盲目の来訪者
このまま目が見えなくなったら、いつか自分が消えてなくなってしまうのではないか。
昔……まだ小学生くらいの頃は眼鏡をかける度に考えたことだが、成長するに連れてその懸念は消えていった。
いや、正確に言えば消えたわけではない。ただ常に怯える必要はないと解っただけだ。
酷使し続ければ失明もありえる。視力も歳をとれば悪くなっていく。だけどそれは今すぐではないし、目の使い方次第、矯正の方法次第でいくらでも対処することが出来る。文明があまり発達していなかった頃に比べれば、現代は物で溢れかえっていることだし。
とは言っても、気を付けようという気持ちがなければ意味のないことだが。
「会長はそんなふうに考えたことありませんか? 今思うと、何であそこまで怖く感じられたのか、昔の自分が不思議なんですよね」
眼鏡の位置を直しながら、俺――前川大地は生徒会室の鍵を閉める。
時刻は下校時刻の三十分前。普段なら下校時刻を超えてから帰る準備を始める俺たち生徒会役員だが、今日は珍しく仕事が少なくて暇を持て余していた。そのため、偶には早々に下校してゆっくり休もうということになったのである。他のメンバーが先に帰って、最後に俺と会長が戸締りをするのはいつものことだ。
「目が見えなくなる、か。懐かしいな、確かに私もそう感じたことがあったよ」
扉に手を伸ばして鍵がしっかり閉まったことを確認すると、短い茶髪に赤いフレームの眼鏡を掛けた彼女――大枝佳苗生徒会長は歩き出す。鍵を制服のポケットに仕舞いつつ、俺も後に続いて「ですよね」と言った。
「何であんなに怖かったんだろう……」
「たぶん、自分の世界が変わってしまうからじゃないか?」
薄暗くなった廊下を照らす照明の下。首を傾げながら階段を下り始めると、前を歩いていた会長が振り向かず答える。
「人が五感で得られる情報の中では、視覚の情報量が断然多い。その視覚が使えなくなれば、本人の世界は文字通り一変するだろう。それが怖かったんじゃないか?」
「変わることが、ですか」
会長は頷く。確かにその通りかもしれない。
昨日まで見えていたものが見えなくなる、出来ていたことが出来なくなる、判っていたものが判らなくなる。それはどれだけ怖いことだろう。
実際に体感したことがないので想像するしかないが、出来れば想像したくない。脳が恐怖を感じるより前に本能が拒絶反応を示しているのだ。
悪寒が背骨に沿って体を走り抜け、俺は頭を左右へ振る。
「慣れとは恐ろしいものだな。昔は眼鏡を掛けるだけでもそんなことを考えていたのに、今では掛けて当たり前になっているんだから。――そういえば、前川はなんで今日だけ眼鏡なんだ? 似合っているが」
「今更訊きますか、それ」
苦笑しつつ三階から続いていた階段を下りきると、左へ方向転換して職員室に向かう。
確かに普段の俺は寝る前くらいにしか眼鏡は使わず、日のあるうちはコンタクトレンズをしている。では何故今日だけという質問だが、答えは至って単純で寝坊したのだ。しかも家にコンタクトを忘れたため、替えようにも替えられなかったのである。
「何時に寝たんだ?」
「えぇっと、四時頃ですかね」
「ほぼ徹夜じゃないか」
呆れたように溜息を吐く会長。返す言葉もございません。
「そんな時間まで何をしていたのか知らないが、程々にしておくようにな。あまり根を詰めすぎると体が保たないぞ」
「根を詰めすぎて文化祭前日に倒れた会長が言います?」
蹴られた。痛い。
職員室に鍵を返して俺は一年生の下駄箱へ、会長は二年生の下駄箱へ向かうため一旦分かれた。
上履きを学校指定の外靴へ履きかえて外に出ようとする直前、ガラスに自分の姿が映ったので見てみる。短い黒髪に、見慣れない眼鏡のまま制服を着ているという状況。今まで意識しなかったが、似合っていると言われてから妙に気になってしまう。似合っているのだろうか、多少は格好良くなれただろうか。会長は……眼鏡の方が好きなのだろうか?
