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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

君と、コントラプンクト

作者: 瑞貴


 一


「エレナ、少し休憩しよっか」

 私はそう言うと、アップライトピアノの鍵盤脇に置いてあったペットボトルを手に取って、彼女の姿を横目で見つめながら、ひとくち水を飲んだ。

 エレナは俯いて、ガーゼでチェロを拭っている。彼女の翠色の瞳には影が宿っていて、くせのある栗色のロングヘアは、しゅんと縮こまっていた。

「真弓、ごめんね。うまく弾けなくて」

 その声は、だいぶ暗い。

 私は彼女の方を向いて、無理に笑顔を作り、

「大丈夫。なんとかなるよ」と返事をした。

 正直、私は煮詰まっていた。どうして、合わないんだろう。何度も一緒に練習しているのに、私たちは、いつも同じメロディーの中でばらばらになってしまう。

 腕を高く突き上げてうんと伸びをする。汗ばんだ肌に吸い付くブラウスの感触が気持ち悪い。閉め切られた部屋の空気は、淀んでいて息苦しかった。

「ちょっと外の空気、吸ってくる」

 私は、エレナに声をかけて椅子から立ち上がると、奥のガラス戸へ向かった。

 カラカラと戸を開けると、待ってましたと言わんばかりに湿った風が吹き込んで、波の音とセミの合唱を運んでくる。たまらず私は、汗で濡れたハイソックスを脱ぎ捨てて裸足になると、綺麗に並べられたサンダルに足を通して、ベランダに飛び出した。

 私たちの通うS音大附属高校の学生寮は、海沿いの小高い丘の上にあって、寮室のベランダから浜辺を見下ろすことができる。なぜか部屋よりも広々としたベランダには、丸いテーブルと肘掛付の白い椅子があって、夏の間、ここから海水浴客で賑わう砂浜を眺めていると、ちょっとしたリゾート気分を味わえた。

 だけど、夏が過ぎれば浜辺は様相を変えて、寂しいくらいがらんとする。今日がちょうどその切り替わりの日だったのか、先日までの活気が嘘のように、ときたま散歩をする人がまばらに見えるだけだった。

 ――ここで過ごす最後の夏が終わる。

 秋に入るとすぐに、三年生を対象とした学内選抜オーディションが控えている。部門はデュオとソロのふたつしかなく、どちらか一方にしかエントリーできなかった。

 ――絶対、一緒に合格するんだ。

 ベランダの手すりを強く握る。潮風に運ばれてきた砂のせいで手のひらが少しチクチクした。


  ※


「ねぇ、真弓。オーディション、どうしてエレナと組んだの?」

 私は、伴奏を断わったヴァイオリンの子から、そう詰め寄られたことがあった。

「どうしてって、ルームメイトだからだよ」

「え、それだけ?」

「うん」

 私は嘘をついた。

「真弓は、エレナの実力、知ってるよね?」

「まぁ、それなりに」

「私の方が絶対、エレナより上手なんだけど」

「うーん、それは、あんまり関係ないかな」

 彼女が胡乱な眼差しを向けてくる。

「どういうこと?」

「なんというか、うまいかどうかは、どうでもよくって……」

「いやいや、一番重要でしょ。だって、卒演と将来がかかってるんだから」

 卒業演奏会への出演権とエスカレーター式での音大進学。オーディション通過者の二大特典だ。

「それは、まぁ、そうかもしれないけど……」

「でしょ? だったら、私とデュオ組んだ方がいいって」

 彼女はそう言って、私の腕を掴もうと手を伸ばしてくる。咄嗟に逃げるように身を引いた。

「ごめん。もう決めたことだから」

 私がそう言うと、彼女は急に憐れむような目線を私に向けて、

「真弓は、オーディション落ちてもいいの?」と声を落とした。

 ――いいわけないよ。

 そう心の中でつぶやくだけで、私はじっと黙っていた。

 彼女は、私からの返事がないことに諦めたのか、それとも呆れ果てたのか、はぁっと大きなため息をついてから、やにわに皮肉るように、

「見たくないなぁ。クラスで一番の優等生が落ちるとこ」と吐き捨ると、上履きをパタパタ鳴らしながら去って行った。


  ※


 寮室のベランダから見える水平線は、日が傾くにつれて真っ赤な糸を伸ばしていく。私は、風で乱れた髪に手ぐしを入れる。汗のせいか潮のせいか、髪が引っかかって素直に指が通らない。

 エレナを選んだ本当の理由。

 それは、簡単なことだった。だけど、それは誰にも言えない秘密。私は、その秘密を胸に抱え込んだまま、一歩も踏み出すことができなくて焦っている。残された時間は、どんどん少なくなっていくのに。

 背後でエレナが、チェロを弾き始める。メロディーを復習うように、ゆっくりと。

 私は、なんとなく、彼女がまた同じところで間違える気がした。

 ――ほら。

 チェロの音がもつれて止まる。

 振り向くと、不機嫌そうにくせ毛をいじくるエレナの姿。彼女がつまんだ髪を真っすぐ引っ張って、ぱっと指を離す。伸ばされていたくせ毛は、くるんとまわって元の位置に戻る。なんだかその仕草が、いつもの彼女の可憐な姿と似合わなくて私は吹き出してしまった。

 こちらに気付いたエレナが、つり上がった目で睨んでくる。

「ごめんごめん。続けて」

 手をひらひらさせて促すと、私はそのままベランダの椅子に腰かける。長い間ピアノを弾き続けたせいで、さすがに疲れて、眠たかった。

 チェロの音と、波の音。あまりにも心地よい響きだ。肘掛に腕をのせて手で頬を支えると、もう瞼が落ちてくるのを我慢できない。

 目を閉じれば、弓のしなやかな動きに合わせて、栗色のロングヘアを揺らしながらチェロを弾く姿が浮かんでくる。はじめて出会ったときのエレナの姿。

 ――あのとき、彼女の柔らかいくせ毛が、私をふわりとくすぐったんだ。

 その感触を思い出そうとして、私は指先で頬のあたりをやさしく撫でた。  



 二


 生ぬるい潮風が、真弓の開けたガラス戸から吹き込んできて、私のほてった頬を舐めていく。汗ばむ体にはそんな風ですら心地良くて、ついベランダの方へ顔を向けてしまう。

 真弓は椅子に座り込んで、足にひっかけたサンダルをぶらぶら揺らしていた。肩まで伸びた彼女の黒髪が、風に遊ばれてサラサラとたなびいている。自然法則にどこまでも従順な、羨ましいほどのストレートヘア。思わず、私は自分のくせ毛を撫でまわした。

