマグマにおおわれ、急速に冷え固まったマグマの蓋をされた。岩石の天井の向こうで恐ろしい咆哮が響いたが、北の守護竜の力でも、マグマの防壁を破ることはかなわなかった。
その後、火山から帰還した騎士ガウェンにより、人々は救助された。
「おお、守護竜さま」
いったいどれだけの人間が感嘆と慈しみの声をもらしたことだろうか。門前に集まった人々は、火山に向かって祈りを捧げた。
ガウェンは、親しき者や、恐れていたはずの守護竜の哀悼に沈む人々の横を通りすぎ、山頂に向かった。すべてを出し尽くしたのか、火を失った火口を覗きこむ。底の見えない暗い穴へ、壊れた青銅の鎧を投げ入れた。
「人は浅はかで残酷で、無慈悲で、調子がいい……救いようのない我々を愛し、守ってくれたあなたこそが、報われるべきだった」
ガウェンは目頭を抑え、その場に座りこんだ。
「ティル、私の役目は終わったよ。今ならたくさん遊べるのになあ」
守護竜を失った西の国は急速に荒廃し、ウェスタンテイルが命を懸けて守った命も、儚く散っていった。
都は見る影もなく、死火山の火口には朽ちた祭壇が置かれている。火口を覗きこめば、底には色とりどりの美しい宝石が敷き詰められているという。