緩みそうになる頬の筋肉を引き締め、外で待っていると間もなく会長がやってきた。うちの高校は徒歩だったり自転車だったり、バスだったり電車だったりと生徒によって登校の仕方が違う。その中で俺たちは方向こそ正反対だが同じ電車という手段を使っているため、よくこうして駅まで一緒に下校していた。
「お待たせ」
「いえいえ。じゃ、行きましょうか」
運動場を囲むようにしてある舗装された道を進み、校門を潜る。夕日が差し向けてくる光は強く、道を行く人の長い影が幾つも歩道の上で踊っていた。
「そういえば、さっきの話なんだが」
「はい?」
「目の話だ。昔、近所の本屋で不思議な人を見かけたことがあったことを思い出してな。二、三年くらい前のことか。一人で杖をつきながら、本屋の中をぐるぐる回ってそのまま出ていく男性がいたんだ。頻度は判らないが、私が本を買いに行くといつもいたな」
「単に足の調子が良くない人じゃないんですか?」
会長は首を左右へ振る。
曰く、その男性は杖で足元を確認するように歩いていたらしい。足取りはゆっくりでも確かなもので、仕草や杖の使い方からして男性の目が見えていないことは一目瞭然だったとか。
「変だと思わないか? 杖をついて歩かないといけないなら、目の症状はかなり進んでいるはずだ。そんな人が古本屋でもない本屋に何の用事がある?」
「古本屋なら良いんですか」
「読めなくなった本を売りに来たのかもしれないからな。もちろん誰かの助けを借りる必要はあるが」
あぁ、なるほど。
会長の言う通り、その男性が本当に視力を失っていたなら不思議な話である。一体何のために本屋へ来たのだろう。
最近は本の中身を音声で読み上げる機器なども本屋で売っているらしいが、どうやら目的はそれでもないようだ。一人で買い物が出来たとして、買い物が目的なら会長も不思議には思わないはずである。
加えて今の話を聞く限り、男性は店内をぐるぐる回っているだけらしい。もし下見に来て結果的に一周するだけになったのだとしても、何度も本屋へ訪れる必要はない。そして目が不自由なら、誰か付き添いが必要だったはずである。それがないということは、目的は別にあると考えた方が自然だろう。
点滅を始めた横断歩道で立ち止まり、信号が変わると同時に目の前を何台もの車が過ぎ去っていく。時々車が反射する光に目を細めて空を見上げると、朱と蒼の混ざり合った空では既に幾つか星が輝いていた。地面と星の間では、今にも消えてしまいそうなほど薄い雲が気楽そうにのんびり泳いでいる。
……もし視力を失ったら、こんな何気ないことも出来なくなってしまうのだろうか。天を仰ぐことは出来ても、何があるのかどうなっているのか判らない。空はおろか、足元に石が落ちているのかさえ自分では判断出来なくなるのだ。本も、テレビも、パソコンも、ゲームも、その他の目を使うことは大半が出来なくなってしまう。
会長が見たという男性は、一体何を楽しみにしていたのだろう。
「どうだ、名探偵前川。何か考え込んでいるみたいだけど、答えは出そうか?」
何時の間にか空より高い天を眺めるようにして呆然としていたらしく、隣から聞こえた会長の声で我に返った。一見いつも通り真面目な表情をしている会長だが、眼鏡の奥にある瞳が面白そうだと言わんばかりに輝いている。
物思いに耽っていただけなのだが、どうやら謎を解くために頭を回転させていたと思われてしまったらしい。