 ――真弓は、ちゃんと弾けているのに。私はまだ弾けてない。

 長時間練習を続けたせいで、左手の指先がじんじん痺れて、体の節々は痛かった。本当なら、今すぐシャワーを浴びて、ベッドに飛び込みたいくらいだ。だけど、早く課題曲を形にしておかないと、いよいよオーディションに間に合わなくなってしまう。

 リフレッシュするつもりで、ゆっくり深呼吸する。それから、チェロの指板の上で指を動かして、運指を再確認した。

 クライマックス直前の、大きく跳躍する旋律が、どうしてもうまく弾けない。その箇所に来ると、なぜか指がもつれる。ここさえ、克服できればなんとかなるのに。

 私は軽く弓を握りなおしてから、チェロの弦に弓を当てがった。

 ――同室のよしみで伴奏してあげるみたいだよ。

 不意に、頭の中で弦楽器科の子たちがひそひそと話す声が聞こえてくる。

 譜面台に置かれた楽譜が、ぶるっと震える。

 ――かわいそうになったんじゃない。

 震えた楽譜の上で、おたまじゃくしが私をあざ笑うかのように踊りだす。

 ――でも、あのふたりじゃ不釣り合いだよ。

 そんなことない。

 ――なんで?

 だって、入学したばかりの頃、私と真弓は同じくらいの実力だったから。

 ――だけど、そのあとは?

 そのあと真弓は、才能をどんどん開花させていったのに、私はずっとつぼみのまま置いてきぼり。

 ――いや、つぼみですらなくて、はじめから枯れていたのでは?

 私は、チェロを弾く手を止めた。


  ※


「真弓ちゃんにオーディションの伴奏、お願いしてみる」

 私の周りでは、そういう声がちらほら聞こえていたから、てっきり真弓は別の子の伴奏をするのだと思い込んでいた。

 だから、曲目の提出日に真弓が突然、

「この曲で、エレナの伴奏してもいい?」

 と言って私に楽譜を渡してきたときは、頬を叩かれたようにびっくりしてすぐさま「冗談やめてよ」と突き返した。

 真弓は、むっとして眉根を寄せると、

「冗談なんかじゃないって」と食い下がってきた。

 どうするか困ってしまって、私は彼女から逃げるように目をそらす。ふと教室の隅にいた子とばったり目が合った。

 ――見られてる。

 気付けば私たちは、クラス中から視線を浴びていた。恥ずかしくなって、お腹のあたりがむずむずした。

「私なんかより、ほかの子と組んだら? 真弓に伴奏弾いてもらいたい子、たくさんいると思うし……」

 周りの視線を気にして、そう言っても、彼女は周囲のことに無頓着なのか、握りしめていた楽譜で自分の口元を隠してから、

「ダメ。エレナがいいの」と言うだけだった。

 私は、楽譜の表紙を見て、その曲が難解なことで有名なチェロソナタだと分かった。形式は、カノンだったかフーガだったか……。どちらにせよ、私はそのソナタがあまり好きではなかった。

「私じゃ弾けるか分からないよ」

「大丈夫。エレナなら、なんとかなるって」

 真弓はいつも根拠なく、なんとかなる、と言う。入学時から寮のルームメイトとして過ごしているのだから、私の実力なんて分かってるはずなのに。

 そう思って渋っていると、彼女は、私の胸に無理やり楽譜を押しつけて、

「ねぇ、お願いだから」

 と、やや内斜視の黒い瞳を上目遣いに震わせた。

 私は、普段から涙を湛えたように湿りを帯びている彼女の瞳にどうにも弱くて、「もう、しょうがないなぁ」とつい承諾してしまった。

 すぐさま真弓の顔がぱっと明るくなる。彼女の頬は、なぜか風邪で熱が出たみたいに赤みを帯びていた。

 私はといえば、渋った風を装ったものの、実はちょっと嬉しかった。真弓と一緒なら、私もオーディションを通過できるかもしれないと思って。

 だけど、周囲から、

 ――なんでエレナなの?

 と言わんばかりに落胆したようなため息が聞こえると、希望で小さく膨らんだ私の胸は、空気を抜かれた風船のように、しゅんとしぼんでしまった。


  ※


 ――本当。なんで、私なんだろう? 

 真弓に聞きたいのに、ずっと聞けずにいる。

 怖かった。もし、その答えが私の期待に反していたら、きっと真弓のことを嫌いになってしまう。

 ……憐れみなんていらない。胸の内に、汚い感情がふつふつと沸いてきて鉛のように重くなる。

 不安のあまり、私はチェロを思いっきり抱きしめた。

 ――突然、髪がはためいて頬を打った。びっくりして目をつむる。風が強く吹きこんでいた。前の方でバサバサと音がする。くせ毛が踊らされて、私の顔中をいじくりまわしている。

 しばらくして、風が落ち着いてくる。おそるおそる薄目を開けると、蜘蛛の巣のように絡まった髪の毛が、視界を遮っていた。

 ――最悪だ。

 ぼさぼさに乱れた髪を手ぐしで整える。指に髪が引っかかって、無理に引っ張ると頭のところどころが痛い。

 ようやく取り戻した視界で室内を見渡すと、床には楽譜が、むしられた鳥の羽のように雑然と広がっていた。

 ――拾うの、めんどくさいな。

 うんざりして床を見つめていると、不意に足元で楽譜が一枚、カサカサと音を立てた。何気なしに、その楽譜を拾い上げる。私の苦手なメロディーが書かれているページだった。

 五線譜の欄外には、丸っこい字で記されたメモ書きがある。


『階段を、勢いよく駆け上がる

 ここで思いっきりジャンプする

 チェロと手をつないで』


 真弓の楽譜だった。

 私はそれを、目の前の譜面台にそっと置く。

 ――もし、彼女が私を認めてくれるなら。

「まだ、枯れてなんかいない」

 譜面に向かって小さくつぶやくと、階段状にまとまった黒い音符を睨んだ。

 ――私は、少し花開くのが遅いだけ。

 弓を持ち直して、弦に当てる。

 怖がらずに、弾けばいい。

 音符の階段を、駆け上がる。最上段まで、一息に。

 そして私は、そこからありったけの力を込めて、飛んだ。



 三


 真っ白な風景がどこまでも切れ目なく続いている。どこかで、聞き慣れたチェロがの音が高らかに鳴っている。

 ――どこにいるの?

