拒否する魔王
「何だ……この空気」
村の方へとたどり着いた俺は、まずこの村の異様な空気に気づいた。
まるで空気中に甘ったるい砂糖の香りをぶちまけたかのような、くどすぎるが故の不快感。
「どうしたんだよ、アデル。変な顔してるぞ?」
「ディアン、お前これに気づかないのか?」
「気づかないって……別におかしなところはないと思うんだが」
なるほど、ディアンは感じてない。
少し村人の様子にも目を向けてみれば、慌ただしくはしているものの、この空気に気づいている者はいないようだ。
「イスベル、お前は?」
「少し妙だな……と思うくらいには。生憎、貴様よりは感知能力が低くてな」
「いや、十分だ」
おそらく、この甘い香りは人の意識に干渉して、特定の場所に誘う魔術だ。
魔物の中には図体が大きすぎて自力で動けないため、こういった香りなどを分泌して獲物を誘い込むものがいる。
つまりは、何者かが、目的を持って、この村に魔術の込められた空気を流しているのだ。
村まで降りてこなければ分からなかったことから考えると、高い位置までは香りが来ていないらしい。
「村の大人でいなくなった人は?」
「い、今の所いねぇと思うけど……」
「なら、子供にしか効果のないタイプの魔術だな。多分魔力をたどっていけば、発生源にたどり着けるはずだ」
「その先に子供たちがいるってのか!?」
「あくまで予想でしかないけど……な」
子供だけを狙うとは、相当性格が悪い。
人である可能性もあれば魔物である可能性もあるが、どちらにせよかなり危険な状況だ。
早々に子供たちを助け出さなければ、取り返しのつかないことになってしまう。
「俺はイスベルとともに、魔術の発生源をたどる。ディアン、お前は村の入り口を封鎖して、これ以上子供たちがどこかへ行かないようにしておいてくれ」
「わ、分かったが……お前らだけで大丈夫か?」
「問題ない。すぐに戻るさ」
俺は一言イスベルに声をかけて、全力で走り出す。
妙に嫌な予感がした。
早めに対処しなければ、何かが終わってしまうような――そんな感覚だ。
◆
「っ! アデル、私にも分かるようになったぞ」
「ああ、近いな」
森の中へと入っていくと、分かりやすく香りが濃くなっていた。
この先に、主犯がいる。
「……アデル」
「ん、どうした?」
並走していたイスベルの表情が、いつの間にか曇っていた。
何かを言い出すか言い出さないか迷っているような、そんな顔だ。
「……何か心当たりがあるのか?」
「っ……」
少し驚いたあと、イスベルは一つ頷く。
そして、心底話しにくそうに口を開いた。
「この魔力の感じ……私は少し心当たりがある」
「――魔族か?」
「うむ。私の部下に、こういった魔術を得意とする男がいるのだ」
話している内に、俺たちはもっとも香りの強い場所に近づきつつあった。
目の前の茂みの向こう側、おそらくそこが発生源だろう。
「その男の名は――」
俺たちは茂みを飛び越え、向こうの地面に着地する。
それと同時に、聞き慣れぬ男の声の、驚きと歓喜の入り混じった叫びが鼓膜を揺らした。
「おやおやおやおや!? これはこれは、魔王様ではないですかぁ! こんなところでお会い出来るなんて……本日は大変良き日ですね!」
「……魔王親衛隊、一番隊隊長――――ファントム・ロード」
男は派手なマントを華麗に翻すと、横に控えていた女性とともに歩み寄ろうとしてくる。
ファントム・ロード……魔王城へ乗り込んだときに一度だけ戦ったことがあったはずだ。
そのときは仮面をつけていたため顔までは覚えていないものの、この魔力は覚えがある。
「いやはや、海を渡りこんな辺境の地まで来たかいがありましたよ。魔王城は現在てんてこ舞いでしてねぇ。早いところ戻ってきてほしいのですが……」
「っ! それは出来ない! 私はもう魔王などうんざりなのだ……何だったら、新しい魔王でも選べばいいだろう!」
「それは出来ません。あなたが魔王の心臓の持ち主である限り、簡単には引き継げないのですから。責任があるのですよ。魔族たちを導かなければならないという責任が、あなたにはあるのです。魔王イスベル様」
ファントムは薄ら笑いを浮かべながら、そう口にする。
イスベルは言葉を聞くたびに表情を険しくし、今ではファントムを視線で殺す気なのかというほどに睨みつけていた。
「さあ、戻りましょう。あなたにはまだたくさんの仕事が残っているのですから!」
「戻って――たまるかッ!」
イスベルが腕を横に振る。
するとファントムと彼女を隔てるように、氷の壁が出現した。
「私のこの生活を崩そうとするならば、私は貴様でも容赦しない!」
「ふーむ……仕方ありませんね」
ファントムは肩をすくめながら、一度指を鳴らす。
すると、いつの間にか両手剣を構えていた横の女性が、前へと出てきた。
「イレーラ……っ!」
「魔王様、申し訳ありません。魔王親衛隊一番隊副隊長、イレーラ・フルート。貴方様を連れ戻すため、この剣を振らせていただきます」
イレーラと名乗った目の前の女性は、脇に構えた両手剣を横薙ぎに振るう。
俺はとっさにイスベルを抱え、後ろへ跳んだ。
その一拍後、氷の壁に一線の切れ込みが入り、砕け散る。
見れば、空中にイスベルの髪の毛が数本舞っていた。
あのまま立ち尽くしていれば、おそらくイスベルだろうと深手を追っていただろう。
「す、すまぬ、アデル」
「冷静になれ。ファントムを相手にお前が動揺しっぱなしじゃ、さすがに手に余る」
どこからともなく、拍手の音が聞こえてくる。
ファントムだ。
手応えがなかったことに驚くイレーラをよそに、ファントムは感嘆の声を上げた。
「おお、ただの村人かと思いきや、良い身のこなしですねぇ。イレーラの斬撃をかわすとは……あなた、何者ですかぁ?」
「話す必要はないな」
俺は魔族と戦う際、常に兜で顔を覆っていた。
だからファントム含め、イスベル以外の魔族は俺の顔を知らない。
下手に魔力を解放しなければ、気づかれることもないだろう。
ただ、解放せずに済むとは思えないが――。
「イレーラ、下がっていなさい。魔王様とこの男を相手にするとしたら、君では少々荷が重そうですからねぇ」
「……はい」
イレーラは両手剣を鞘に収め、後ろへ下がる。
俺とイスベルが身構えると同時に、ファントムの周りの景色が歪み始めた。
ファントムの戦闘態勢である。
「魔王様と手合わせするのは初めてですねぇ。さて、一番隊隊長、ファントム・ロード――重い腰を上げさせていただきましょう」