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はるあらし  作者: 雨咲はな
本編
8/45

8.相互理解事始め



 腕時計に目線を落とし、時刻を確認した。

「……ハルさん、ちょっと早いですけど、夕飯をご一緒しませんか」

「はい、喜んで」

 ハルさんからにっこりと了承の返事を貰って、少しほっとする。最初の予定では、無難なデートコースとして、映画を見て、どこかで適当に時間を潰してから、女性が喜びそうなイタリアンの店に案内すればいいかと考えていたのだが、随分と大幅な予定変更となったものである。

「何か食べたいものは、ありますか」

「哲秋さんにお任せいたします」

 またまたニッコリだ。絶対わざとだな。最初にハルさんに見透かされてしまった以上、意地でも小洒落たイタリアンの店なんかには連れていけない。

 これまでで判明したハルさんの好みというと……やっぱり肉か。

「ここから少し離れた場所なんですけど、鉄板焼の店があるんですよ。そこでもいいですか?」

 繁華街から離れた閑静な住宅街にある、一軒家のような落ち着いたたたずまいの店で、黒毛和牛のいい肉を出してくれる。ワインも質のいいものが揃っているし、雑誌やテレビなどで紹介されるのを断っているので、なにしろ静かだ。難点といえば、ここからけっこう距離があることだが、まだ早い時刻なので、移動時間を考えるとちょうどいいくらいかもしれない。

「素敵ですね。お肉、大好きです」

 ハルさんは嬉しそうに笑った。あまり女性の口からそういう台詞を聞いたことはないが、素直に大好きと言ってもらえるのは、こちらも嬉しい。

「じゃあ……」

 ということで、その場で店に電話を入れる。遅い時間に来る客が多いのか、それとも運が良かったのか、予約はすんなり取れた。

「そのお店の場所はどこにありますの?」

 ハルさんに訊ねられ、おれは大体の場所を説明した。口を動かしながら、ここからタクシーで一時間くらいかな、と頭の中で考えていると、それを読み取ったかのように、

「よろしかったら、電車でまいりませんか?」

 とハルさんに提案された。

「今の時間、道路は渋滞するかもしれません。電車で最寄り駅に行って、そこから歩くなりタクシーを使うなりしたほうが効率的ですわ」

「それは構いませんけど……でも、電車も混みますよ?」

 それでなくとも、デパート内を散々歩き回って疲れているのではないだろうか、と思って首を傾げたおれに、ハルさんはニコニコ笑ってぽんと自分の胸を叩いた。

「平気です。体力はまだ五十ほど残っておりますから」

 百のうちの五十、という意味なのだろうか。言い回しが独特すぎて判りにくい、ということはさておき、どうしてこんなに元気いっぱいなんだろう、この人。はしゃいであちこち走り回る小学生の子供みたいだな。

「夜になったらパタンと熟睡するのが元気のコツですわ、小学生の子供みたいに」

「…………」

 おれって、そんなに思ったことが顔に出るんだろうか。

「あら、でも」

 と、ハルさんが何かに気づいたように口許に手を添え、少し申し訳なさそうな顔をした。

「私は平気でも、哲秋さんはお疲れかもしれませんわね。午前中に走った時も、大分息を乱しておいででしたし……。まあ、私ったら、気が利かなくて恥ずかしいですわ。そうですわね、タクシーで」

「電車で行きましょう」

 ハルさんの台詞をぶった切って、おれは言った。はい、とニコニコするハルさんの笑顔が小憎たらしい。きっと、小学生か、という感想への仕返しだ。

 駅に向かって足を動かしながら、ハルさんは人を転がすのが上手い、と唸るように思った。



 電車内はやっぱり混んでいた。ラッシュ、というほどではないが、立っている人と人の間に隙間があまりないくらいに乗客が多い。

 で、まあ、そういう事態においてどういうことになるかというと、ハルさんという存在が、今までのうちでいちばん近くにあって、どうやっても完全には離れられない──つまりは身体のどこかしら一部分がぴったり密接してしまうことになるわけだ。これが困った。