 私は、エレナを探して歩きはじめる。

 片手に何かを引いている。制服の衣擦れの音がして、不意に桜の匂いが鼻をかすめる。ほんの少しだけ肌寒い。

 やがて、真っ白な景色は、霧が晴れるように薄くなる。目の前に、見慣れた学生寮の廊下が広がる。


 ――入寮式を終えた私は、寮の自室へと向かっていた。

 閉め切られたドアが整然と並ぶ廊下は、昼前なのに日当たりが悪いせいか暗く沈んでいる。

 すでに入室している生徒もいるはずなのに、物音ひとつ聞こえないことに怖くなってきた私は、身の丈ほどもあるスーツケースをわざとらしくガラガラ鳴らし、仕立てたばかりのローファーをコツコツと踏み鳴らした。

「ここだよね?」

 ドアの前で立ち止まると、入寮証明書に書かれた番号と、目の前の古びた木製の番号プレートを何度も確認する。不安と緊張の入り混じった苦い唾を飲み込むと、ごくりという音が、とてつもなく大きく聞こえた。

 こんこんとドアをノックしてみる。返事はない。

 ――同室の子はまだ来てないのかな?

 古ぼけて光沢を失った真鍮のドアノブに手をかける。手のひらがひんやりと冷たくなる。そうしてノブを回そうとすると、力を入れていないのに、手の中でノブが勝手にするする回りはじめた。ぎょっとして、静電気に触れたみたいにぱっと手を放す。

 ドアが、軋みながらゆっくりと開いていく。奥のガラス戸を通して射し込む春の陽光が、開かれたドアの隙間から私の目に飛び込む。廊下の暗さに慣れてしまっていた私は、あまりの眩しさに手をかざした。

「あの、どちらさまですか?」

 渇いていた私の耳は、凛として落ち着いたその声を、一息に飲み干す。かざしていた手をゆっくり下ろすと、目の前に、私より頭半分くらい背の高い女の子が立っていた。

 少し釣りあがった大きな眼は、くっきりとした二重瞼に縁取られていて、エメラルドのように澄んだ翠色。すらりと通った高い鼻筋は、まるで精巧に作られた西洋人形みたいだ。その端正な顔立ちを、ふわふわしたくせのある長い髪がやさしく包んでいて、その髪の色は、奥から射し込む光を透過して、栗色というよりもほとんどブロンドに見えた。

 ――妖精みたい。

 私は、魔法をかけられたように魅了されて、呆然としたまま動けなくなってしまった。

 彼女が、目を細めて、かくんと首をかしげる。

「もしかして、同じ部屋の子?」

 怪訝そうに尋ねられて、私は、ぽかんと開いていた口を一旦閉じた。そして、かけられた魔法を振り払うようにぱちぱちとまばたきしてから、もう一度彼女の姿を確認する。

 紺色のハイソックス。その上に、少し膝上の海老茶色のプリーツスカート。純白のブラウスの胸元に、銀色の丸ピンで留められたクロスタイ。ベージュ色のブレザーの下襟には、コスモスをデザインした校章のバッジが輝いていた。

 ――大丈夫。同じ制服姿だ。

 私は、落ち着くために一度大きく深呼吸をしてから、

「同室の上崎真弓です。これから、よろしくお願いします」

 と自己紹介した。彼女が、それに応じて会釈すると、ほのかに甘い匂いが漂った。

「よろしく。私は、西山エレナ」

 エレナ。その名の響きを、胸の中で反芻する。

「真弓は、ピアノ科?」

 私のクロスタイを見つめながら、彼女が問いかけてくる。

 私は、こくんと頷く。

 それぞれの専攻は、タイの色と模様で見分けられるようになっていた。ピアノ科のタイはアイボリー色で、その先端に黒の横縞が二本刺繍されていた。

「エレナちゃんは?」

「私は、弦楽器科だよ」

 彼女は、自身のタイの両端を指でつまんで引っ張ると、「ほら、これ」と私に見せるように胸を張った。人並みより少しばかり豊かな胸の上に、茶色の一色で染まったタイが、お行儀よく収まっている。まるで、ケーキの上のチョコプレートみたいだった。

 ――おいしそう。

 おかしなことを考えていた私の前に、エレナの細い指がすっと伸びてきて、私のタイの片端をつまむ。

「ピアノ科っていいよね」

 彼女はそう言って、親指で黒の横縞をさすると、「模様、可愛いもん」と羨ましそうにつぶやいた。

「……そう、かな?」

 私は、照れくさくなって頬をかく。

「ねぇ、もっと、よく見せて」

 エレナの顔が、私の胸元までぐっと近づく。途端に、ふわりとバニラの香りが鼻をくすぐって、私は思わず一息に吸い込んでしまう。とろけそうなほど甘い匂いが胸の中に染み込んで、耳元がじんわり熱くなった。

「あの、エレナちゃんて、外人さん?」

 虚ろになっていた私は、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまう。

突然、彼女の眼光が鋭くなり、私をきつく睨んだ。

「違うよ。ハーフなの」

 そう吐き捨てるように言って、エレナは私のタイから手を放すと、ぷいっと横を向き、

「苗字は西山だし。名前、聞いてなかったの?」

 と、不機嫌そうに口を尖らせた。

 今までの物腰の柔らかさから一転して、険悪な雰囲気を醸し出す彼女を見て、私は、はっと正気に返る。すぐさま、ごめんなさいと謝ったが、彼女は子供みたいに頬をぷくっと膨らませただけで、返事をしなかった。



 四


 ――エレナって、外人なの?