確かに俺はこういう謎が好きだ。例えるならそれは目の前に置かれた知恵の輪のようなもので、出来るか出来ないかは別にしてつい手を出してしまう。そして会長が持ってきた知恵の輪を、実際に俺は幾つか解いたことがあった。下校中に謎を持ち出され、色々推論を飛ばすことも珍しくない。
しかし俺は決して名探偵ではない。名探偵とは確実な証拠、もしくは揺るがない論理を見つけ出すことで事件を解決していくものである。
だが、自分が納得出来て誰にも迷惑をかけないなら、出した推理が当たっていても外れていても構わないと俺は思っている。数学ではないのだから、人生における答えなどテキトーに作り出してしまっても良いではないか。あんまり肩肘を張りながら生きていては早々に疲れてしまう。
だから謎解きは好きでも、考えてみるか否かはその時の気分次第だ。
今はどちらかと言うと考えるつもりはない気分だったのだが、傍らから向けられる視線は期待で満ちている。この人の期待はあまり裏切りたくない。
やれやれ。こうなったら乗りかかった船である。駅に着くまでの間だけ頭を働かせてみるとしよう。
眼鏡を直し、小さく息を吐いてから訊ねる。
「今の状況ではまだ何も。――その男性がいた本屋はどんな感じでした? 活気があったとか、逆に静かな感じだったとか。店自体に特徴は?」
「そうだな……お店はいつも賑わっているわけでもないが、静かなわけでもない。特徴という特徴もなくて、どこにでもあるような雑誌や文庫、新刊の単行本と文具を少し売っているチェーン店だ。よくクラシック音楽が流れている。喫茶店と隣り合っていてコーヒーの匂いがよくするけど、それもチェーン店系の本屋なら珍しくないし。……あぁ、でも他の本屋ではダメだったみたいだな。あのお店だけが彼のお気に入りだったらしい」
「どういうことです?」
会長が歩きながら考え込むと同時、街路樹からカラスが飛び立った。遠目だとどこに目があるのか判らない真っ黒な鳥は、カァカァと鳴きながら蒼い空の下へ姿を溶け込ませていく。
「一度、その人を別の同系列の本屋でも見たことがある。たしかその時は、一歩中へ入っただけで首を左右へ振って出て行ったんだ。で、またいつもの本屋に来ると満足そうにして店内を回っていたよ」
同じチェーン店でも、いつも行く店は良くてその他はダメ。つまり会長の家の近所にあるというその本屋にのみ、何か彼の気を引くものがあったということか。ふむ。
「何が違うんでしょうね」
「パッと思い当たる限りだと、ダメだったお店は喫茶店と隣り合っていなかったな。他のことは判らない」
喫茶店、か。
喫茶店と言えばコーヒーの香りと味を楽しむ場所だから、別に目の見えない人がいても不自然ではない。あの独特な雰囲気が好きだという人もいるだろう。
しかしそれが目的なら本屋へ入る必要はない。むしろ本屋は目で楽しむための場所だから、目の見えない人にとってはあまり面白くない場所のはずである。それでも頻繁に来ていたのだから、やはり何か用事や楽しみがあったのだろう。仕事でもなさそうだし、そんなに本屋へ行かないといけない用事など想像もつかないが。
「目が見えない、ねぇ」
後頭部の黒髪を掻きながら呟く。喉の奥で妙に引っ掛かっているものはあるのだが、それが何なのか判らない。
集中しようとしても、車道を走り過ぎていくトラックの荷台が耳を引っ掻くような音を出して集中させてくれない。遠くに見える空は既にほとんど朱色がなくなっていて、落ち着く夜の暗い雰囲気を醸し出している。どこかの家では今晩、カレーを食べるらしい。
……カレー?