 まったく見知らぬ他人だったらかえって気にならないのだが、ここにいるのは一応見合いをした相手で、一応現在のデート相手である。しかし互いにこれは期間限定の表向きだけの付き合いと判っている相手でもある。そういう微妙な関係の女性と、状況上やむを得ないとはいえぴったり身を寄せ合っているというのは、どうにも落ち着かない。今まで気づかなかったハルさんから仄かに漂う甘い香りまでにも、この至近距離では気づかずにはいられなかったりして、なおさらだ。

 ハルさんの、あまり化粧っ気のない、けれど白く滑らかな頬に、ともすると視線が引き寄せられそうになる。はじめて会った時も思ったが、睫毛が長い。くっきりとした二重瞼だな。時々きつい言葉を吐き出す唇だが、こうしてきゅっと閉じていると、なんだか妙に寂しいような気分にさせられるものだな──

 と考えて、我に返った。なにを見惚れているんだ。

「大丈夫ですか、ハルさん」

 なるべく人の波からガードするようにはしているものの、横から後ろからやってくる圧力まではどうしようもない。苦しくはないかと問いかけると、ハルさんがおれの顔を見上げてにこっと笑った。

 あ、頬に片えくぼ。

「大丈夫です。哲秋さんこそ、大丈夫ですか? 普段、あまり電車にはお乗りにならないでしょう?」

「まあ、そうですね。会社に行く時も自分の車を運転していくから」

 とはいえ学生の時は、通学にも出かけるのも普通に電車に乗っていたので、まったく慣れない、というわけでもない。坂田さんは桜庭家お抱えの運転手、というよりは、母専属の運転手という側面のほうが大きいため、運転してもらうにはまず母の都合を確認せねばならず、かえって面倒なのだ。

「ハルさんは、会社まではどうやって?」

「兄の車に乗せて行ってもらいますの。でも正直ヘタクソなので、毎朝生きた心地がいたしません」

 ふふ、と笑って、ハルさんはグサッと言った。

「ああ、そうか。お父さんとも、お兄さんとも、同じ勤め先になるんですよね」

「ええ。父は兄よりも運転がヘタですわ。私、あれに同乗するくらいなら、満員電車でもみくちゃにされて潰された方がマシです」

「…………。どんな運転なのか、逆に興味が湧きますね」

 言っている内容は酷いが、ハルさんの口調には、ちゃんと肉親への愛情が込められていた。イタズラ盛りの子供を持った母親が、「この子は本当に手がかかって」と目を細めて言う雰囲気に近い。

 ハルさんは多分、両親と兄に愛されて、温かい家庭で育った人なのだろう。

「そういえば、お父さんの具合はいかがですか」

 さすがにまだ退院はしていないのかな、と思いながら、おれはハルさんに訊ねてみた。見合いの席で、「しばらく入院すれば良くなる」と言っていたが、過労か何かだったのだろうか。

「まだ、入院しております」

「あ……そう、ですか」

 言葉少なに答えられ、ちょっと戸惑う。ハルさんは微笑を浮かべたままだったが、一瞬、わずかに目を伏せたようにも見えた。

 ──ひょっとして、あんまり思わしくないのかな。

 とは思ったが、立ち入るような内容でもない気がして、口を噤んだ。ハルさんがそれ以上はあまり言いたくないような素振りをしている以上、恋人でも友人でもないおれは、そこから先へ踏み込むのを遠慮するしかない。

「外が見えなくて少し残念ですわね。きっと今頃は、空が見事な夕焼けに染まっていることでしょうに」

 少し空いてしまった不自然な間を繕うように、ハルさんが電車の窓の方向に顔を向けて言った。立ち並ぶ乗客の頭で塞がれて、窓の景色は見えないが、隙間から黄金色の光が差し入っているのは判る。

「ああ、そうですね」

 何も考えずに返事をしてから、ふと思う。

 景色を彩る綺麗な夕焼けを、ハルさんはどんな表情で眺めて、どんな風に喜ぶんだろう。おれ自身はもう何年も、長いことそんなことは気にせず日々を送っていたけれど、きっとハルさんだったら、素直に驚いたり、素直に感心したりするのだろう。彼女の場合、そこからどういう言動をするのかまったく予想がつかないから、見られないのは少し残念だ。