 誰もが、私を見て口にする言葉。私は、その質問が嫌いだった。

 私の母はロシア人で、有名な国際コンクールで入賞経験のあるピアニストだった。母は、私が小さい頃から、リサイタルやらコンサートやらで国内外を駆け巡っていて、結局、その移動中の事故で急逝してしまったから、私には母と触れ合った記憶がほとんどない。

 私と母の接点といえば、遺された栗色の鬱陶しいくせ毛と、翠色の瞳だけ。

 母のつながりで、私の家には国内外の音楽家が大勢出入りしていて、「エレナも何か楽器をやってみたら?」と、色んな楽器を触らせてくれた。

 私は、チェロを選んだ。

 別にチェロが好きだったわけではなくて、ただ見た目が人の身体と似ていて、チェロを抱くと不思議と落ち着くからだった。

 そんな不純な動機で始めたチェロも、今まで一度も嫌になることなく弾き続けるうちに、いつしか私の心の中には、母と同じように音楽で生きていきたいという思いが芽生えていた。

 だけど、私にはまだ、それだけの才能があるのか分からない。

 初対面の人は必ず、私の外見と、母がいっとき有名なピアニストだったということだけで、私のことを音楽の天才に違いないともてはやした。そうして実際に私が奏でるチェロを聴くと、急によそよそしくなるのだった。

 私は、その扱いを受けるたび、自分の演奏に自信が持てなくなった。だけど、それよりも、きっと見た目が外人みたいだから、みんな偏見を持つんだと思って、母に似た自分の容姿をだんだんと疎ましく感じるようになった。どうせなら、音楽の才能を遺してくれればよかったのに。


 ――きっとこの子だって、同じだ。いずれ私から離れていく。

「あの、エレナちゃん、ごめんね」

 小さい声で真弓が謝ってくる。私は、腕を組んで横目で見下ろすだけで、何も応えなかった。

 真弓は、もじもじとスカートの端をいじくった後、外に放置されていたスーツケースを部屋に引き入れた。そして、彼女は玄関で靴を脱ぎ捨てたまま、逃げるように奥へ向かう。私は、むっとして、ばらばらになったローファーをこれ見よがしにきっちりと揃えてあげてから、彼女の後を追った。

 真弓は、部屋の手前でスーツケースの取っ手を握りしめて、立ち尽くしていた。

「なんか思ってたのより、部屋狭いかも」

 落胆したように彼女がつぶやく。

 まぁ、そうかもしれない。

 横長の寮室には、ベッドと机がふたつずつシンメトリーに置かれている。私は、先に入室していたから、手持無沙汰にすでに音出しをしていて、ガラス戸に近い方の机の椅子にチェロを立てかけてあった。ベッド脇の床には黒いチェロケースを寝かせてある。

 それだけでも室内の大半を占めているのに、手前の壁には古いアップライトピアノが鎮座していて、狭い部屋をさらに窮屈にしていた

 真弓がそわそわしはじめる。どうも勝手が分からず困惑しているらしく、黒い瞳を哀願するように私に向けた。

「あの、荷物ってどこに置けばいいの?」

 私は何も言わずに、彼女の手をとって部屋に引き入れると、年季の入ったピアノの横に隠れているクローゼットを指さした。

 そのとき、真弓の顔がくしゃっと歪んだ。おぼつかない足取りでふらふらとピアノの方に向かうと、彼女は肩をがっくり落として、

「こんなに古いアップライトなんだ。グランドだと思ってたのに……」

 と今にも泣きそうな声で不平を漏らした。

 たしかに入寮案内には「練習用ピアノ完備!」とご丁寧に太字で書いてあったけど、さすがにグランドピアノは期待のしすぎだろう。

 私は呆れて、

「別に、ピアノはピアノでしょ。練習するのにグランドかどうかなんて関係――」ない、と言いかけて、しまった、一言多かった、と思う間もなく真弓が、

「そんなことないもん!」

 と声を荒げた。目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 私は、追い詰められた小動物みたいになっている彼女を見て、さすがに邪険にしすぎたことを反省する。

 謝ろうとして、「ごめん」と言いかけた途端、真弓が力任せに鍵盤の蓋を上げた。

 がこんっ、という音とともに、ヤニまみれの歯みたいに黄ばんだ鍵盤が顔を出す。その風貌を見て、真弓の口元がぴくっと引きつり、一瞬ためらいの素振りを見せたが、すぐに吹っ切れたように立ったままピアノを弾き始めた。

 引退直前にしか見えないピアノの筐体から、透き通って芯のある丸い音が溢れ出す。

 私は、驚いてしまった。

 彼女の細い指が、鍵盤の上を流れるように滑る。その指先で、ピアノが悦ぶように歌っている。小粒な水晶をばらまき散らすように煌びやかな音色。その響きに合わせて揺れる彼女の華奢な身体。たなびく艶やかな黒髪。

 鳥肌が立った。

 美しかった。妬ましいくらいに。

 急にお腹のあたりが、締め付けられるように熱くなる。

 ……一緒に弾きたい。

 もう、我慢なんてできない。

 私はチェロに駆け寄り、弓を手に取った。



 五


 ――アップライトかグランドかなんて、関係ない。

 エレナにそう言われて、私はピアノ科でもない子に何が分かるんだ、と腹が立った。だけど、その傷だらけのピアノを実際に弾いてみると、エレナの言うとおりだった。

 上辺だけで楽器を判断していた自分が馬鹿みたいで、猛烈に恥ずかしい。今すぐ弾くのをやめたい。でも、やめたらもっと格好がつかない。私は、どうしようもなくなって、ただひたすら間違えないように鍵盤を叩き続けて、体裁を保つしかなかった。

 不意に、背中をやさしくさするように、低いチェロの音が立ち上がる。

 はっとして顔を上げると、光沢の残ったピアノの筐体に、目をつむりながらチェロを奏でるエレナの姿が映っている。さっきまで、物凄く不機嫌そうだった彼女の口元は、不思議と微笑んでいるように見える。

 私が弾いている曲は独奏曲だから、エレナが私の音に合わせて即興で演奏していることはすぐに分かった。

 ――すごい。

 どう応えていいのか分からない。私は、これまで一度も、譜面に無い音を弾いたことがなかった。

 突然、チェロが刻むスタッカートが、私の心のドアを強くノックする。

 不思議と、胸の内から自信が湧いてくる。

 ――大丈夫。きっと私にも、できる。

 原曲を放り出す。

 エレナの音にしっかり耳を傾けて、私は彼女に話しかける。

 ――さっきは、ごめんなさい。

 私の和音がぺこりと謝ると、エレナのメロディーが手を振って、「ううん、私も言い過ぎた」と応える。

 ペダルを踏み込む右足がリズムを刻む。エレナの左足がつられてタップする。舞踏のリズム。私が左手を差し出すと、彼女は右手を差し出してくる。その手を握る。

 ――このまま、踊ろう。

 手と手を取り合ってお辞儀をして、体を寄せ合ってワルツを踊る。スタッカートでステップを踏み、マルカートで頬と頬を寄せ合う。お互い腰に手を絡めて、くるりと回る。

 抱き合って、おでこを合わせて、じっと見つめ合う。

 そして最後に、私たちは密やかにキスをした。

 やがて、唇が離れて、音が止む。


 胸がドキドキ高鳴っている。深々と静まり返った室内に、私たちの荒い吐息が反響する。

 そのとき心の奥底で、何かが、ガクンとズレた気がした。

 私は振り返ってエレナを見つめた。うっすらと汗で湿った髪が、赤みがかった頬を撫でている。視線に気付いたエレナが、はにかむように微笑して、私を見つめ返してくれた。

 ――なんだ、そういう表情もできるんだ。

 さっきまで、あんなにギラギラしていたのが、嘘みたい。

 そう思うと、体中の力が一気に抜けた。



 六


 どこからか空気が吹き込んできて、頬に触れるとひやりとした。どうやら汗をかいているらしい。胸が膨らみ、肩が上下している。私は息をしている。心臓が大きく鼓動したかと思うと、すぐに脈打つ音は遠くなり耳に届かなくなる。

