笑う奇術師
ヴァイオレットは、今まで生きてきて一番といっていいほどに動揺していた。
リュークに付き従うにあたって、戦闘の訓練はもちろん積んでいた。
しかし、こんな敵と戦うのは初めてである。
故に、ただの幻覚一つに惑わされてしまっているのだ。
「……あなたの能力は分かりました。ですが、それで私が倒せるとは思わないことですわ!」
「それはどうでしょう? あなたのような人は簡単に幻覚に引っ掛かりますからね。案外簡単に負けてしまうかもしれませんよ?」
「そんなわけが――」
彼女が口を開いた瞬間、突然地面の一部から鉄の槍が飛び出す。
それはヴァイオレットの腹部を貫き、血を滴らせた。
「――んん……あぁぁ!」
ヴァイオレットは頭を振り、幻覚を振り払う。
当然のことながら、腹部に穴など空いていない。
いつの間にか槍なども消えていた。
「おや、バレてしまいましたか」
「小賢しいですわ……! こんなことを繰り返したところで、私を倒すことなどできない!」
「そうでしょうかね? ならばこれはどうです?」
「っ!」
今度は無数の槍が地面から飛び出し、ヴァイオレットの全身を貫く。
脳というのは、厄介なものだ。
どんなに幻だと思っていても、視覚で捉えた情報はほんの一瞬脳を騙してしまう。
あるはずもない痛みを、知覚してしまうのだ。
それは全身の動きを止め、たった一秒ほどの隙を作り上げる。
彼らの戦いにとって、その一秒とは無限にも等しい時間。
ファントムは即座に間合いを詰めると、ヴァイオレットに腕を突き出した。
「ふっ!」
ファントムの掌底が、ヴァイオレットの腹部に突き刺さる。
灰の中の空気を吐き出しきり、声が詰まった。
「勝負ありですね」
「勝負……あり? 馬鹿をいわないでくださいまし……面白いのはこれからですわ」
「何ですって? ……っ」
ヴァイオレットが不敵な笑みを浮かべた次の瞬間、ファントムが膝から崩れ落ちる。
耐え切れない吐き気に襲われ、ファントムは地面に大量の血液を吐き出した。
目もかすみ、息をすることすら難しくなっていく。
「ようやく私の能力が効いてきましたわね。警戒して分散させてしまっていたのが悪手でしたわ」
「何を……した? ごほっ」
「何となく察しはついているのではなくて?」
「ど……毒ですか……」
「その通りですわ! 大変愉快な能力でしょう? 私はリューク様に魔石をいただいてから、こんな風に毒を放出できるようになりましたの!」
ヴァイオレットの掌に、紫色の球体が現れる。
それを地面に叩きつけると、周囲に紫色の瘴気が漂い始めた。
瘴気をファントムが吸い込んだ瞬間、さらに大量の血液を吐き出し、目から血の涙を流しだす。
「ごほっ……がっ……」
「形勢逆転ですわね。私の毒は体内に取り込んだ時点でじわじわと死に至らしめるものです。少々地味であることは否めませんが、手を汚さずに殺せる良い能力だと思っているの。もちろん、短い時間で大量に摂取すれば、一瞬で死に至らしめることも可能ですわ! このように!」
ヴァイオレットの手が、紫色に変色する。
そして膝をつくファントムを貫かんと、腕を突き出した。
「くっ」
貫かれる直前、ファントムは力を振り絞り横に転がってかわす。
すると驚くことに、地面に突き刺さった彼女の指を中心に、地面すらも紫色に変色していく。
ファントムは直感で、触れている部分まで毒に変えてしまうことを察した。
「逃げるだなんて連れないお方。私のプレゼントが受け取れませんの?」
「殺意のプレゼントは……ごほっ、いらないかな……」
そう返したファントムは、ここにきて一番の量の血液を吐き出す。
自分の死が間近に迫っている。
それを強く実感させられた瞬間だった。
「このまま放置しても、間もなくあなたは死ぬ。けどそれでは面白くありませんわ。私はこの手に命を奪った感触がしなければ気が済みませんの」
ヴァイオレットが、ファントムの首を掴み上げる。
逃れようと動いたファントムだったが、先ほどの回避で力尽きてしまったためか、動くことすらできずに捕まってしまった。
「ぐぅ……あああぁぁ……!」
「ほら、ますます苦しいでしょう? 喉から侵されていく感触は」
ファントムの喉が徐々に紫色に変わっていく。
呼吸が完全にできなくなり、脳も内蔵もすべてが毒に侵されていった。
やがて全身から血を吹き出しはじめ、ファントムは痙攣だけを繰り返す物体に変わってしまう。
「もうお返事もできないですわね。ふぅ、それなりに能力も試せましたし、そろそろ開放してさしあげましょう」
ヴァイオレットの腕が、ファントムの胸を貫く。
心臓を破壊されたファントムは一度大きく跳ねたが、その後まったく動かなくなってしまった。
絶命したことを確信したヴァイオレットは、腕を引き抜き地面に死体を投げ捨てる。
「さて、オレンジの方はどうなったのかしら。リューク様が負けることはまずありませんし、苦戦しているようだったら助太刀した方がいいかも――――え?」
ヴァイオレットは振り返り、驚愕する。
なぜなら、そこにファントムの死体がなかったから。
そして気づく。
周囲の景色が、先ほどとはまったく違う景色になっていることに。
「……そういうことね」
今度はヴァイオレットが膝をつく。
こうしているうちにも、周囲の景色は幾度となく変化した。
やがて視界の端から徐々に街並みが崩壊していく。
崩壊した場所には何もなく、ただ無を表す黒が侵食するように広がっていた。
ヴァイオレットは天を仰ぎながら、乾いた笑い声を漏らす。
「ふふっ……初めから掌の上だったってことかしら」
ひとしきり笑うと、ヴァイオレットは拳を強く握りしめ地面を叩いた。
「――――出して。ここから出して! こんなところで死ぬのはいや! せめてリューク様の前で死なせて!」
とうに彼女の表情は崩れ切り、残っているのはただ泣き叫ぶ女の姿。
やがて世界は崩壊し、黒く何もない空間だけが残る。
その中心で泣き叫ぶヴァイオレットに、助けが来ることはなかった。
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「ようやく落ちましたか」
ファントムは、目の前で膝をつくヴァイオレットの頭から手を離す。
ヴァイオレットはうつろな表情でうなだれており、動く気配はない。
それもそのはず。
ヴァイオレットはファントムが作り上げた幻の世界に、永遠に閉じ込められてしまったのだから。
「毒の魔術ですか、まともに戦わずに正解でしたね」
ファントムは手を払い、彼女に背を向ける。
そして首だけで視線をヴァイオレットに向けると、小さく微笑みかけた。
「――良い夢を」