 ……もしもハルさんと一緒に夕焼け空を眺めたら、おれもそれを綺麗だなと思えたりするんだろうか。



          ***



 目指す店に到着し、個室に通されて腰を下ろすと、ハルさんはどこからどう見ても慎ましやかなお嬢さん然とした顔と態度になった。クッションの利いた高級な椅子に座って、お人形のように上品に微笑む姿を見ると、屋上遊園地でショーの出演を果たしたり、ホットドッグをぱくぱく食べていたことが、夢のように思えるから不思議だ。

「……ハルさんは、TPOに応じて場に適応するのが非常に上手ですね」

「ふふ、どういたしまして」

 あまり褒めてないんですけど。

「その話し方も、そういったことの一部なんですか」

 ずっと気になっていたのだが、見合いの席ではともかく、ハルさんはおれの前では常に、「ですわ」とか「ですの」とかの、あまり一般的であるとは思い難い言葉遣いをする。

 最初は、おれが桜庭の人間ということで気を遣っているのだろうかと思っていたのだが、それにしちゃ、ハルさんのそれ以外の態度には、そのことにあまり気を遣っているようなところが見られない。なんかちぐはぐだよなあ、と、今日一日で、違和感を覚えていたところだったのだ。

「ああ、これ」

 おれの言葉に、ハルさんはくすくす笑った。

「この喋り方は私の癖ですの。聞き触りのよいものではないかもしれませんけれど、お許しくださいね」

「え、癖って……じゃあ、いつもそういう口調なんですか」

「そうです」

「もしかして、お友達や家族に対しても?」

「ええ、もちろん」

「…………」

 ちょっと言葉に詰まる。おれの前でだけ話し方を変えるというのもあまりいい気分はしないが、誰に対しても等しくこの話し方というのも、なんだか変だ。

「そんなのがどういう経緯で癖になるのか、そこからしてよく判らないんですけど」

「つまりはキャラ付けですわ、哲秋さん」

「はあ?」

 なんて?

「私の父は、以前から、一応ひとつの会社のトップという立場にあったわけなんですけれど」

 混乱するおれに構わずに、ハルさんは淡々とした調子で説明を始めた。それはいいのだが、説明を聞いてもまったく理解不能だったらどうしよう、と不安になる。

「小学生くらいですとね、そういうことを知ると、鬼の首を獲ったかのように『お前の父親、社長なんだろ! だったらお前、お嬢様だろ! オホホって笑ったりするんだろ!』なんてからかったり、囃し立てたりする幼稚な男の子がいたりしますの」

「ああ……」

 まあ、罪のない悪ふざけというやつだ。おれが通っていた学校では、大なり小なりそれぞれ財力のある親を持っている人間が多かったからそういうことはなかったが、小中高校と公立学校に通っていたハルさんの場合は、珍しく思われたとしても仕方ないのかもしれない。それでなくとも可愛いハルさんは、好意の裏返しとして、男子たちのからかいの絶好の的にもなっただろう。

「そうしますと、私も子供ですから、ムキになって」

「ははあ」

 そんなことない! と言い返したり?

「そうですわ、私はお嬢様ですの! オホホ! なんて言い返したりしますでしょう?」

「…………」

 すみません、同意を求められても困ります。

「やるからには徹底的にやる性分ですから、それ以来ずーっとその喋り方を続けてやったんですの。そうしたら、すっかり癖になって、直らなくなってしまいました。さすがに、オホホと笑うのはやめましたけれど」

 ふふっ、と可愛く笑うハルさんは、どうやら小学生の頃から変わった人だったらしい、ということだけはよく判った。

「何が普通で何が普通でないのかも判然としないのに、お嬢様、なんていう定義の曖昧な肩書を押しつけられても、困ってしまいますわよね?」

「ははあ……」

 と、おれは困惑しながら間の抜けた返事をする他にない。

「じゃあ、会社でもそんな感じで?」

「ええ。そこではどうしても、社長の娘、という目で見られるのは仕方ございませんから。でしたらいっそ、これを直すより、それらしく振る舞って強烈にキャラ付けしてしまったほうが、楽ではないかと思いましたの。実際、楽でした」