 嬉しくてたまらなかった。これから真弓と一緒に音楽を学べることが。生活をともにできることが。

 そして、なによりも、はじめて自分の音色を奏でられた気がしたから。


「すごいね」

「なんて曲なんだろう」

 どこからか聞こえた声に、私は正気に返る。気付けば閉め忘れて開け広げになっていたドアから、寮生の女の子がふたり、こちらを覗いている。

 私の視線に気付くと、彼女たちはもぐらみたいに素早く頭を引っ込めてドアを閉めた。

 ピアノに視線を移すと、真弓が飛び出そうなくらい大きく目を見開いて、嬉しそうにこちらを見ている。

 ――なにその顔。さっきまで、あんなに不機嫌そうにしてたのに。

 少しおかしくて、口元がゆるんだ。

 立ったままだった真弓の体が、糸が切れたようにすとん落ちる。そのお尻を、ちょうどいい位置にあったピアノの椅子が受け止める。それから真弓は、わぁっと泣き出した。

「大丈夫?」

 私はチェロを床に倒すと、こどものように泣きじゃくる真弓の元に駆け寄る。だけど、どうすればいいのかわからず戸惑ってしまう。私は、人を抱きしめたことがなく、人に抱きしめられたこともなかったから。

 ――いつも抱いてるじゃない。チェロ。

 そうだ。私は身を屈めて、震える真弓に腕を回した。

 彼女の身体は、慣れ親しんだ私のチェロよりも、だいぶ小さかった。触ると冷たいチェロと違って、体温がほんのり温かい。

 ――落ち着いて。

 私は、彼女の背中をさする。ウールのブレザーは、見た目よりもごわごわしている。そのまま腕を上に動かす。手の甲に彼女の流れるような黒髪が触れて、指先が彼女のうなじを捉える。

 シルクのように滑らかな肌を、ゆっくりと撫でてやると真弓の体がこわばった。大丈夫だよ、と頬と頬が触れるくらい顔を近づける。彼女の香水なのか、汗の匂いなのか、シトラスのような香りが鼻をつく。

 突然、耳元で、真弓がくつくつと泣きながら笑いだす。私のくせ毛が、彼女の頬を撫でまわしているらしい。

「……エレナちゃん、くすぐったいよ」

 真弓が、身をよじる。

 ――逃げちゃダメ。

 私は彼女の耳にカーテンのようにかかる黒髪をかきわける。小ぶりで形のよい耳が露出する。不思議とかじりたくなる。私は、その気持ちを抑えて、耳元に唇を当てると、

「エレナで、いいよ」

 と囁いた。

 腕の中で、真弓がびくんと跳ねた。



 七


 ――エレナで、いいよ

 目の前がパッと真っ白になって、何も見えなくなる。ただ、柔らかい吐息とともに囁かれた言葉だけが、波のように幾度も反響している。


「ちょ、やばい! 波きた!」

 ベランダの椅子に座ったまま微睡みかけていた私は、かん高い声で現実に引き戻される。私は、残された感触を取り戻したくて、自分の耳たぶを撫でた。

 声の聞こえた砂浜に目をやると、寮生の女の子ふたりが並んで歩いている。ひとりは高く結ったポニーテールを揺らしていて、もうひとりは私と同じくらいのミディアムヘアだ。

 ふたりは、ときたま打ち寄せる波を追っては逃げて、仲睦まじそうに笑いあっている。彼女たちの後には、音符のような足跡が点々と続いていて、付かず離れずしたふたりの姿をほのめかしている。その痕跡を、打ち寄せる波が消しゴムで消すみたいに、さらっていく。

 ――そのうち、ふたりは離れ離れになって、二度と交わることはない。

 こっそり耳打ちするように、意地悪な声が私の胸の奥から聞こえてくる。

 ――じゃあ、私たちは?

 私とエレナは、ユニゾンから始まったはずだ。誰よりも、ぴったり合っていた。それなのに、今では別々の旋律になってしまって、互いにどんどん離れていく。

 ――どうして?

 あのとき、私の心の調律が狂ってしまったから。

 そのせいで、私はもう彼女のチェロじゃなくて、彼女のことが――。


 途端に、はっとする。チェロの音が止んでいる。

「エレナ――」

 ごめん、と振り向きざまに言いかけて、私は言葉を呑み込んだ。

 吹き込んだ風に飛ばされたのか、楽譜が床に散らばっている。その真ん中で、エレナが首を傾けていた。

 ――寝てるの?

 私は静かに部屋に戻り、そっとガラス戸を引く。差し込む夕陽の中で、スノードームをひっくり返したように、埃がキラキラと舞っている。

 トンッという音がして戸が閉まると、急にしんと静まり返った室内にドキリっとする。私たちだけが、秘密のドームに閉じ込められたみたいだ。

 私は散乱した楽譜を静かに拾いながら、眠っている彼女の姿を盗み見る。

 ――またチェロ、抱いてる。

 私はくすりとする。エレナには、嫌なことがあるとチェロを抱く癖があった。そうすると落ち着くから、と言っていた。きっと苦手なメロディーの練習が、うまくいかなかったんだと思う。

 慎重にページ数を確認してから楽譜を束ねて、エレナの譜面台にそっと戻す。

 ふと、譜面台に見慣れたページが置かれていることに気付く。

 ――私の楽譜だ。

 汚い字で書かれたメモが、目に留まる。 

『チェロと手をつないで』

 違う。私は、エレナと手をつなぎたい。

 彼女の白い手が、チェロのくびれに力なく添えられている。

 ――私が、チェロだったらいいのに。

 そうして、彼女を抱きしめたい。

 エレナに近づく。胸元のクロスタイが、チェロのネックに擦れたのか少しズレている。

 ――タイ、整えてあげようか?