喉の奥で引っ掛かっていたものが取れた。なるほど、そういうことだったのか。仮定に仮定を重ねた話だけど、これなら納得出来る。
駅の前にある信号機で再び立ち止まり、黙って俺を見ていた会長へ視線を向ける。会長は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに視線をずらして冷静になる。
「何か判ったのか?」
「えぇ、たぶん。こうなんじゃないかと思う考えが一つだけ」
「ほう、聞かせてくれないか」
青になって歩き始めれば、すぐ目の前が駅だ。折角だし、駅の外にある自動販売機で飲み物を買ってから話すことにしよう。
俺は自動販売機に小銭を入れつつ言う。
「まず前提の確認ですが、会長が見かけたその男性は目が見えていなかったんですね?」
「そんな感じだったな。あれは普通の人や、足が不自由な人の歩き方じゃなかった」
「だけど本屋へ来ていた?」
買ったジュースを取り出しながら頷く会長に、俺も頷き返す。
「杖を使っているとはいえ一人で行動しているなら、最初から完全に視力を失っていたわけではないはずです。つまり後天的に目が見えなくなったと考えた方が自然でしょう」
原因が事故なのか病気なのかは判らないけど、今は関係ない。
続ける。
「男性は本が好きで、以前は読書家だったんでしょうね。そうでなければ目が見えなくなった後も本屋に来るのはおかしいです」
「そこまでは判る。……だけど目が見えなければ本は読めない。結局あの人は何が目的だったんだ?」
確かに本が読めないとなれば、本屋の魅力は大部分が削がれる。
しかし今回、会長が何気ない日常から謎という楽しみを見つけられたように、楽しみ方というものは視点を変えれば幾らでもあるらしい。残念ながら俺には探し出す能力がないけど、既にあるものを想像することなら出来る。
「会長、目に見えるものだけが全てとは限りませんよ」
「どういうことだ?」
首を傾げて揺れる茶髪に対し、自分の鼻を指差す。
「本屋独特の匂いを楽しみにしていたとしたら、どうです?」
あっ、と言う小さな声。
紙が放つ匂いは微かなものだが、他ではなかなか味わえない。そして新品の本の匂いは本屋によって微妙に異なるし、図書館や古書店のものとは全く違う。本に触れることが多い人ならお気に入りの店や、あまり好きではない店があったとしても不思議ではない。
「いや、それでも入った途端に『ここはダメだ』と判るものか? 確かに紙の匂いは独特だけど、本当に微かなそれを一瞬で判断するなんて……」
「難しいでしょうね。俺なんて何となく違いが判っても、全部似たようなものだとしか思いませんし」
「じゃあ、あの人は何でそんなことを?」
買ったジュースで喉を潤してから、今度は髪のかかった耳を指差した。
「匂いは判らなくても、雰囲気なら判ると思いますよ。どんな音が流れているのか、店内の喧騒はどれほどか、流れる空気は心地良いものか」
どこの店でも大抵は音楽やラジオを流している。そしてそれがラジオから最近のヒットソング、ヒットソングからクラシックへと変わることは滅多にない。
無意識のうちに耳が拾う音楽や番組が好みでなければ長居は辛いだろうし、好みならつい長居をしてしまうこともある。尤も、気付けば時間が過ぎ去っていたと言った方が正確かもしれないが。
男性はそうやって、鼻で匂いを感じる前に耳で店内の雰囲気を感じ取っていたのではないだろうか。ここは落ち着ける、ここは落ち着けないと区別しながら。
残ったジュースを一気に呷り、空になった缶をゴミ箱へ投げ入れる。瞬間、下から上へ駆け抜けるように一陣の風が吹き抜けた。
「うおっ」
「きゃっ!」
木の枝が激しく揺さぶられて音を出し、落ちていた木の葉が勢いよく巻き上げられ、小さな悲鳴があちこちから上がる。
突然の突風に俺と会長が何歩かよろめくと、今の風で流されたのか駅前を走っていた車が目の前で不自然な動きをした。怖い。
「……見たか?」
「いえ、なにも。なにも見ていませんよ?」
風が通り過ぎると同時、スカートを押さえた会長が赤い顔で睨んでくる。視線がドリルのように俺を掘っていくけれど、見てませんってば。際どかったけど、必死に隠したものは見えませんでしたよ。くそう。
一瞬だけ上へ引っ張られるように逆立った黒髪はすぐ重力に負け、触っただけでも凄いことになっているのが判るほど乱れていた。それは会長も同じで、ひとしきり俺を殴り終えると鞄から出した手鏡で髪を整え始める。軽くとはいえ鳩尾にも入れるなんて酷いや。
「それにしても……あの人は何でそんなに本屋へ来ていたんだろうな。他に楽しめることはなかったのか?」