「…………」

 そこでおれは口を閉じ、考えた。

 問題提起から結論に至るまでの過程は、今ひとつ判らない。

 でも。


 ハルさんのその言い分にも、同意できる部分はあるな、と。


「──ハルさん、おれの勤め先をご存知ですか」

 突然の質問に、ハルさんは驚きもせず、「はい」とにっこり笑って頷き、おれの勤務先である証券会社の名前を出した。

 桜庭直系の企業は六つあって、どれも大手企業と呼ばれるものだが、おれの勤める証券会社もその中に入る。その直系企業の下にいくつもの会社が存在し、ハルさんの父親が経営する菊里商事などがそこに入る。

 桜庭のグループ、というのは知っている人間だけが使う便宜的なもので、公的なグループの名称はまったく違う。もちろん、メディアに出てくるのはそちらのほうだ。グループの最高責任者はおれの父、桜庭唯明だが、それぞれの企業の名前も違うため、一般の人は、それらの企業と桜庭の名前とをくっつけて考えることは、ほとんどない。

「多分、その会社の社員でも、よく知らないんじゃないですかね。ですから、父と兄に頼み込んで、おれはその会社では桜庭の息子であることは秘密にしてもらってるんです。もちろん、ずっと上の人は知ってるわけなんですけどね。おれの上司あたりはまったく知りません」

「まあ」

 ハルさんは目を瞬いてから、すぐに可笑しそうに噴き出した。

「でしたら、上司の方は、何も知らずに哲秋さんにお小言をこぼしていたりするわけですね」

「そうです。無理やり飲みに付き合わされて、上のやつらは何も判ってないんだー、なんて愚痴を聞いたりね」

 目を見交わし、同時に笑う。ハルさんも、やはり働いているだけあって、そのあたりのことはわざわざ言葉にしなくても通じるのだろう。

 しかしそこで、おれは口許の笑いを少し苦いものに変えた。

「──それは本当は、卑怯なことかもしれないんですけどね」

 両手を組み合わせ、ぽつりと呟くように言う。

「同僚も上司も騙してるってことに、時々罪悪感も覚えたりします。でもね、やっぱり、変じゃないかって思ったんですよ。右も左も判らない新入社員に、いきなり役職が付いちゃったり、給料面で破格の待遇を受けたりするっていうのがね。役職も給料も、どうせなら、それに見合った能力をつけてから受け取りたいじゃないですか」

 桜庭の息子として見られると、もうそれ以外の評価は貰えない。最初にそこで固定したまま、上にも下にも変動しない。それはキツいな、と、入社する時のおれは思った。だから自分の家のことを覆い隠して、誰の目にも見えないようにした。

「……でも本当は、ハルさんのように、堂々と立場を明らかにした上で、努力するなり勉強するなりすれば、よかったのかもしれないですね」

 後悔を混ぜてそう言うと、ハルさんはきょとんとして、それから不思議そうに首を傾げた。

「どうしてそんな風に仰るんでしょう。私と哲秋さんとでは状況も違いますし、立ち位置もまったく違います。哲秋さんのその考えは、とても真っ当なものだと思いますけど」

「……そうですかね」

「そうです。堂々としていらっしゃればよろしいです。私のように」

「いや、ハルさんのようには無理です」

 きっぱり言ったら、ハルさんがさらにきょとんとした。

 その顔を見たら、今まで溜め込んでいた鬱屈が少し軽くなった気がして、おれは笑った。




 ──どうして黙ってたの、となじる声が耳の奥でこだまする。

 この半年の間、ずっと頭から離れない女の声。


 どうして、どうして。

 知っていたら、私だって。


 ……どうしておれを責めるんだ。

 黙っていたおれが悪いのか?

 裏切ったのは、君なのに。




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