 身を屈めると、彼女の寝息が部屋のしじまを縫って私の耳に届いた。私は、その静かな息遣いに吸い寄せられるように近寄って、エレナの寝顔を覗き込む。

 彼女の頬がかすかに赤らんで、汗の雫が一筋流れている。

 ――ねぇ、エレナ。

 顔を近づける。あのときと同じ、甘いバニラの匂い。鼻がくすぐられて、頭がくらっとする。ぷっくり膨らんで柔らかそうな唇は、ピンクのルージュで薄く染まっていて、寝息に合わせてわずかに上下している。

 ――しても、いい?

 チェロに手をかける。メイプルでできた胴が、触ると冷たい。心臓が激しく脈打って、耳元が火照る。目に少しだけ涙がたまる。

 ――お願い、目を覚まさないで。

 私は、頬にかかる髪を耳の上に掬い上げると、薄く唇を開いた。



 八


 大きく息を吸う。目の前は真っ暗で、何も見えない。ふと、ああ眠っていたのだと気付く。

 ゆっくり瞼を上げると、見慣れた焦茶色がうっすら見える。私のチェロ。頬から顎に汗が流れる感触。暑い。

 ぼんやりと夢を見ていた気がするけど、頭が痛くて、何も思い出せない。

 なぜか唇がじんじん痺れていて、かゆい。中指で下唇に触れると、かすかに濡れている。


「――起きた?」

 聞き慣れた真弓の声。私は、その響きに促されて顔を上げる。

「ん、ごめん。寝てた」

 目をこすりながら彼女を見やると、真弓の顔は紅潮していて瞳が潤んでいた。

「どうしたの? 顔、赤いよ?」

 私は、熱でも出たのかと心配になる。

「な、なんでもないよ!」

 両手をぱたぱた振りながら、真弓が顔を背ける。少しずつ意識がはっきりしてきた私は、なぜか彼女が目の前で屈み込んでいることに気付く。

「真弓、何してたの?」

「楽譜が落ちてたから、拾ってたの」

「そう」

「うん。あ、エレナのやつ、揃えといたよ」

 真弓が立ち上がって、譜面台に置かれた楽譜の束を指差す。相変わらず、雑な束ね方。床にはまだ、おそらく彼女のものであろう数枚が散っていた。

「ありがと。あ、真弓は休憩終わった?」

「うん。長々とごめんね」

「いいよ、私も寝ちゃってたし。それより、練習続けようよ」

 私は、落ちていた弓を拾い上げ、ネジを回して弓毛の張りを調整する。真弓はその場から動かずに、後ろ手を組んでもじもじしていた。

「真弓? どうしたの?」 

「あのさ、もう、今日はやめよっかなって思って」

「え?」

 私は目を見開いた。どういうわけか、真弓は私と顔を合わせようとせず、横を向いたまま視線だけきょろきょろしている。

「あのさ、砂浜を散歩しに行かない?」

 真弓が、その場を取り繕うように言う。口調はどこか上の空だった。

「なんで?」

「だって、夕陽がすごく綺麗だよ」

「夕陽なんて、いつでも見れるでしょ」

 私が素っ気無く返事をすると、、突然、真弓が私を横目で見下ろした。その視線に若干の苛立ちが混じっていることを感じた私は、思わず顔をしかめる。

 何、その目つき……。

 私は、額のくせ毛を横に払いのけると、そういえば、と思い出して、

「ねぇ、あのメロディー、ちゃんと弾けたよ」と言った。

 ――本当? じゃあ通して練習しよう! 私は、そう喜ぶ彼女の声を待つ。

「ふーん」

 真弓は、まるで関心がなさそうに口を閉じたまま鼻だけ鳴らした。

 ――なにそれ。私のこと、認めてくれてるんじゃないの?

 期待していた言葉が貰えなかったことに、私は、ムシャクシャしてきて執拗にくせ毛をいじくりまわす。

「私、最初から通しでやりたいんだけど」

「また今度やろうよ。それより――」

「ダメだって」

 私は、真弓の声を途中で遮った。

「ねぇ、ちゃんと練習しようよ。オーディションまで、時間残ってないんだから。このままじゃ、間に合わなくなっちゃう」

「大丈夫だよ。なんとかなるよ」

 私は、真弓の投げやりな返事にカチンときて立ち上がる。

「なんとかなるって、どういうこと?」

「いや、エレナならなんとかなるって――」

「だから、なんとかなるって何なのよ! 根拠もないのに適当なこと言わないで!」

 そう叫んで、私は、彼女をきつく睨んだ。真弓が、びくっと肩を強張らせる。

 頭がズキズキして、少し吐き気がした。

「真弓は、なんとかなるかもしれないよ。だってすごいから――」

 私は、胸の中で凝り固まった鉛のような想いを吐きそうになって、すぐさま口に手を当てた。

 だけど、ダメだった。 

 私は、全部吐き出した。



 九


 ――エレナのそんな目つき、はじめて見た。

 はじめて睨まられたときと明らかに違う。眉間にしわを寄せて、私を突き刺すようにして目をそらさない。私は、動けずに、ぼんやりと眺めているだけ。

「あのね、聞いて、真弓……」

 エレナの声が、震えている。

「私、ずっと自分の演奏に自信が持てなかった」

 すっと、彼女が大きく息を吸う。

「だから、私より上手な子だって、いっぱいいるはずなのに、真弓が私の伴奏するって言ってくれて、嬉しかった。真弓が、私のこと認めてくれてるんじゃないかって思って」

 頭の中で、耳鳴りがする。

「でも、何回練習しても、前みたいにうまく合わないし。真弓のピアノはやっぱりすごくて、私はダメで。もう、ぐちゃぐちゃになって、私、どうしたらいいのかわからない……」

 エレナが一度、口をつぐむ。濁った翠色の瞳が、何か私に救いを求めるように、ゆらゆら潤んでいる。

「真弓さ、私と練習するの嫌になった?」

「そんなこと、ない」

「私と組んだこと、後悔してる?」

「して……ない」

 喉がつかえて、震える声を絞り出すことしかできない。

 エレナが、ぐっと唇を噛む。それから、何か重たいものを吐き出すように口を開いた。

「ねぇ、どうして私なの?」

 虚ろになっていた意識が戻ってくる。

 ――ねぇ、どうして、エレナを?