「さぁ、何とも言えませんね」
さすがにそればかりは本人に聞かないと判らない。暇だったから来ていたのか、心を落ち着かせられる場所が他になかったから来ていたのか。
どちらにしても問題の男性がどこの誰かなんて知らないし、何年か前の話だということは、既にその人は本屋に来なくなったのだろう。いたとしても以前ほど頻繁ではないだろうから、会うことも難しいはずだ。仮に会えたとして、どうやって確かめるのかという問題がある。正しい答えを知る方法はない。
だけどそれで良いんじゃないだろうか。今は学校の試験中でもなければ、推理小説の中で殺人事件を捜査しているわけでもない。絶対の正解を導き出す必要はないし、間違っていたところで誰の迷惑にもならない。
それに、人生なんて大半がテキトーなものや事実で出来ているのだ。勝ち負けや正否といった形で白黒付けなければいけないことなんて本当にごく僅かだし、生きていくうえでは灰色の部分の方が重要になることも少なくない。アバウトに生きた方が上手くいくことだって多いのだ。
死んだ祖父さんの言葉だが、高校に入学してからはその通りだと実感している。大人へと肉体的にも精神的にも近づく度、割り切れないことの方が多くなっていく。
そう、この胸にある失明についての恐怖だって割り切れるものじゃない。子供の頃とは違う質の恐怖がじわじわと心を蝕んでいく。言葉にしようと思っても出来ないこれは、どうやって表現すれば良いのだろう。
いつか家族も、友人も、誰も、会長の顔も見えなくなったら俺は――。
「前川? どうかしたか?」
何時の間にか俯いていたようで、会長の心配そうな顔が下から覗き込んでいた。
驚きつつも無理矢理笑顔を作って誤魔化すと、一瞬見つめられた後に頬を左右から掴まれ伸ばされた。むにー。
「ひゃ、ひゃひふるんれふか」
「何するんですか、じゃない。お前、今くだらないことを考えていただろう」
眼鏡越しに目から心の中を読まれたようで、心臓が跳ねる。すると会長は更に俺の頬を伸ばした。痛い痛い。
「安心しろ。何を心配しているのか知らないが、お前に見えないものがあるなら私が見てやる。どうしていいか判らないなら、私が手を引いてやる。お前は大船に乗ったつもりで私にどこまでも付いて来ればいい。解ったな?」
一も二もなく頷く。とにかく頬が痛い。
「よし!」
そして頬から手を離しつつ浮かべるのは、初めて会った時と同じ自信に満ちた笑顔。だけど生徒会長になったばかりの時の固いものとは違い、とても温かく柔らかな微笑み。普段の凛々しい姿からは想像が難しく思えるほど、今の会長は一人の女子に戻っていた。
思わず見惚れていると、心を蝕んでいた恐怖はどこへ行ったのか。すっかり影も形もなくなっている。それどころか隙間から湧水が溢れてくるように、胸の奥が温まっていく感じがして、思わず俺は唇の端をあげた。
「む、なぜ笑う」
「いえ、すいません。自分でも判らないんですけど、つい。――行きましょうか、そろそろ電車に乗らないと遅くなりますよ」
すっかり蒼くなった空を見上げ、俺たちは鞄から定期入れを出す。腕時計を見れば、結局いつも通り生徒会の仕事を終わらせてから駅に着いたくらいの時間だ。話し込んだものである。
改札を通って別れの挨拶をしてから、俺たちは反対のホームへ続く階段を上る。丁度会長の方は電車が来ていたようで、俺が反対側のホームに着くと小走りで乗り込んでいく姿が見えた。間もなく電車は動き出し、あっという間に距離が開いていく。
さてどうするかと電光掲示板を見れば、こちらはまだ五分ほど余裕がある。立ちっ放しも疲れるのでベンチへ腰を下ろすと、今さっき聞いた言葉が脳裏に蘇ってきた。
眼鏡を外せば、さっきまでハッキリ見えていた世界が急に霞む。昔はこれが怖くて仕方なかったが、今はもう怖くない。
会長は自分の世界が変わってしまうから怖いのだろうと言っていたが、たぶん昔の俺が恐怖を感じたのはそれだけじゃない。誰の存在も感じられなくなると思ったからだ。見えるものだけが全てで、それ以外のことからは人の温もりを感じることが出来なかった。それ故に俺は恐怖を感じていたのである。
それが怖くなくなったのはきっと成長したからだけではなく、多くの大切なものを手に入れたからなのだろう。転んだら支えてくれて、倒れたら差し伸べてくれる手がある。見えなくても、確かに誰かの温もりがそこにある。
学校でも家でも教えてくれない、だけど何より大切なこと。それを教えてくれた会長には、明日あたり何かお礼として差し入れでもした方が良いかもしれないな。飴とか。
やってきた電車に乗り込みつつ、俺は何を差し入れにするか悩み始めた。