 どうしてって。そんな簡単なこと訊かないでよ。

 だって、だって……。

 私は、唇を結んだまま立ち竦む。

 エレナの口元が、自嘲するように引きつった。

「あーあ、そっかー。やっぱりそうなんだ。周りの子が言ってた。真弓は、同室のよしみで下手くそな私をかわいそうに思って、組んであげたんだって」

 ――違う。

「真弓が勝手に同情なんかするから、私はみんなの笑いものにされたんだ。ひどいよ。よくそんなことできるよね。私の気持ちなんて、なにも知らないくせに!」

 咄嗟に私は、彼女を睨んだ。

「エレナだって、私の気持ち、なにもわかってない!」

「じゃあ正直に言ってよ! 私のことをどう思ってるのか!」

 ――今、答えるんだ。

「私は――」

 言わなきゃ。今まで伝えずに来たせいで、彼女をこんなに追い詰めてしまったのだから。

「エレナと……」

 たった一言。それなのに、喉が詰まって言葉が続かない。

 怖い。だって、私の気持ちは普通じゃない。もしも嫌われでもしたら……。

 エレナが下を向いて、大きく息を吐く。

「……真弓は、いいよね」

 恨めしそうな低い声が、私の耳を震わせる。胸が押し潰されそうになる。

「オーディション落ちたって、音楽の才能あるから」

 チェロを握るエレナの指先が、一瞬ぐっと固くなる。

「それに比べて、私は……」

 そう言って、エレナが椅子に崩れ落ちる。彼女の手から、弓が滑り落ちて、カランと乾いた音が鳴る。

 視界が歪む。汗ばんだ手のひらを強く握る。心臓がどくんどくんと、壊れそうなくらい激しく鳴っている。

 ――ちゃんと伝えるんだ。


 大好きだから。

 ずっと一緒にいたいから。

 だから、エレナを選んだの、って。

 


 十


 胸につかえていた想いを無理して吐き出したせいか、私の胸はじくじくとただれた。

 何か熱を持ったものが、私の視界の端を圧迫する。目の前の真弓の姿が、波に揺れたようにゆがむ。強い耳鳴りがして、現実が遠くなる。頭痛は不思議と和らいでいく。まるで、世界をひっくり返して、その裏側に入ってしまったみたいに。

 ――チェロは?

 左手に、固いものを握っていた。大丈夫、ちゃんと持ってる。

 私は、チェロを体に引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。わずかに見える視界には、泥水のような焦茶色が揺れている。

 ――大丈夫。落ち着け。落ち着け。

 不意に、つたんつたん、と雨が屋根を打つような音が不規則に聞こえてくる。見れば、チェロの表面に大粒の雫がいくつもの筋を作っては流れていた。

 ――知らなかった。チェロって泣くんだ。

 泣かないで。私は、慰めるようにチェロをさする。

 そのとき、チェロが私から逃げるように離れた気がした。

 ――待って。行かないで。

 もう一度、ぐっと引き寄せる。

 私の腕の中で、チェロが痙攣するように震えている。どうしてか、チェロはいつもより少しだけ小さくて、ほんのり温かい。

『エレナ』

 遠くから、声がする。その響きは、水の中にいるみたいに籠っている。

『ごめん……』

 頬に、軟らかいカーテンが触れるような感触。そのあとで、甘酸っぱいシトラスの匂いがした。

 ――真弓?

 意識が、戻ってくる。

 視界がゆらゆらと揺れる。頬が、湿っている。

 ――ああ、泣いていたのは、チェロじゃない。

 私だ。

 それなら、私が抱きしめていたのは……。

 違った。

 抱きしめられていた。私が真弓に。

 彼女は膝をついて、私の胸元に顔をうずめていた。彼女の心臓の鼓動が、私のお腹にとくんとくんと伝わってくる。彼女の細い指は、私の背中で複雑に絡みあっていた。

「同情なんてしてないよ……」

 囁く真弓の声が、今、はっきりと私の耳に届いてくる。

 真弓の乱れた吐息が、私の胸の辺りにじんわりと熱く広がる。

「ただ私は、ずっと……」

 彼女の指先に力が入って、私の背中を突き立てる。

「エレナと一緒にいたくて……」

 その声は、かすかに震えていた。

 ――そう、だったんだ。

 私は、真弓の背に腕を回す。

「それで……、私を選んでくれたの?」

「うん」

 喉の奥がぐっと詰まって、目元が熱くなる。胸が、締め付けられるように痛い。

 私は、真弓に認めて欲しい。 

「それ、だけ?」

「……」

 お願い。答えてよ。私のチェロが好きって。

「ねぇ、それだけ?」

「……うん」

 寂しかった。

 なんで、期待なんかしたんだろう。分かってたはずだ。私じゃ真弓には追いつけないって。それなのに、彼女を試すみたいに意地悪なことをして。

 ――最低だ、私。

「真弓、ごめん。ひどいこと言って……」

 彼女は首を横に振る。彼女の髪が顔に擦れて、くすぐったい。

 指先で真弓の背筋をなぞっていく。後ろ髪に触れる。やさしく指を入れる。潮風に吹かれたせいか、彼女の髪はザラザラしていて、ときおり引っかかる。ずっと羨ましく眺めていた真弓の髪。いつもサラサラだと思い込んでいた。

 ――こんなにも違うんだ。

 ふと、真弓を少しだけ大きく感じた。はじめて抱きしめたとき、彼女の体は小柄で華奢だったはずなのに。

 ――ああ、そっか……。

 私は、身を屈めて、真弓の耳元に口を寄せる。

「背、伸びた?」

 胸元で真弓がこくん、と頷く。

 ――やっぱり。

 そんなことすら、気付かなかった。

 胸の中で、何かがストンと落ちて、気持ちが途端に軽くなる。

 私は彼女のことを、都合のいい羨望の中でしか見ていなかったのだ。私に無いものを持っている彼女が、羨ましくて、妬ましくて。そうして、私はいつも真弓と自分を比べるだけだった。

 ――これからは、ちゃんと向き合おう。

 真弓と。それから、自分と。

「もう、大丈夫だから」

 私は真弓の腕をほどこうとして身をよじる。背中に絡まっていた指が、するすると解かれていく。

 真弓がゆっくり顔を上げる。潤んだ目が、戸惑うように私を見つめている。内斜視気味の黒い瞳に、涙が浮かんでくる。

「なんで真弓が泣くの?」

 私はそう言って、その涙を掬おうとする。

 指先が、彼女の赤らんだ頬に触れると、

「エレナのバカ! 大嫌い!」

 真弓にいきなり罵られた。

 それから、ぎゅっと抱きつかれた。

 私の胸に顔をうずめて、真弓が思いっきり泣き出す。

「もう、バカでもなんでもいいよ……」

 私は、笑いながらそう言って、両手で彼女を抱きしめ返す。

 いつの間にか日が沈んで、部屋はすっかり暗くなっている。だけど、胸の中は澄み切った真昼の空のように、晴れ晴れしていた。

 私は、真弓の背中をやさしく撫でる。

 彼女が泣き止むまで、ずっとそうしていた。



 十一


 三月。今日は、S音大附属高校の卒業演奏会の日。

 会場となる合奏棟のホールには、海外の著名な工房で製作されたコンサートグランドピアノが置かれている。

 演奏会が始まると、卒業生たちが控え室とホールの間を行き来して、それぞれの有終の美を飾っていった。

「おつかれ」

「ありがとう」

 控え室で取り交わされる、ありふれた挨拶。それすらも、今日だけは虹色の調子を帯びている。

 今日で別れてしまう人。これからも同じ道を歩んでいく人。中には、むっとして舞台をあとにする者もいれば、感極まってそのまま泣きじゃくる者もいた。

 演奏会は滞りなく進み、すでに終盤に入った。控え室のモニターには、無伴奏ヴァイオリン・ソナタを弾く卒業生の姿が映っている。天井に埋め込まれたスピーカーから、華やかなメロディーが鳴り響く。


 トリを飾る卒業生がひとり、控え室に入ってくる。

 チェロと弓を手に持った、少し背丈の高い女の子。ポニーテールに結われた栗色の長い髪は、外に跳ねたくせがついている。ノースリーブの亜麻色のロングドレスは、すらりとした彼女の体躯にぴったり合っていて、その姿を華やかに魅せていた。

 彼女が椅子に腰かけると、もうひとりの卒業生が入ってくる。

 艶やかに流れる黒いミディアムヘアに、白いガーベラの髪飾りが可愛らしく添えられている。胸元から上が露出した桜色のドレスは、まるで春風が彼女のために仕立てたかのように、彼女の足取りに合わせて優美に揺れた。


  ※


 真弓は、エレナの隣に腰かけると、両手の指先をぴったり合わせて指馴らしを始めた。しなやかで美しい指が、パタパタと音を立てる。なぜか表情は強張っていて、ひどく緊張しているようだった。

「ねぇ、真弓」

 エレナに呼ばれて、真弓は指を止める。

「――何?」

「緊張してる?」

「ん、平気だよ」

「嘘つき」

 そう言って、エレナがくすっと笑う。

 図星を指されて、真弓の表情がゆるんだ。

 エレナが、顔を上げてモニターを見つめる。そして、思いつめたように少しの間をおいてから、視線を戻して、

「今、伝えとこうかな」とつぶやいた。

 きょとんとする、真弓。

 エレナが、チェロを手にしたまま腰を浮かせて座りなおす。そうして真弓と正面から向き合った。

「真弓、今までありがとう。ずっと私のそばにいてくれて。真弓がいなかったらさ、私、ここまで来れなかったと思う」

 穏やかで、はっきりとした口調だった。

 真弓は、恥ずかしそうに俯いて、口を一文字に結んで黙っている。

 モニターに映る卒業生が、情熱的にヴァイオリンをかき鳴らす。曲は、まもなく終結部に入ろうとしている。

 そのとき真弓が、薄く口を開いて息を吸う。赤い唇の間から、歯並びの良い真っ白な歯がかすかに覗く。それから真弓は顔を上げると、真剣な面持ちで真っすぐにエレナを見つめた。

「それじゃあ、私も言っとく」

 何かを決心したように、その声は凛としている。

「あのね、エレナ。私は――」

 区切られた言葉に、エレナが不思議そうに首をかしげると、ポニーテールがふわりとアーチを描く。

 ――そのとき、エレナの耳元に、真弓の顔がぐっと寄る。栗色と黒色の髪が、密やかに絡みあう。真弓が、秘密を漏らさないようにと口元に手を当てながら囁く。チェロを握るエレナの手に少しずつ力が入り、翠色の瞳が大きく見開かれていく。

 秘密を伝え終わると、真弓は口に当てていた手を下げて静かに顔を引く。

 真弓の小ぶりな耳は真っ赤に染まり、エレナの白い頬は紅色に色づく。

 見つめ合うふたりの瞳は潤んだまま揺れていて、その唇は、口づけするかのように近かった。

 ――突然、控え室のドアが開く。

 電撃が走ったかのように、離れるふたり。

「何してんのふたりとも! 前の曲もう終わるよ! 早く舞台袖に来て!」

 進行役の教員が、慌ただしく声をかけた。

『すみません!』

 ふたりの声が、室内に共鳴する。思わずお互い見合って吹き出すと、お腹を抱えて笑いあった。

「行こう」

 そう言って真弓が立ち上がり、エスコートするように手を差し出す。

「うん」

 エレナは、その手を取って立つ。


 ふたりが出ていくと、控え室はがらんとする。モニターには、大きな拍手を受けて、ヴァイオリンを片手に持った卒業生が舞台袖へ引く姿が映っている。

 影アナが最後の演奏者の名前と曲目を読み上げる。

 ふたりの演奏曲は、著名な作曲家が書いたチェロソナタだ。ピアノとチェロが、対等に絡み合う難曲として知られている。

 アナウンスが終わると、舞台袖から、エレナと真弓が現れる。すぐさま客席から、ふたりを祝福するかのように万雷の拍手が鳴り響く。

 拍手が止む。ホールは水を打ったように静まり返る。

 真弓は、ピアノの椅子に腰かけて、チューニングのための一音を鳴らす。

 エレナは、その音に寄り添うように、抱いたチェロを一度だけ弾く。

 ――完璧なユニゾン。

 大丈夫。ふたりの音は、ぴったり合っている。

 真弓が、鍵盤に指を乗せて晴れやかな笑顔でエレナを見つめる。エレナは、微笑して真弓に頷き返す。

 ふたり、すっと息をする。

 チェロの弦に、弓がかかる。


 ――ふたりの秘密を、そのチェロだけが知っている。



 ―終―



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